第16話 初めてを奪われたらしいぜ

 ヴィラン――それはヘイラ婆さんの息子だ。


 彼女がその名前を口にしたとき、声が少し沈んだ。それは、不安を隠そうとする気持ちの現れだったのかもしれない。

 だが、彼女が握りしめたティーカップの手元は、その心情を隠しきれていなかった。


「じゃあ、俺がヴィランさんのこと、調べてみますよ。」


 俺はほとんど反射的にそう口にしていた。その声には、自分でも驚くほどの決意が込められていた。


 ヘイラ婆さんにとって、それがどれだけ心配の種になっているかは明らかだったし、今の俺にできる一つの小さな恩返しだと思ったからだ。


「……ありがとうね、ニゲン。」


 彼女は一瞬驚いたような表情を浮かべた。まさか俺がそんな提案をするとは思わなかったのだろう。


 少し間を置いた後、その表情は次第に柔らかくなり、感謝と安心が混じった笑顔を見せてくれた。その笑顔は、まるで母親が息子に優しく微笑むような、どこか懐かしく、温かいものだった。


 俺は心も晴れやかに村の道を歩いていた。軽やかな足取りで、思わず口元には笑みが浮かぶ。やっぱり、外見と雰囲気をちょっと変えただけで、世界がまるで違って見える。


 通りすがる村人たちは、手を止めてこちらを見てくる。その視線は驚きと戸惑いに満ちていた。

 目を丸くして俺が誰なのか分からないといった顔をする者もいれば、こそこそと話し合いながら、疑わしげな表情を浮かべる者もいる。


 そんな反応を目の当たりにしながら、俺の心は踊っていた。まるで別の自分になったような感覚。それがなんとも気持ち良い。ちょっとした優越感、いや、小さな爽快感というやつだ。


