第4話

 めいめい帰る時間が近づいてきたことを知り、コップに残ったビールを飲み干したり、皿盛りの料理を口に突っ込んだりした。

 同期の鳥村はまだ食べ続けていて、新入社員の猪村が驢馬村ろばむらに熱い視線を向けているのをいいことに、猪村の分の料理をこっそり自分の口に運んだ。あまりにたくさん突っ込んだものだから、食べ物は気管の方へと入り、鳥村は激しく咳き込んだ。


「鳥村、大丈夫か!」

 となりに座っていた魚村主任は鳥村の背中をさすった。

 ごほごほと喉に詰まったキスフライのかけらを吐き出した後、涙を流しながら、鳥村は魚村に礼を言った。

「すみません、魚村主任」

「いい加減、早食い癖直せよ。もっと味わうように食べたらいいだろうに」

 魚村はおしぼりで鳥村の口の周りを拭いてやった。

「どうも性分なんです。食べ物を見ると止まらないんですよ」

 この早食いが原因で、三十年後の五十九歳の時、鳥村は命を落とすことになる。孫の誕生パーティの席だ。フライドチキンを喉に詰まらせ、鳥村は苦しみに喘ぎながら天国へと旅立つ。一男二女の子どもたちと五人の孫に看取られながらの旅立ちである。


 幹事の鮒村ふなむらが会計を済ませた。鮒村にとっての淫女リリスへと変貌を遂げた猫村係長が「ありがとう、鮒村くん。いつも頼りになるわね」と微笑みかけてくれたが、鮒村の心はその時点ですでに死んでいたので、曖昧あいまいな笑顔を返すにとどまった。「いつでも頼って下さい」。その声は生成AIによるガイド音声のように平坦だった。


 犬村課長は、小道具を納めたボストンバッグを抱えて立ち去ろうとする驢馬村の背中に声をかけた。

「今日は君が来てくれたおかげでおおいに盛り上がったよ。ありがとう」

「いえ、私など。お礼ならサービスをご利用いただいた馬村さんにして下さい」

「馬村?」犬村課長はそれが誰だったか一瞬忘れた。すぐに思い出した。うちの社員だ。「馬村などどうでもいい。次の新年会では是非とも君を呼ばせていただきたい。名刺の番号に連絡すればいいのだな」

「光栄でございます。犬村課長様。またお会いできる日を楽しみにしています」

 差し出された驢馬村の手のひらに、一輪の薔薇ばらの花が現れた。手品だ。薔薇は犬村課長に手渡された。


 薔薇の花を受け取った瞬間、犬村課長の脳裏にひらめくものがあった。犬村課長の意識は一瞬のうちに時空を駆けもどり、四十年前に故郷の北九州市で開かれた巡回サーカスへと移動した。

 サーカスのテントの前で、男が赤い風船を配っていた。自分も受け取ろうとしたところ、少年・犬村の手からは、その紐が離れていってしまった――ああ、待って!

 風船を追いかけているうちに、犬村少年は、小さなテントのひしめいて並んでいる場所に迷い込んでしまっていた。やけに薄暗くすす汚れた場所だった。サーカスの団員の宿泊場所なのだろう。今は誰の姿もなかった。


 フフフッ。

 かん高い笑い声が頭の後ろの方から聞こえてきた。振り向くと、大きな頭陀袋ずだぶくろを背中にかついで、下水溝を渡るピエロの姿があった。

 赤白ツートンカラーに身を包んだ白塗りのピエロは、唇に人差し指を当て、ニヤリと口角を上げて、体を左右に揺らしておどけてみせた。その際、背中の頭陀袋がうごめいたように見えた。中に何かいる――大型犬ぐらいの大きさの何かが。


 ピエロは、少年・犬村に向かって、パチンと指を鳴らした。直後、犬村の手には一輪の薔薇が握られていた。肩で笑うような仕草をすると、ピエロは、犬村に背を向け、どこかへと立ち去った。その服のあちこちに赤黒いシミがついているように見えた。薔薇の花弁のひとひらが、荒いアスファルト・コンクリートの上に舞い落ちた。


「課長?」

 気がつくと、魚村主任が犬村課長の肩を揺さぶっていた。犬村課長はあたりを見渡すが、そこには巡回サーカスもなければ、ピエロもいなかった。それから、驢馬村の姿もなかった。

「驢馬村くんは?」

 眠りからめたような心地を味わいながら、犬村課長が言った。

「もう、帰りましたよ。どうしたんです、ボーッとなされて」

 魚村主任の怪訝なまなざしが向けられていた。

「なんでもない。酔いが回ったようだな」

 犬村課長は後頭部をぽりぽりとかいた。

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