第18話 クリスという人物 【三人称視点】

 23年前。


 ヴァレリス王国北端に位置する海辺の港町「サン・クリル」。


 この街は北方に吹き付ける冷たい潮風のもと、長い冬と豊富な魚介資源に恵まれた土地であった。

 港には大小さまざまな漁船が行き交い、住民たちは日々の糧を海に頼っている。

 質素で厳しい生活の中、どこか閉鎖的で保守的な人々が多いこの土地は、王都からは遠く、異質な存在や怪異が忌避される風潮が根強かった。


 このサン・クリルの外れにある小さな屋敷に、一組の辺境貴族が住んでいた。

 その夫婦は、長い間子を望んでいたが、なかなか恵まれず、やっと授かったのが、ある嵐の夜に産声を上げた赤子だった。

 二人はこの子を我が宝とし、長く待ち望んだ幸福をかみしめた。


 だが、その幸福は一瞬で崩れ去った。

 産声を聞きつけ、真っ先に駆けつけた医師が赤子を抱き上げた瞬間――医師は悲鳴を上げて倒れ込んだ。

 彼の肌は青白く、全身から生気が抜けたかのように見えた。

 その異様な様子に周囲は凍りつき、夫妻も恐怖の色を隠せなかった。


 その赤子は呪われていた。


 その小さな手に触れると、いかなる生物であろうと生気を吸われ、吸われた者はすぐに蒼白した顔を浮かべ、みるみる身体がやつれ、最後には意識を失った。

 夫婦は絶望に苛まれた。


 その後、夫妻は赤子のために解呪の術に通じた魔術師たちを呼び集めた。

 王国中の名だたる術者たちが手を尽くしたが、誰一人としてこの呪いを解くことはできなかった。

 ある者は「この呪いはあまりに強力で、人知を超えている」と語り、またある者は恐怖から「悪魔の子だ」と吐き捨てて去った。

 唯一、神聖魔術にて清められた布を巻くことによって、効果は抑えられたが、気休めにもならなかった。


 赤子はまるで「自分を愛して」とでも言うようによく両手を掲げていた。

 しかし、誰もがその行為には目を背けた。

 母親は自分の娘を抱けないことを恨んだ。


 やがて、この不幸な子が生まれたことは町中に知れ渡り、夫妻は周囲から「魔女の親」「呪われた一族」として糾弾された。

 父親は怒りに駆られた町の男たちによって断灯台へと連行され、暴力の末に命を奪われた。

「断頭台」ではなく、町の灯台が見えなくなるように火が消されることから「断灯台」と呼ばれる場所での処刑──それは、異端や呪われた者に対する町の無情な刑罰だった。


 悲しみに打ちひしがれた母も、心の支えを失い、やがて正気を保てなくなった。

 夫の命を奪われ、家族を守るすべを失った彼女は、ついに絶望の淵に立たされた。

 自責の念に蝕まれ、まだ言葉すら話せない自分の娘に暴言を吐き続け、泣き止むことのない子を触れることもできないのでモノを投げて癇癪を起こした。

 もうダメだ。

 この子がいる限り平穏は無い、と。


 ある日、幼い娘を連れ、馬車を出し、国を超えた先にある村、プレーリーへと向かった。

 なんでも、その村の教会では捨てられた子供を引き取るモノ好きな神父がいるらしかったからだ。

 母親は自分が何をしようとしているか考えたくなかった。


 そして、夜、その村に辿り着いた。

 村の人口は今まで見たどの集落よりも少なく、のどかな田舎の風景が広がっていた。

 噂通り教会があり、そこには三十ほどに見える神父がいた。

 周りには何人か子供がいて、彼らは幸せそうに笑っていた。

 だから彼女はそれを見て少し安心した。


(ここなら、あの子も幸せに暮らせるかもしれない)


