第17話 【春満園】

 俺の頭の中には、あの日の光景が一瞬でよみがえった。


 情報パネルは決して嘘をつかない――あのとき彼女の状態は、はっきりと「未経験」だった。

 避妊薬水を買ったときから、もしかするとそんなつもりなんじゃないかと薄々思ってはいたが、まさかこんなに早く、しかも噂になるとは思わなかった。


「裏情報だよ。」


 クリンは目を細めてニヤリと笑った。その表情は、何か知っていることを誇示する古参のような余裕がありありと見えた。


「だってさ、あの子、避妊薬水買ってただろ?これ、もう説明いらねぇだろ。使ったってことだよ、間違いなく。そうじゃなきゃ買わねぇって。」


 彼の顔には妙な笑みが浮かんでいた。それはどこか興奮気味で、なおかつ少しばかりの幸せを壊された誰かを見て楽しむような、そんな悪意を含んでいるようにも見えた。


「要するに、確かなのは『避妊薬水を買った』ってだけなんだよな?」

 俺は少し目を細めて、わざと突っ込むようにそう聞き返した。


「何言ってんだよ?これだけでも十分だろ。」

 クリンは「お前、ほんと分かってないな」みたいな顔をして、肩をすくめた。

「薬を買ったってのが、もう証拠じゃねぇか。そりゃもう確定だよ、間違いねぇ。」


「それはどうかな。」

 俺は軽く首を振りながら、落ち着いた声でそう答えた。深く説明する気もなく、ただ適当に流す。


 すると、クリンは大げさに目を回し、口元に小馬鹿にするような笑みを浮かべた。

「お前、まだそんな純情なこと言ってんのかよ。俺から学ばないとな、兄弟。」


「はいはい。」

 俺はわざと顔をしかめて舌を出し、適当に流しておいた。議論するだけ無駄だ。

 どうせ情報パネルの内容は正確だし、少なくとも俺は真実を知っている。それで十分だ。


 そんな俺の態度を見て、クリンはさっさと話題を切り替えることにしたようだった。

「そうだ、そうだよ!前に言ったろ、いい場所に連れてってやるって!」

 クリンは急に俺のそばに寄り、肩を軽くぶつけながら、小声で興奮気味に話してきた。顔には明らかに悪巧みを企むような笑みが浮かんでいる。


「ちょうど今日、給料日だろ?パーッと使おうぜ!自分にご褒美ってやつだ。」

 その目つきと声色からして、間違いなく何か“やばいこと”を企んでいるのは明らかだった。


 その瞬間、俺も思い出した。以前クリンが盛り上がって俺を巻き込んで約束させた「どこか面白いところに行く」って話だ。


「ふん、そういうことかよ……」

 俺の口元には、自然とクリンと同じような“下品な”笑みが浮かんでいた。


「いつ行くんだ?」


「午後だよ!仕事終わったらすぐ出発だ!」

 クリンの声には明らかな高揚感が混じっていて、まるで全ての計画が完璧に仕上がっているかのような自信を感じた。


「遠くないだろうな?」


 俺はわざと気のない感じを装ってそう聞いたが、内心ではちょっとした興奮を抑えきれなかった。


「心配すんなって。馬車で往復たったの二時間さ!あっという間だよ。」


「分かった。それなら、先にジーンのところでパンをもらってくるよ。そのあと合流だな!」


「いいぞ、準備万端で行こうぜ!」


 言葉を交わし終えると、俺たちは息ぴったりに手を出して、空中で勢いよくハイタッチをした。

 そして、そのあと同時に妙に下品な笑い声をあげた。


 時間は驚くほど早く過ぎていった。まるで瞬きをしただけで、下班の鐘の音が響いたかのようだった。


 俺はまずジーンのところへ行き、予約しておいたパンを受け取った。手早くそれを袋に詰め込むと、すぐに村の入口でクリンと合流した。クリンはすでに俺を待っており、その顔には隠しきれない興奮が浮かんでいた。


