恋結び地蔵 第4話

 夕食を摂り、人心地付いたので、風呂に入ろうと脱衣所に入った。脱衣所の床には、乾いた血が付いた小物類と、バッグがまだそのままにされていた。桶に入れたコートの血液の染みは跡形もなく取れていたので安堵した。


 血に染まった小物類の中に、道で拾った紙くずがあった。何気なく拾いあげ、くしゃくしゃの紙をもう一度広げてみた。


 暗くて、何が書いてあるかよく見えなかった紙は、どうも習字に使う半紙を切ったもののようだった。紙面に筆か何かで漢字が書かれている。水に浸けたのか字は滲んでいたが、いくつか読める文字がある。


「金、香」


 四文字の漢字の組み合わせで、こんな熟語はあっただろうか。後は単純に人の名前かもしれない。


 半紙に墨で人の名前を書いて水に浸けたものを。


「貼り付ける」


 昼間、白の研究室で読んだ、願掛けの手順。まるでそれに倣ったかのような代物だった。


 考えてみれば、旧学部棟の近くで拾った。あの近くに十三仏の仏像群の一角がある。


 もしかすると、これはあの恋結び地蔵の願掛けを行った残骸なのかもしれない。この半紙が道に落ちていたと言うことは、願掛けをした人物の願いは叶わなかったと言うことになる。


 そこで、ハッと山田は思い出した。数週間前、仏像群のある一角で奇妙なものを見た。今だからそれが何を意味していたか理解できるが、そのときはただ驚いて隠れることしか出来なかった。


 あのとき、論文の構成に四苦八苦して、遅くまで研究室に残っていた。確か二十二時を過ぎていたと思う。旧学部棟にある研究室を出て、仏像群の近くの棟を通り過ぎたときだ。


 ふいに何かが腐ったような臭いが吹き付けてきた。不思議に思って立ち止まる。風の吹いてくる先を見透かすと、外灯の下を何かがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。


 背が高くて、ワンピースのような白い服を着ている。自棄に両腕が長く、だらんと前に垂らし、ざんばらの長い黒髪が、べったりと肩や腕に貼り付いている。外灯に照らされても顔が見えない。


 山田はひゅっと息を吸った。


 綿子以外で、異形の変なものを見たのは、生まれて初めてだった。


 相変わらず腐ったような生臭い風が吹き付けてくる。化け物が外灯と外灯の間をゆっくりと歩いてくる。照らされては闇に陰り、を繰り返し、どんどん近づいてくる。


 思わず、山田は走って逃げていた。


 捕まっては駄目だし、気付かれても良くない。悪い予感が激しく胃を締め付けてくる。急に目の前に現れて驚いて失神するのとは訳が違う。捕まったら、きっと命を取られて死ぬんじゃないかと思った。


 化け物から離れようと旧学部棟の間を抜けて、狭い通りに出る。この先には曰く付きの一角があった。外灯は途切れ、狭い通りは闇に沈んでいる。


 あの化け物がどこに向かっているのか分からないけれど、とにかく隠れないといけないと焦った。


 通りの先を見据えると、白い人影が仏像群のある一角にしゃがんでいるのが見えた。


 山田は咄嗟に、その人物に声を掛けて逃げるように忠告しようと思った。


 背後を振り返りながら近づいていくと、山田に気付いたのか、人影が声を上げた。女性の声だった。


 背後を生臭い風が吹き付けてくる。山田は、慌てて横道に入った。


 髪をショートカットにした女性が、山田の脇を駆けていく。


 女性は外灯の見える化け物が向かっている方向へと走って行ってしまい、山田が恐る恐る通りを覗き込むと、あの化け物は女性が走り去った方向へゆっくりと移動していくのが見えた。


 化け物は山田のほうには来なかった。そのことに安堵して胸を撫で下ろす。通りに出ようとしたとき、あの女性がいた場所に別の影が見えた。仏像群の間に入って何かしている。


 思わず、頭を引っ込めて身を隠し、山田は様子を窺う。髪を肩まで伸ばした女性が、山田が隠れている側を通り過ぎた。小走りで駆けていく後ろ姿を、山田ははっきりと見た。


 フェミニンな雰囲気の女性で、こんな不気味な場所にいるのが似つかわしくない。一体何をしていたのか、見てみようと思ったけれど、あの化け物がまた来ては堪らないと、山田は遠回りして正門へ向かい、家路についた。


 あの化け物と髪の短い女性は行き当たってしまったのか、全く想像も出来ないけれど、会ってはならないものを見たことだけは分かった。


 これは、新城弓美という学生のレポートに関係していることなのではないか。


 とりあえず、この半紙を白に渡そうと決めた。白がこう言うものを喜ぶかは分からなかったが、恋結び地蔵の願掛けに興味を持っていたのだから、的外れではないだろう。


 改めて、その半紙を綺麗に折りたたみ、翌日持っていく鞄のポケットにしまった。





 いつもと変わりない朝が来た。朝食もそこそこに、山田はダウンジャケットを羽織って、十時にマンションを出た。


 今住んでいるマンションは父親のものだ。分譲なので家賃はない。父親は外資系の会社に勤め、山田が高校に進学したときにアメリカへ転勤した。


 両親は山田と綿子が小学生の頃に離婚し、綿子は母親に。山田は父親に付いていった。父親は山田に興味がないらしく、学費とわずかな金を生活費として銀行の預金に振り込んでくれる。連絡はないが、金が振り込まれていると言うことは、父親は生きていて、少なくとも山田のことを覚えていると言うことだ。