 そんな浮かれ気分の中、突然背後から荒々しい罵声が飛んできた。それは俺の幻想的な思考を一瞬で吹き飛ばすほどだった。


「おい、クソガキ!今日はパンを買いに来ないのか!」


 振り返ると、パン屋の主人、ジーンだった。彼は腰に手を当てて街道の片隅に立ち、口には草の茎をくわえながら、俺に向かって不満げな顔をして叫んでいる。


「お前のパン?ふん!」

 俺はジーンに向かってわざとらしく舌を出しながら、挑発的な口調で言い返した。

「ヘイラ婆さんのラーメンと比べたら、お前のパンなんて話にならねぇよ!」


 俺の言葉に、ジーンは怒るどころか、むしろ楽しそうに笑い出した。その笑顔は豪快で、目尻が細くなるくらいだった。まるで俺の挑発なんて気にもしていないかのようだ。


「ほぉ~、もう朝飯済ませてきたってか?」

 彼はわざと大げさな調子で言い、半信半疑の表情を浮かべてみせた。

「でもなぁ、俺は信じないね。証拠を見せてみろよ。せめて俺にもそのラーメンを食わせてみろよ!」


「それはヘイラ婆さんが、特別にお前のために作ってくれる気にならなきゃ無理だな!」


 俺はニヤリと笑いながらそう返した。どこか勝ち誇ったような気分で、肩をすくめて見せた。


 それを聞いたジーンは、顔に浮かべていた笑みを少し引っ込め、舌打ちを一つした。それから急に口調を変え、芝居がかった声で脅すように言った。


「ふむふむ……いいだろう、クソガキ。だったら夜になってもパンは残しておかねぇからな。特にお前が大好きな……あれ、何だったっけな?」


 彼はわざとらしく音を引き延ばしながら、狡猾な目つきで俺をじっと見た。

 最後にはニヤリと笑い、わざと一言一言区切るように言った。


「そうだ、アーモンドチョコパンだ!」


 その言葉に俺は思わず口元を引きつらせた。まさに急所を突かれた気分だ。


 これはまずい、と瞬時に悟った俺は、すぐに態度を一変させて服従モードに突入した。両手を合わせてペコペコ頭を下げながら、ジーンに向かってこう言った。

「ごめんなさい!俺が悪かった!アーモンドチョコパンが世界一だ!」


 その一言を聞いたジーンは、まるで勝ち誇った鶏のように胸を張り、両手を腰に当ててニヤニヤと笑い出した。

「へっへっへ、それでこそ分かってるじゃねぇか!」


「よし、分かったらもういい!俺の商売の邪魔をすんな!」

 ジーンは満足げに言いながら、手をひらひら振って俺を追い払おうとする。

「さっさと行け、さっさと行け!仕事が待ってんだろうが、このクソガキ!」


「パン、忘れずに取っといてくれよ!」

 俺は背を向けて歩き出しながら、振り返って手を振りつつ言った。わざと少し不満げな声色を乗せてみる。


「来るのが遅れたら知らねぇぞ!」

 ジーンは怠けたような声で返してきた。その声はわざとらしく伸びていて、完全に俺をからかって楽しんでいる感じだ。


「ったく……」

 俺は小さく舌打ちをしてみせたが、心の中で「ほんと、手強いオヤジだよ」とぼやきながらも、どこか憎めない気持ちがあった。つい顔には薄っすらと笑みが浮かんでしまう。


 なんだかんだ言って、こうやって軽口を叩き合うのも悪くない――そんな風に思いながら、俺はまた自分の道を歩き始めた。


 俺は錬金店の扉を押し開けた。すると、店内に漂ういつもの薬草の香りが鼻をくすぐる。

 今日はこんなに早く来たんだから、きっと店長のクレアに褒められるだろう――もしかしたら、彼の珍しいお褒めの言葉だって聞けるかもしれない、なんて思っていた。


 だが、視線を上げた瞬間、その期待はあっさり裏切られた。

 クレアの姿はどこにもなく、その代わりにいたのはクリンだった。俺と同じく、この店のレジ係だ。


 クリンはカウンターの向こうで、分厚い錬金術の本を手に取り、何やらページを指でトントン叩きながら考え込んでいるようだった。

 俺に気づくと、彼は顔を上げ、口元にちょっとからかうような笑みを浮かべた。


「おやおや、今日は随分と早いじゃないか。お前らしくないな。」

 彼はわざと舌打ちをしながら、からかい半分の調子でそう言った。


「おいおい!何だよそれ!」

 俺はすぐに手を振り返し、負けじと反論した。

「俺だってたまには真面目にやるんだよ!で、クレアはどこ行ったんだ?」


「休みだよ。」

 クリンは気の抜けた声でそう答えた。まるでどうでもいいと言わんばかりの口調で、視線は依然として本から離れない。


「休み?」

 俺は一瞬固まって、眉をひそめた。言葉には思わず疑問がにじむ。

「そりゃ珍しいな。俺、クレアが仕事を休むなんて考えたこともなかったんだけど。」


 俺の言葉を聞いて、クリンはついに手にしていた本を閉じ、俺の方を見上げた。その顔には、どこか含みのある、意地の悪い笑みが浮かんでいる。


「きっと布団の中で泣いてるんだろうさ。」


「はぁ?」

 俺は全く意味が分からず、額に疑問符を浮かべたような顔になった。

「何言ってんだよ、お前。」


 クリンは「おっと、まだ何も知らないんだな」とでも言いたげな表情をしながら、急に俺のそばに顔を寄せてきた。

 そして声を低くし、目を輝かせる。明らかに面白い話を誰かにぶちまけたくて仕方がない様子だった。


「お前、知らねぇのかよ。」

 クリンは、声をさらに低くしながら続けた。

「イヴリンが、どこの誰か分かんねぇ野郎に……初めてを奪われたらしいぜ。で、それをクレアが聞いちまったんだよ。」


「……マジかよ?そんなに早く?」

 俺は思わず声を落とし、驚きを隠せないまま問い返した。まるでこの会話を誰かに聞かれるのを恐れるかのように。

「その話、どっから出てきたんだよ?」


(イヴリンがここで避妊薬を買ってたのは確かだけど……あの時は、確かまだ……処女だったはずだよな?)

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