第15話 翌朝
翌朝、俺は一晩中まったく眠らなかったにもかかわらず、不思議と疲労感はなく、むしろ驚くほど清々しい気分だった。
ゆったりとした気分で服を選び、襟元を整えた後、部屋の扉を軽やかに開けて階段を下りていく。足取りは軽快で、一歩一歩に小さな喜びが混じっているような感覚だった。
リビングに降りると、そこにはすでにヘイラさんが起きていた。いつもの習慣なら、この時間は庭先で彼女の生き生きとした鉢植えたちの世話をしているはずだが、今日は少し様子が違う。
珍しく家の中にいて、手には湯気が立ち上る紅茶のカップを持っていた。
「おはよう、ニゲン!今日は随分と早起きじゃないの。」
ヘイラ婆さんが俺を見て、柔らかな笑みを浮かべながら声をかけてくれた。その声色には少し驚いたような響きが混じっている。
「おはようございます、ヘイラ婆さん。」
俺も軽快な調子で礼儀正しく返事をしたが、その声にはどこか探るようなニュアンスを込めていた。
「昨夜、ちょっとした音を立ててしまったんですが、ご迷惑をおかけしていませんよね?」
少し間を置いてから、俺は気まずそうに後頭部を掻きながら尋ねた。昨夜の出来事が何か問題を引き起こしていないかと内心少し心配だったからだ。
「いやいや、全然だよ。ぐっすり寝てて、音なんて何も聞こえなかったよ。」
ヘイラ婆さんは、朝の陽射しみたいに暖かい声で笑いながらそう言った。その笑顔は目尻が下がって、まるで心まで包み込むようだった。
けど、その視線がふと俺に向けられた瞬間、笑顔が一瞬固まり、次の瞬間には驚いたような表情に変わった。目をほんの少し見開いて、まるで信じられないものでも見たかのようだった。
「ニゲン……今日は随分と元気そうじゃないの……まるで別人みたいだね!」
ヘイラ婆さんの声には、心からの驚きが滲み出ていて、話しながら自然と鼻梁の眼鏡を押し上げた。その仕草は、自分の目を疑っているみたいだった。
「婆さんも気づいたのか?」
俺は口元を軽く上げて、ちょっと得意げに手をひらひらさせながら、わざと気取った調子で言った。
「ちょっと、自分を整えてみたんだよ。」
もっとも、これも全部管理者権限のおかげだけどな。
「いやー、本当に不思議だね!ちょっと整えただけで、まるで別人みたいだ!」
ヘイラ婆さんは顔いっぱいに驚きを浮かべながら言った。その声には、隠しきれない感心と感嘆が滲んでいた。
彼女は手を上げて親指を立てると、また笑顔を見せた。その笑顔は暖かくて、どこか慈愛に満ちていた。
「ニゲン、今日は本当にイケメンだよ!」
彼女の声はどこか弾んでいて、目には、年長者が年少者の成長を見たときに浮かべるような特有の安堵と喜びが宿っていた。
「ありがとうございます。」
俺は少し頭を下げて答えた。声にはほんの少しの照れくささが混じっていた。
「さあ、こっちにおいで。」
ヘイラ婆さんは突然俺に手招きしながら言った。相変わらず穏やかで優しげな表情だった。
「朝ごはんを作ってたら材料が少し余っちゃってね。ついでだから、あんたの分も用意しといたよ。まだ時間も早いし、食べてからでも十分間に合うだろう?」
俺は一瞬、呆然としてしまった。ヘイラ婆さんの笑顔は、あまりにも自然で、作り物の気配など微塵もなかった。その穏やかな笑みに心がじんわりと温かくなるのを感じた。
正直に言えば、ヘイラ婆さんがこのよそ者である俺に無料で宿を提供してくれた時点で、感謝の気持ちでいっぱいだった。
何をどう言えばいいのかさえ分からないくらいに。
でも、彼女の優しさはそれだけにとどまらなかった。
俺がここに住むようになった日から、彼女は生活のあらゆる面で俺を気遣い、細やかに世話を焼いてくれた。その一つ一つの心遣いは、感動を覚えるほどだった。
だが同時に、俺を少しだけ戸惑わせてもいた。彼女のその厚意にどう応えたらいいのか、まったく分からなかったからだ。
