第19話 「誤解」

 しかし、ベティスは完全に先ほどの冷静さと全てを掌握しているような態度を失っていた。


 彼女は袋から露わになった金貨を呆然と見つめ、唇がわずかに震えていた。何かを言おうとしているようだったが、その声は喉の奥で詰まってしまい、一言も発することができない。


 さらには、彼女の体全体が小さく震え始め、その妖艶さを際立たせていた瞳には、驚愕と困惑が入り混じった光が浮かんでいた。


 いまや、ベティスからは先ほどまでの高飛車で自信に満ちた態度は影も形もなくなっていた。

 彼女は、まるで目の前の現実をどう処理すればいいのか分からないといった表情で立ち尽くしている。


 この袋一杯の輝く金貨は、ベティスだけでなく、周囲の人々の視線も一瞬で釘付けにした。

 店内のあちこちから、好奇心に満ちた目が集まり始め、その場の空気が変わるのを感じた。


 そのとき、店の奥から一人の中年男性がゆっくりと歩み出てきた。彼はきっちりと仕立てられた高級そうなスーツを身にまとい、その顔には厳格さが漂っている。動作ひとつひとつから放たれる威厳は、明らかに周囲の空気を支配していた。


「ベティス、これはどういうことだ?」


 彼は低く、しかし威圧感のある声で問いかけた。その鋭い目つきがベティスとテーブル上の金貨の間を行き来し、まるで状況を瞬時に見極めようとしているかのようだった。


(この男……ベティスよりも圧倒的に気迫が強い。地位も彼女以上に高いのは間違いないな。)


 俺は内心でそう判断しながら、彼に視線を向けた。目を離さずに、その態度や動きから彼の正体を探ろうとする。


 だが、その間もベティスは完全に取り乱した様子だった。彼女の視線は、袋の中で輝く金貨から離れることなく、目を見開いたまま硬直している。

 唇が微かに動き、何か言おうとしているようだが、言葉が出てこない。


 あのいつも精明で自信たっぷりの彼女が、今や全くの無力感を漂わせていた。その妖艶さは消え去り、代わりに困惑と焦りが表情に滲み出ている。


 俺はこの場の微妙な空気をなんとか和らげようと、一歩前に出て、穏やかな笑みを浮かべながら口を開いた。


「いやいや、大したことじゃありませんよ。ただのちょっとした誤解ってやつです。」

 俺はあえて軽い調子で話し、両手を軽く広げて無害さをアピールするような仕草を見せた。そして続ける。


「実はですね、ただベティスさんに、彼女自身のお値段――まあ、1時間の価格を聞いただけなんです。でも、どうやら俺の支払い能力にちょっと疑いを持たれたみたいで……だから、ちょっとだけ自分の力を証明してみただけですよ。」


 そう言いながら、俺は肩をすくめてわざとらしく軽い口調を装い、さらに付け加えた。


「本当に、ただそれだけです。大したことじゃないですから、気にしないでください。」


 その言葉に、中年男性の目が再びテーブルの上の金貨へと向けられた。一瞬の沈黙が流れ、彼の喉仏が小さく上下に動くのが見えた。どうやら、何かを飲み込んだようだった。


 彼の鋭い目は、テーブルに転がる数枚の金貨から袋全体に向けられ、その膨らみ具合をじっくりと確認する。その視線が袋を離れるころには、彼の表情が微妙に変化していた。


 彼の額にはわずかな皺が寄り、目が少し大きく開かれていた。明らかに、彼はこの「誤解」がただの些細なことではないことを悟ったのだろう。


 ベティスはようやく我に返ったようで、慌てた様子で中年男性に目を向けた。その瞳には、明らかな焦りが浮かんでいた。


 それを見た中年男性は、さらに顔を険しくし、容赦のない声で彼女を叱りつけた。

「だから、何度言ったら分かるんだ!客の服装や態度だけで勝手に判断するなと!それに、どの客も平等にサービスを受ける権利があるんだ。これはどういうことだ!」


 彼は強い口調で続けながら、鋭い視線をベティスに投げかけた。その声には怒りが滲み出ており、その威圧感はまさに店全体を支配する「絶対的な権威」を感じさせた。


 ベティスは、その視線をまともに受けて、明らかに萎縮していた。先ほどまでの高飛車な態度はどこへやら、今や彼女は完全に押さえつけられたように頭を下げている。


 彼女の唇がかすかに動き、何かを言おうとしているのが分かった。しかし、その言葉は最後まで出てこなかった。彼女は自分の口を開きかけては閉じ、結局何も言わないまま沈黙を選んだ。