 俺たちは準備されていた馬車に乗り込み、ノートの方向へと出発した。


 ノートは、人口10万人を超える小規模ながら活気のある都市だ。俺たちが住むマルセル村とは比べ物にならないほどの賑やかさを誇っている。


 マルセル村は静かな田舎の村で、住人はせいぜい数千人といったところだ。それだけに、ノートに行くことは、まるで全く別の世界を訪れるような感覚だった。


 馬車は順調に進み、揺れも少なく快適だった。窓の外では景色が次々と流れていき、青い空と広がる田園風景が心を癒してくれる。


 クリンと冗談を言い合いながら、笑い声が絶えない道中だった。そんな風に過ごしていると、あっという間に一時間が経過し、俺たちは無事にノートの街に到着した。


 夜のノートは、俺たちのマルセル村とはまるで別世界だった。


 街は明るく灯りに満ち、色とりどりのランプが辺りを照らし出している。それらの光が行き交う人々の顔に反射し、まるで街全体が活気と熱気の衣をまとっているようだった。


 道には人があふれ、まるで川のように流れている。精巧な衣装に身を包んだ貴族の夫人、威勢の良い声で商品を売り込む露店の商人、酒に酔いながら大声で歌う旅人、そして夜の散歩を楽しむ地元の市民――あらゆる人々がこの街に集い、独特の雰囲気を作り出していた。


 日が落ちて夜の帳が降りても、ノートの喧騒は衰えるどころか、むしろ勢いを増しているように思えた。

 香ばしい食べ物の匂いが街中に漂い、笑い声や商人たちの呼び声が混ざり合う。まるでこの街は夜でも眠らない――そんな錯覚を覚えるほどだ。


 クリンは馬車から身を乗り出し、大きく息を吸い込むと、興奮を隠せない表情で俺に振り返った。

「どうだよ!マルセル村とは比べ物にならないだろ?」


 俺たちは馬車を降りると、すぐさま目的地へと向かった。夕飯なんて完全に後回しだ。クリンは俺以上に興奮しているようで、その足取りは軽快どころか、まるで飛ぶような速さだった。


 今回の目的地は【春満園】という店。そう――紛れもなく、ここは娼館だ。そして、この店だけではない。この周辺の通り全体が、同じような店で溢れている。


 このエリアは、昼間のノートの賑やかさとはまた別の、独特な活気に包まれていた。


 街灯の灯りはどこか赤みを帯び、周囲に漂う雰囲気は妖艶そのものだ。どこからともなく甘い囁き声や笑い声が聞こえてきて、それらがこの場所を独特な熱気と期待感で満たしていた。


 クリンが俺をここに連れてきたのは、「新世界」を体験させるためだと、意気揚々と言っていた。そして、それは俺自身の中に密かに芽生え始めていた欲望とも合致していた。


 この世界に来てから、俺にはいくつか「成し遂げたいこと」があった。そして、ここに来ることでそのうちの一つが叶いそうだった。そう――俺は、ここで「童貞」を卒業したいと思っていた。


 クリンの提案を聞いたとき、俺は少しも迷わず即答で了承していた。そして今、目の前に広がるこの妖しい大人の世界に、胸の奥で高揚感が膨らんでいくのを感じていた。


 まあまあ、前世の俺はとっくに大人だけど。


【春満園】の扉を開け、一歩足を踏み入れた瞬間、外界とはまるで異なる空間が広がっていた。


 柔らかなピンク色の灯りが店内全体を妖しげな色彩に染め上げている。空気には甘くて濃密な香りが漂い、それが何とも言えない刺激的な雰囲気を醸し出していた。そこにはほんのりとアルコールの匂いも混ざっていて、この場のムードをさらに引き立てている。


 その場を包む曖昧な空気は、まるでこの空間に入った瞬間から人を飲み込むかのようだ。何もかもが非日常的で、一歩踏み出しただけで別世界に迷い込んだような気分になる。


 クリンはどうやらこの店の常連らしい。彼はこの環境に完全に慣れている様子で、店内を軽快に歩き回っていた。その姿はあまりにも自然で、自分の家にいるかのような気軽ささえ感じられる。


 俺が彼の後について歩いていると、露出度の高い服装をした女性たちが次々と彼に声をかけてきた。


「おや、クリンじゃない!」

「今日も来たのね、楽しんでいって!」


 中には、ただ笑いかけるだけではなく、冗談めかした言葉を投げかけたり、大胆にも彼の肩を軽く叩いてきたりする者もいた。それに対して、クリンは満面の笑みで返事をしながらも、決して足を止めることはなかった。


「はいはい、後でな!」

 そんな感じで女性たちを軽くあしらいつつ、俺の腕を引っ張りながら、どんどん店の奥へと進んでいく。


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