 何か困ったことがあれば、教えてもらった携帯の番号に電話をすれば良いが、なんとなく電話しづらく、今に至っている。


 母親とは綿子が亡くなってからも、しょっちゅう連絡を取り合っている。ただ、福岡市と北九州市が離れていると言うこともあって、なかなか会う機会がないだけだ。

 福北大学に進学を決めたときに、力を貸してくれたのは母親だった。


 自宅から福北大学まで、地下鉄だとドアツードアなので通学の便が良い。何より、人文学部文化学科で民俗学が学べることを知って、進学を決めたのだ。


 今は大学院に進み、御霊信仰をテーマに論文を書いている。それも全て綿子の為にしていることだった。普通に就活し、会社員になることは考えていなかった。


 ぼんやりと昨日の事故のことを思い出していた。何故、綿子は、まるで山田を助けるような現れ方をしたのだろうか。


 今までも同じようなことが何度かあった。


 綿子に助けるという意図があるのであれば、自分は綿子に守られていると考えて良いのか。


 想像だが、人は死んでも生きていた記憶を持っている。行動も生前と同様だろう。人間らしい思考を持ち続けていてもおかしくない。


 ただ、怨霊になった綿子に、人間らしさを感じることはなかった。「うらめしや」という感情もなさそうだ。強烈な恐怖を煽ってくる。少なくとも、綿子が自分に向ける感情の中に恨みはないと思う。


 祟ってはいるかもしれない。それはわざとではなく、怨霊が自分に取り憑いていることの副産物だ。死ぬほどではないが、益もない。少なくとも殺すつもりはないのだ。そう思っていれば、とっくの昔に死んでいる。


 大学に着き、まずはあの事故があった場所に向かい、くまなく地面を見て回ったがパスケースは落ちていなかった。落胆しながら、ゼミの教室へ行った。


 綿子のことを考えながら、教授の書いた論文を読み、卒院した先輩の論考を読む。資料を漁って、パソコンの画面を睨みつける。


 昨日のことばかり頭に浮かんできて、今日は全くはかどらなかった。


 十四時から、白のバイトがある。


 売店で買ったコッペパンを口に押し込んで、昼飯を済ませた。


 たまたまゼミの教室に寄った教授に、「白くんのバイトはどう?」などと聞かれ、「どうにか」と答えた。


 若白髪の教授が、心配そうに山田を見る。


「白くんのアルバイトの子、私が知っている限り、三人はとんでもない目に遭ってるから、君も気をつけてくださいよ」

「はぁ」


 教授はそう言い残して必要な資料を持って、部屋を出ていった。同席していた同じゼミの女の子が、身を乗り出して山田に尋ねる。


「まじでシロ先生のバイト、始めたの?」

「うん」

「とんでもない目って言ってたけど、甘いよ。一人死んでるからね」

「いつ?」

「シロ先生がまだ院生だったときに、バイトに誘った女の子。田舎の実家でクマに襲われたらしいよ」

「クマに襲われたのと、白先生がどんな関係があるの」

「まぁ、とにかく関わると命の危険があるってこと。気をつけてね」


 割と親切な子だが、いまだに山田はその子の名前を覚えてない。長いこと敬遠されていると、自分から避けるようになってしまった。


 山田は、パソコンをシャットダウンして、手元の資料を元の場所に戻した。




 昨日、山田が口述したレポートの主、新城弓美に白は接触できていないようだ。講義まで後六日ある。忘れているわけではなさそうで、研究室の壁のボードには例のレポートが画鋲で留められていた。


 一応、持って来た半紙を白に見せる。


「先生、これ、旧学部棟の前に落ちてたんですけど、もしかしたら昨日のレポートに関係あるかと思って」


 白が資料から視線を半紙に移した。半紙を受け取って、まじまじと紙を見つめている。


「なんか書いてあるね」

「金と香という漢字は読めるんですけど」

「熟語ではなさそう。名前かな」


 ここまでは、山田と同じ結論だった。


「道に落ちてたの?」

「はぁ」


 白が面白そうに笑顔になった。


「ここにあると言うことは、願掛けは成就しなかった。願掛けは男性かな。恋に関するおまじないは女性が好むものだと思っていたけど」


 山田は白の物言いに引っかかりを覚えた。自分があのとき目にしたのは女性だった。


「男性?」

「うん。この半紙に書かれているのは、単純に考えると女性っぽくない? 金○香○」


 言われてみれば、女性の名前にも思えてくる。


「でも、これだけで半紙の名前が女性だとは決められないんじゃ」

「まぁ、想像は自由だから」


 楽しそうに半紙を持って、白はボードにその紙を画鋲で留めた。


「たしかにそうですね」


 反対する理由もなく、山田は楽しそうな白を眺めて、やっぱり変わった人だと思いながら、自分の仕事を始めた。


 この日も何事もなく、作業を終えて、山田は二十一時に研究室を出た。

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