 ベティスへの叱責を終えると、中年男性――彼は自ら「ジェシー」と名乗った――の表情は一転して穏やかになり、柔和な笑みを浮かべながら俺に向き直った。


「私はジェシーと申します。この店の主人です。どうか、ベティスの無礼をお許しいただきたい。」

 そう言いながら、彼は軽く額に手をやり、汗を拭うような仕草を見せた。その声色には心底申し訳なさそうな響きがあった。


 しかし、それだけでは終わらなかった。彼はすぐに言葉を継ぎ、少しばかり緊張した様子を見せながら続けた。


「それにしても、これほど控えめでいらっしゃるのに、出される金額の桁が違う……そして、その気品あるお姿。いや、本当に感服いたしました。もしかして、ノーマン・ハント伯爵とご一緒にいらっしゃったのでは?」


 ジェシーが「ノーマン・ハント伯爵」の名前を口にした瞬間、彼の声には明らかにいつも以上の敬意が込められていた。そしてその表情には、ほんのわずかだが緊張の色さえ見えた。


 俺の目には、彼の額にうっすらと浮かび上がった細かな汗が捉えられた。その汗は、彼がこの「ノーマン・ハント伯爵」とやらに対してどれほどの敬意と恐れを抱いているかを物語っていた。


(なるほど、ノーマン・ハント伯爵ってのは相当な大物らしいな……でも、全然知らねぇな、そんな名前。)

 俺は心の中でそう思いながらも、表情には一切出さなかった。


 顔にはただ淡い笑みを浮かべ、軽く頷きもしなければ否定もしない。その態度は、あえて相手に答えを明示しないという「何方付かず」なものだった。


 ジェシーは俺の曖昧な反応を見て、さらに自分の推測に自信を深めたようだった。


 その顔には、先ほどよりも一層媚びへつらうような笑みが浮かび、腰も自然とさらに低くなっていた。その恭敬ぶりは、もはや滑稽とすら言えるほどだった。


「それで、ベティスの料金についてですが……」

 ジェシーは頭を下げながら、少し躊躇するような口調で話を続けた。声は先ほどよりも小さく、まるで何かを恐れるような響きがあった。

「彼女は当店のトップでして、1時間の料金は金貨6枚になります。」


 言い終えた後、彼は一瞬だけ間を置き、さらに説明を付け加えた。

「この料金設定が少々高めでして……そのため、彼女を指名されるお客様は非常に少ないのです……」


「金貨6枚」──そう彼が口にした瞬間、俺は確かに見た。彼の表情が、微かに歪んだのを。額にはうっすらと汗が滲み、薄暗い光の中で脂ぎって見えた。


 まるで、その数字は熟考の末に導き出されたものではなく、ただ口からこぼれ落ちただけのように。

 だが、同時に、目に見えない何かに押し付けられているような、そんな不自然な気配を感じた。


 彼の緊張、彼の視線の彷徨。それら全てが俺に告げている。この数字の裏には、きっと、もっと深い意味が隠されている、と。


 ジェシーの目がチラリと俺の表情を伺うように動いた。その視線には、慎重さと少しの不安が混じっており、俺がどう反応するかを測りかねている様子が伺えた。


 そして、彼は恐る恐る付け加えるように、試すような言葉を口にした。

「それで……お客様は、何時間ご希望でしょうか?」


(こいつ、まだ俺の財布の中身を気にしてやがるのか?さっき見せた500枚の金貨でも、俺の財力を疑ってるのかよ。全く、どこまで滑稽なんだか。)


 俺は心の中で軽く笑い飛ばしながらも、表情には何も出さず、淡々とした態度を崩さなかった。


 そして、ほんのわずかに口元を歪め、彼に向けて冷静だが少しばかり不屑の色を含んだ微笑みを浮かべた。

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