 宿を借り、その夜は娘と一緒に過ごした。

 深夜になると、娘を小さな籠床に入れ、教会の前に向かった。


「ごめんね……ごめん……ごめんなさい……」


 教会の入り口の前に籠を置くと、娘はその声に小さく目を開いた。

 あどけない、何も知らない、何を言われているのかもわかってない娘は、いつものように母に向かって小さく手を掲げた。


「うぅ……うっぅぅぅううううう………」


 涙が止まらなかった。

 皆に忌み嫌われ、愛情も注がなくて、恨みさえした。

 母親としての責務を何一つ果たさなかった者が、今更なにをしているのだと思った。


 だから、最後にそっと彼女の手を握った。

 娘はまどろみながら小さな力でキュッと握り返す。

 みるみる生気は吸い取られたが、構うことなく握った。


「幸せに、生きて……」


 それは、誰にも愛してもらえなかった娘に対する、母としての最後の愛だったのかもしれない。


 その後、彼女は再び帰ることなく姿を消し、自らの命を絶った。



 ---



 プレーリー・アルティア教会。


 いつしか、子供がよく捨てられる場所として知られるようになっていたその教会には、三十代ほどの男・イザールが神父として勤めている。彼は数年前までは冒険者で、戦場で親を亡くした子供を拾って以来、冒険者を辞めて孤児を育てる神父となっていた。子供たちにとってイザールは温かく、頼もしい存在だった。


 ある日、イザールは教会の前で鳴り響く声に気付き、ため息をつきながらドアを開けた。


「またか……」


 彼は教会の前で泣いている小さな赤子を見つけ、顔を覗き込む。


「あぅあぉお〜あう〜」


 その赤子はイザールを見つめるなり、両手を掲げた。

 両手には黒い生地の布が巻き付いている。


「おぉ、よしよし。元気な子だなぁ。名前は……プレートはなしか……。よし、今日から君の名前はクリスだ!」

「だぁう! おうぉぅお!」

「なっはっは! 気に入ったか! どれ、手に布が絡まっているぞ」


 イザールは布を外そうとしたが、その瞬間、小さな手が覗き、彼が無意識にその手を握ると──


「ふぬぉわぁぁぁあああああ!」


 イザールは顔を歪ませ、目を見開いて痛みに震えた。体の中から、まるで生命そのものが抜き取られるかのような感覚が全身を貫いた。

 反射的に手を離し、彼は倒れ込むようにその場に膝をついたが、やがて浅い息を整えながら、床に座り込む。


「なんということだ……この子は……」


 イザールは震える手で立ち上がり、深いため息をついた。


「……なるほど、どうやら君はただの子ではないらしいな。この布で効力を抑えているのか…?」


 だが、彼はその後も立ち去ることなく、クリスを籠ごと抱き上げた。

 彼の腕の中で安心したように彼女は笑った。

 その愛おしい顔を見て、イザールは静かに微笑む。


「なになに!? 新しい子供!?」


 イザールの大声を聞きつけたのか、六歳ほどの少年が扉から飛び出してくる。

 金髪で、瞳は緑。

 わんぱくな印象を持つ子だった。


「へぇ、かわいいじゃん!」

「あ、コラ! フェイクラント!」


 クリスは小さな瞳でじっと少年を見上げ、同じく嬉しそうに両手を伸ばした。


「手ぇ、ちっちぇ〜! お前の新しいお兄ちゃんだぞ〜」


 無垢な表情で、クリスに手を伸ばした瞬間──


「触るなっ!!!」

「……っ!?」


 突然の怒号に、フェイクラントは咄嗟に伸ばしかけた手を引っ込めた。


「な、なんだよ、そんなに怒ることないじゃん…」

「す、すまん。い、いやぁ、お前の手はあちこち触りまくってて汚いからな。赤ん坊にバイキンが付いては大変だからな……」

「ちぇ〜」


 それはイザールの"優しさ"だった。

 子供達の中で、彼女だけが呪われていると知れば、この子は笑って暮らせないだろう。


 イザールはその日から、クリスが持つ他者に触れるたびに生気を奪う「呪い」をどうにか抑える術を探し始めた。

 解呪法は見つからなかったが、唯一彼女の呪いを隔てることが可能な布に目をつけ、彼は慣れない手つきで刺繍を施し、その布を使って手袋を仕立てた。


「これで……少しは楽になれるはずだ。……ちょっと無骨だが、うん、そこは愛だ愛」


 手袋をクリスの小さな手にはめると、イザールはそっと微笑んだ。

 小さな手袋を身につけた赤子は、特に違和感を感じることもなく、落ち着いた様子で眠り始めた。


 イザールはその様子をしばらく見つめた後、深くうなずき、自分自身に言い聞かせるように呟いた。


「これで君も“普通の子”だ」


 そうして、イザールはこの赤子を他の子供たちと同じように、教会の一員として受け入れることに決めたのだった。

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