第5話

 夜は更けていく。

 課員たちは二次会へと繰り出したり、帰途についたりした。


 鱝村えいむら鸚鵡村おうむむらをキャバクラに誘った。鸚鵡村は自らのセクシュアリティを隠し通していたので、その場は断らないことにした。味のしない水割りと、さわがしいだけの会話に辟易とした。「お兄さん、イケメンだねー」。ホステスの女が膝に手をふれてきた。理由もなく体を触るのは無礼だ。身のうちに湧いた怒りを抑えながらも、鸚鵡村はうれしげな顔をホステスに向けてみせた。


 中堅社員の鰻村うなぎむらが自宅の寝室に入ると、珍しいことに妻が起きていた。「おかえりなさい」。読書灯のやわらかな光が、妻の整った顔立ちを照らし出していた。その手にはエーリッヒ・フロム『愛するということ』が握られていた。病気の症状が落ち着いているらしく、表情はおだやかだった。

「どうだったの? 手品」

 妻が問いかけた。毎日遅くまで手品の練習をしている鰻村の姿を妻は見ていたのだ。


「大成功だった」

 鰻村は顔に笑いを貼り付けた。妻はほほをゆるめ、その伴侶を抱きしめた。

 ああ、俺はウソをついた。自分の妻にウソをついたんだ。最悪の人間だ。ああ、ウソつきだ。鰻村の総身は灰色と化した。最愛の人の両腕に抱かれたその体は、二度と本来の色を取り戻すことはなかった。


「――薔薇ばらの花びら」

 犬村課長の寝言が、暗闇に沈む夫婦の寝室に響きわたった。

「何だ!?」

 犬村課長の妻は、寝ぼけまなこをこすりながら、眠る夫へと視線を向けた。

 すやすや眠っている。寝言のようだ。妻は布団をかぶって、犬村課長に背を向けて再び眠りについた。


 犬村課長のピエロの記憶は、再び識閾下しきいきかへと沈み、犬村課長が生きているうちには――つまり死ぬまでは――二度と意識の俎上そじょうに浮かんでくることはなかった。

 しかし、眠っている時、考え事にふけっているとき、「薔薇の花びら」という言葉が犬村課長の口をついて出るようになった。そのことを知らないのは本人だけなのだ。


 カーテンのわずかなすきまから朝日がベッドに差し込んできた。新入社員の猪村が目覚めた時、素肌をおおうものがシーツ以外にはなにもないことに気がついた。ベッドの隣に目を向けると、驢馬村ろばむらがその裸の胸にTシャツを身につけているところだった。

「おはよう」驢馬村が口角を上げた。「昨夜は楽しかったね」

 驢馬村の声色は優しかったが、その言葉が想起させる内容は、猪村の感情を強く刺激してやまなかった。猪村の頬はますます赤みを帯びていく。それを目にした驢馬村の口元が残酷に歪んだ。

「楽しかった……です」

 ほとんど消え入りそうな声で、猪村は言葉を絞り出した。


「何? もう起きる時間?」

 猪村のとなりにいた象村が、寝転がったまま大きな欠伸をした。そのさらに横にいた猫村係長は背伸びをした。ふたりともやはり一糸いっしまとわぬ姿だった。

「起こしちゃったかな。申し訳ない。できれば寝かせたままに立ち去りたかったんだけど」

 驢馬村は言った。


「最高の一夜だったわ」象村はネオ・ソバージュの髪をかきあげると、ベッドサイド・テーブルに置かれたグラスを口に運んだ。白い喉の内側をミネラル・ウォーターが通り抜けた。「次はいつ会えるの、驢馬村クン?」

「ないよ、次は」驢馬村は言った。「同じ女性は二度抱かない主義でね」

「冷たいわね」

 象村は口をとがらせた。


「でも、サービスを使えばいつだってあなたを呼び出せるんでしょ?」猫村係長は乱れたロングヘアを手ぐしでよせた。その顔には勝ち誇ったような笑みが浮かぶ。「だって、あなたはそういう仕事をしているんだもの」

「どうかな?」

 驢馬村はタバコに火を付けた。あふれ出た副流煙がモーテルの一室にひろがった。


 驢馬村とは二度と出会えない――そういう直感が猪村にはあった――そして、その直感は的中するのだ。


 この淫蕩いんとうきわまる一夜の経験は、猪村の脳裏に深く刻まれることになる。

 猪村は異性との仕事上の駆け引きにおいては、セックスの可能性を匂わせて手玉に取るという手管を身につけ、無情な世間でのし上がることになる。

 そのストーリーのうちには、手ひどい裏切りがあり、心温まるような抱擁も待ち受けているのだ。

 余談だが、今から十年後に猪村は姓を変える。彼女は、現在の妻と離婚調停が成立した後の魚村主任と結ばれるのだ。

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