第5話 普通に話してくれて

 春川は笑顔だった。

 ただ、何となく教室で見るような笑顔とは違うような気がした。


 人間味があるというか、とても自然な笑顔に思えた。

 教室で見る笑顔が不自然だったわけではないが、少なくとも俺はそういう風に感じた。

 あんな発言の後でなければ、素直に見惚れていたかもしれない。


「あの、悪い。今何て?」


 俺は聞き返すことしかできなかった。

 そりゃそうだ。まずは自分の耳を疑うべきだろう。


 しかし、


「ん? 校舎裏に呼び出してやり返せば良かったかなーって」


 気のせいでも何でもなかった。

 言葉を失う俺に対し、春川は小首を傾げている。


「あれ? もしかして引いてる?」

「いや、その……」

「あ、ごめんね。私、本当はこういう性格だから。もしかして幻滅した?」


 何といえば良いのだろう。

 こういう時に涙目になって訊いてくるのなら、まだ可愛げがあるってもんだ。


 雲一つない青空を思い起こさせるような、満面の笑みである。

 掛けるべき言葉が見当たらなかった。


「いやあ、もうあれだけのことやらかしたし、鷲津君って話しやすいしさ。別にいっかなーって。素で喋っても」

「ああ……そう。まあ別にいいけどな」

「あのさ。引いてるなら引いてるって、はっきり言っていいんだよ?」

「引いてる」

「あはは。鷲津君ってば! 冗談も上手いんだから」

「いや、冗談でも何でもなく」


 そこでふと思う。

 そういえば初めて話した時に、そんな兆候があったっけ。

 だからどうしたって話なんだが。


「ま、いいんじゃないか。人間味があって」


 結局、俺は辺り触りのないコメントをしておくことにした。

 別に嘘ってわけじゃない。

 最初に抱いていた苦手意識はすっかり消え去っていった。


 春川は憑き物が落ちたように晴れやかな表情をして言う。

 

「でさ。あのギャル共どうしてやったらいいと思う?」

「と言うと?」

「報復に決まってるじゃん」


 俺は嘆息交じりに答える。


「もう十分だろ。あいつら涙目になってたぞ」

「まあさっきも職員室で謝られたんだけどさ。涙目で」

「そうか……」


 まあ、あのギャル達の気持ちはわからなくもない。

 それくらい、教室での春川には鬼気迫るものがあった。


「まあ、その……ね。水に流してもいいんだけどさ。他に考えなきゃいけないこともあるし」


 そこで春川はわかりやすく落ち込んでみせる。


「はぁ……本当にやっちゃったよね、私。どんな顔して教室に戻ればいいんだろ」

「別に普通にしてればいいだろ」

「うっわ、めっちゃ他人事みたいに言う」


 いや、そんな驚かれても。事実、他人事だし。

 と、喉元まで出かかった言葉は飲み込んでおくことにした。


 春川が指を突き付けてくる。


「いい? 言っておくけどさ。女子がブチギレるって相当キツいよ?」

「それ、やった本人が言うか?」

「私ってほら。清楚な優等生だったわけじゃん? 真面目で可愛いし話しやすいみたいな。もう完璧美少女って感じだったわけでしょ?」


 適当に頷いておくことにした。

 考えることを放棄した瞬間である。

 もういいや。春川はこういう人間なのだと割り切ることにしよう。


「話聞いてる?」


 春川が顔を近付けてきたので、俺は真正面から見つめ返す。


「聞いてる。で?」

「だからさ。そんな完璧美少女が教室でブチギレたんだよ? 尚更キツいって」

「だから自分で言うか?」

「鷲津君。ここ、フォローするとこなんだけど。そんなことないよーって」

「だってフォローのしようがない」


 というか、だ。

 そんな話を俺に振って、こいつはどうしようと言うのだろう?


 慰めてほしいのか?

 いや、もう、色々と勘弁してほしい。


 とても面倒な気分になってきたので、俺はこの場を立ち去ることにした。

 が、立ち上がろうとしたところで、肩を掴まれる。


「まだ話が終わってないんだけど」


 そのまま強制的に座り直すことになった。


 距離を取り直してから続ける。


「あのさ。わかる? 目の前に傷心中の女子がいるんだけど」

「だから?」

「放っておくの? そもそもさ。鷲津君だって当事者なわけじゃん? 私のこと止めたよね?」

「そりゃ、あの状況だったら止めるだろ」

「私のこと後ろから羽交い絞めにしたよね?」

「ああ」

「つまり、私の体に許可なく密着したってことだよね?」

「ああ…………まあ言い方はともかく、そうなるな」

「おっぱい触ったってことだよね?」

「触っ……触るか! 人聞きの悪いこと言うな!」

「んー? なんで一瞬考えたの? 感触を思い出してた?」


 そう言って、片手で自分の胸を揉みしだく春川。


 俺は驚いていた。

 こんな、人の善意を平気で踏みにじるような人間がいるとは。


「そもそも、俺が触ったのは腋だろ?」

「おっぱいの付け根あたりとも言える」


そう言われると言葉に詰まってしまう。

が、改めて深呼吸をする。


 焦ったら負けだ。


「春川。お前、冷静に考えてみろよ。俺は暴走したお前を止めたんだぞ? 感謝されこそ、そんなセクハラみたいな扱い、どう考えてもおかしいだろ?」

「うん。それはね。本当に感謝してるよ? 鷲津君が止めてくれなかったら、ちょっとした流血沙汰になってたかもしれないし」

「な、なら――」

「でもさ。鷲津君が私の体に許可なく密着して、おっぱい(付け根辺り)を触った。それもまた、事実でしょ?」


 悪魔みたいな女だと思った。

 しかし、まだ戦う材料は残っている。


「ふ、不可抗力だろそれは。ああする以外、止める方法がなかった」

「本当にそうだった? 腕を掴むとかさ。他にやりようがあったんじゃないの?」

「いや……それは…………」

「さて。そんな困った鷲津君に朗報です。こんな私を黙らせる唯一の方法があります」


 わざとらしくウインクしてくる春川。

 どうしよう。女子を殴りたいと思ったのは、生まれて初めてのことだった。


「協力してほしいの。ただ、それだけ」

「リンチには協力しないぞ」

「違う違う。私がいつもの立ち位置に戻れるように協力して?」


 どっと疲れてきた。

 俺は諦めて尋ねることにした。


「具体的には何をすればいい?」


 そこで春川は悪戯っぽく笑ってみせる。


「ふふふ。まあ、ちょっと考えておくね。詳しいことは明日ってことで」


 嫌な予感がしたのは言うまでもない。

 しかし、既に断る気力を失っていた。


 俺が渋々と言った具合に頷くのに対し、春川は満足そうに頷いてみせる。

それから立ち上がって、


「じゃ、私はそろそろ行くね。まだ事情聴取も終わってないし」


 扉に手をかけたところで、立ち止まった。


「鷲津君。ありがとね」


 背中を睨みつける。


「もういい。それにお前、本当に感謝してんのか? 人を脅しておいて」


 春川は振り返ろうとはしなかった。


「脅すなんて人聞き悪いなぁ。お願いしただけじゃん。というか、お礼言ったのはさ。さっきのとは別のこと」


 数秒の間があってから、


「普通に話してくれてありがと」


 どこか早口で言い残し、そのまま保健室を出て行った。

 一人取り残された俺は無意識に呟く。


「……教室に戻るか」


 ついさっきまで抱いていた苛立ちは綺麗さっぱりなくなっていた。

 謎の疲労感と引き換えに。

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