今の俺は、ほぼ無限と言えるほどの財産を手にしている。だが、金なんかはヘイラ婆さんにとって重要なものではないのは明らかだった。
実際、俺が何度か家賃を払おうとしたことがあったが、彼女はそのたびに柔らかい口調で、でもきっぱりと断ってきた。
金、それは明らかに彼女の心を動かせるものではないのだ。
「本当にありがとうございます。」
俺は結局、ヘイラ婆さんの好意に素直に甘えることにして、椅子を引いてテーブルに座った。正直なところ、ここまでされてまだ断るなんて、人間としてどうかしてると思う。
テーブルには、一見してシンプルなラーメンが置かれていた。澄んだスープの上には、厚めに切られた肉片が何枚か浮かんでいる。その肉の量は予想以上に多く、思わず胸がじんと熱くなった。
「いただきます。」
俺はきちんと礼をして、手を合わせた。それから丼を手に取り、このさりげないけど心のこもった朝食を口に運び始めた。
味はどこか懐かしく、素朴そのものだった。スープは少し塩気が強い気もしたけど、なぜだろう、口にするたびに心の奥がじんわりと温まっていく。
それは言葉では言い表せない不思議な感覚だった。まるで朝日のように、柔らかで、それでいて真っ直ぐに心の中まで届くような――そんな温かさだった。
「ゆっくり食べなさいよ。喉に詰まらせたら大変だからね、時間はまだあるんだから。」
ヘイラ婆さんは、俺がガツガツとラーメンを食べている様子を見て、思わず笑い声を漏らした。その笑顔には、どこか母親のような温かさと、ちょっぴり呆れたような優しさが混じっていた。
俺はそんな彼女の言葉を気にする様子もなく、あっという間にラーメンを平らげ、スープまできれいに飲み干した。
「ごちそうさまでした!」
そう言って立ち上がり、外套を手に取る。
「そろそろいい時間なんで、行ってきます。」
玄関まで向かい、ドアを開ける前に俺は振り返り、感謝の気持ちを込めて手を振った。
「本当にありがとうございました、ヘイラ婆さん!」
「気をつけてね!」
ヘイラ婆さんは、いつもの優しい笑顔で俺を見送ってくれた。
だが、ドアの外に足を踏み出したその瞬間、ふと何かが胸に引っかかったような気がして足を止めた。
数秒間考えた後、俺はもう一度振り返り、真剣な表情でヘイラ婆さんを見つめた。
「ヘイラ婆さん、今、何か叶えたい願い事はありますか?ここで穏やかに暮らす以外で、もし心の中にあるなら……」
俺の問いかけに、ヘイラ婆さんは一瞬、驚いたような表情を浮かべた。まさかこんな質問をされるとは思っていなかったのだろう。
最初は穏やかで控えめな笑顔を浮かべていた彼女だったが、その笑顔は少しずつ薄れていき、代わりに複雑な表情が浮かび上がった。
それはどこか懐かしさと切なさを織り交ぜたような、深い感情を秘めた顔だった。
「私はもう十分満足してるわよ。」
ヘイラ婆さんはそっとため息をつきながら言った。その声は少し低く、まるで自分に言い聞かせるような調子だった。
「これといって願い事なんてないわ……息子も娘も、それぞれ自分の人生をしっかり歩んでいるしね……」
そこまで言ったところで、彼女は言葉を切った。視線をそらして、自分の両手をじっと見つめ始める。
その仕草は、まるで何かを思い出し、心の中を整理しようとしているように見えた。
「ただ最近ね……なんだか落ち着かないのよ。」
ヘイラ婆さんは低い声でそう呟いた。その口調には、どこか迷いと不安が混じっていた。
彼女の視線は少し下に落ち、まるで言葉を選んでいるようでもあり、同時にその不安を俺に悟られたくないかのようでもあった。
「ノービス王国とイサモート王国が戦争をしてるでしょ?それで……ちょっとヴィランのことが心配なの。」
彼女はそう言って、小さく息を吐いた。
「彼からずっと返事がないのよ。」
その言葉には深い憂いが滲んでいて、俺の胸にもじわりと重たい感情が広がった。
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