第3話

「驚いた。君がこんなに芸達者だとはな」

 腕を組みながら、犬村課長が言った。

「もったいないお言葉です、犬村課長様。まだまだスタッフとしては新人の身。これからも精進させていただく所存です」

「これまた謙虚。気に入ったぞ、驢馬村ろばむらくん。さあさあ、もっと飲みたまえ」

 犬村課長が驢馬村のグラスにビールをなみなみと注いだ。


「彼、けっこうかわいい顔してない?」

 芋焼酎の水割りを片手に、経理の象村が、猫村係長の隣に両膝を下ろした。二人は同期で、若干二十五歳で猫村係長が係長昇進を果たした後も仲がよい。

「いいわよね。私、けっこうタイプかも」

 猫村係長は口元に手を当てながら笑ってみせた。

「あのスーツのヒップがエロいのよね。あーあ、なでまわしたい」

 象村が声を弾ませた。

「尻のエロい男ってエッチもうまいのよね。私の経験則」

 猫村係長がくすくす笑った。

「分かるわあ」

 象村はケラケラ笑った。


 妙齢女性のひそひそ話をすぐ側で聞いていた幹事の鮒村ふなむらは、黒縁の眼鏡をクイッと上げた。猫村係長が性的な話をするのを彼が耳にしたのは――彼が知る限り――はじめてであった。

 鮒村にとって、ひとつ年下の猫村係長は、凛とした大和撫子やまとなでしこの代表のような存在だった。きっと自分と同じで結婚まで貞操を守っているタイプに違いない――なんの根拠もなかったが、かたくなにそう信じていた。ちょうど今この瞬間をもって、彼の理想はこっぱみじんに砕かれた。彼にとっての聖母マリアは、淫女リリスへと変貌を遂げたのである。


 あー、もう、いいかな。やってらんねー。

 この後、彼は飲み会のために予約していたホテルの部屋に娼婦を呼び、はじめてのセックスを試みる。だが、いくら頑張っても彼は勃起しない。やがて彼の両目から涙があふれ、喉の奥からは嗚咽おえつがもれ出す。彼は、娼婦の膝の上で眠りにつき、そして翌朝、自分以外には誰もいないベッドの上で目を覚ますことになる。


 手品の腕前もさることながら、驢馬村は会話のテクニックにも長けていた。相手の話にうなずき、ところどころ要点をまとめ、相手が終えると、相手を肯定し、褒めたたえる。


 鱝村えいむらは驢馬村に好意を抱き、こいつと一緒に働きたいなと思った。我が社に驢馬村が来るか、自分が驢馬村の会社に行くかだ。後者の考えが頭によぎって、鱝村は、フフッ、ガラじゃねえよと自虐的に笑った。

 一方、鸚鵡村おうむむらは自分が驢馬村に恋愛感情を抱いていることを自覚した。彼が好きだ。その広い背中にしがみつき、涙を流しながら愛をささやきたいと。しかし、両親へのおそれから生涯にわたって己のセクシュアリティを隠すと決めた鸚鵡村にとっては、それも叶わぬこと。鸚鵡村は黙り込み、心の中に広がっていく苦しみの波紋へとその身をまかせた。


 驢馬村は参加者一人ひとりに声を掛けていたので、新入社員の猪村も驢馬村との会話の機会を得た。けっして会話上手とは言えない猪村の話を熱心に聞き、ほめたたえ、いい気分にさせた。

 ところが、話している最中お互いの手が触れあってしまったときのことだった。「キャッ!」

 無意識のうちに、猪村は驢馬村の手をはたいてしまった。彼女は後悔した。長年の孤独が、彼女の男性への警戒心を強いものにしていたのである。しかし、驢馬村が何事もなかったかのようにほほえみを返してくれた。

 そして、驢馬村は猪村の手に手を重ねてきた。誰も見えないところで。猪村の心臓は跳ね上がりそうだった。意図をはかりかねてその横顔をのぞくが、そのときにはお互いの手が離れていた。猪村は驢馬村にますます気が惹かれていくばかりであった。


 縁もたけなわを迎えた。「九時でお時間になります」。店員が幹事の鮒村に言った。鮒村が別の思念にとらわれていたので、店員は「九時でお時間になります」と繰り返し言わなければならなかった。

 とほうもない空虚さに半身をとらわれながらも、鮒村は店員の言葉を参加者に伝えた。「九時でお時間になります」。そのさまは、まるで福音を伝える使徒のようだった。

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