第8話 村で囁かれている噂

 俺の表情を見て、イヴリンも自分の態度が少し行き過ぎたことに気付いたのだろう。


 彼女の顔にはすぐに後悔の色が浮かび、肩を小さく落として頭を下げた。

 手足がそわそわと動き、まるでどうしたらいいか分からないといった様子だ。そして、消え入りそうな声で言葉を漏らした。


「ごめんね、ニゲン……さっきのは……とにかく、今これが本当に必要なの。」


 彼女の声には明らかに焦りと、どこか必死な響きが混じっていた。その様子に、俺は思わず苦笑しそうになった。


(いやいや、何をそんなに急いでるんだ?)


 だって、さっき確認した彼女のステータス画面にはっきりと書いてあったはずだ――何も“まだ”起きていない。

 だから、今このタイミングでそこまで切羽詰まる理由が思い当たらない。


(それとも、何か外部からの圧力でもあるのか?)


 彼女の態度に疑問は尽きないが、少なくとも今ここでしつこく問い詰めるのは賢明ではないだろう。


 俺は軽くうなずき、表情をできるだけ穏やかで自然なものに整えた。


「……分かった。」


 俺は気を取り直して、カウンターの下にある収納スペースから三本の避妊薬水を取り出した。それらの瓶は俺の手の中で微かに揺れ、その中に入った淡い青色の液体が光を反射して、穏やかに輝いている。その静けさが、目の前のイヴリンの明らかに乱れた表情と対照的で、なんとも言えない違和感を覚えた。


 彼女は薬瓶を受け取るときも、どこかぎこちない動きだった。俺と目を合わせることすらせず、ポケットから小さな袋を取り出して、カウンターの上に置いた。


 袋の中には銀貨が20枚――明らかに商品代金より多い。


「さっきの態度の……お詫び、と思って受け取ってください。ごめんなさい。」


 彼女は小さな声でそう言いながら、頭を下げた。その声には確かに申し訳なさが滲んでいたが、彼女の視線は依然として床の一点を見つめたままだ。


 そして、言葉を終えるや否や、彼女はほとんど逃げるように振り返り、足早に店を出ていった。その軽快な足音には、どこか落ち着きのない慌ただしさが感じられる。


(あの様子……何かから逃げているみたいだな。)


 俺は静かに息をつきながら、手の中に残った薬瓶の冷たい感触を感じていた。


 俺はイヴリンの背中が店の外の通りに消えていくのを見つめながら、心の中にさらに多くの疑問が湧き上がってきた。


(追加で5枚の銀貨を渡してきたってことは……それほど急を要しているってことか?でも、何にそんなに追われているんだ?この状況、一体どういうことだ?)


 まだ先ほどの出来事の余韻が残る中、ふと背後から足音が聞こえてきた。それは、カウンターの向こう側にある錬金室から響いてくるもので――


 振り向くと、案の定、クレアが険しい表情で出てきた。


 彼は手に小さな坩堝を持っており、その中には淡い色の粉末が詰められている。どうやら何かの錬金作業をしている途中だったらしい。


「どうした?」


 彼の低く抑えた声が店内に響く。


 その口調は特に怒っているわけではないが、明らかにどこか不機嫌そうだ。おそらく、さっきのやり取りの声が、彼の仕事の邪魔になったのだろう。


「別に大したことじゃないよ。避妊薬水を三本買っていっただけだ。」


 俺はそう言いながら、カウンターの上に残っていた銀貨を手早く片付けた。


「……避妊薬水?」


 クレアの声色が明らかに変わった。その冷静だったトーンに微かに動揺が混じっているのが分かる。


 彼は手に持っていた坩堝をカウンターの隅に置き、俺の方に一歩近づいた。その冷淡な表情にはわずかながら驚きが浮かび、目には明らかな興味が宿っている。


「誰が買ったんだ?」


 その質問に、俺はほんの一瞬だけ言葉を詰まらせた。


(いや、ここで正直にイヴリンの名前を出すのはまずいだろう。)


 俺は何気ない調子を装い、軽く肩をすくめながら答えた。


「知らない人だよ。銀貨だけ置いて、さっさと帰っていった。」


 咄嗟に出た嘘だったが、これ以上深く掘り下げられるのを避けたかった。


 俺はクレアの表情を伺う。彼は俺の言葉に対して明確な反応は示さなかったが、目を細めて考え込むような仕草を見せた。


(分かってるよ、クレア。お前がイヴリンをどう思っているかなんて、この村じゃ誰もが知ってる。もちろん、俺みたいな外から来たばかりの奴にも、すぐに察せることだ。)


 クレアは普段、冷淡で感情を表に出さないタイプだ。それでも、イヴリンが店に来るときだけは違う。

 彼女がいる間、彼の視線は常に彼女を追いかけ、話しかけようとしては結局何も言えずに終わる――そんな様子を何度も見てきた。


 だからこそ、イヴリンが避妊薬水を買ったなんて話を彼に直接伝えるわけにはいかない。彼がどう思うかは目に見えているし、変に騒ぎを起こしたくなかった。


 俺の答えを聞いたクレアは、明らかに安堵の色を浮かべた。緊張していた肩が少しだけ落ち着き、表情もわずかに和らいだように見える。だが、それでも彼の眉間には微かな皺が残り、困惑した様子で考え込んでいた。


 彼は視線を落としながら、何かを整理するように一瞬黙り込んだ後、口を開いた。


「最近、教会の方でも避妊薬水を求める人が増えているらしいんだ。前よりも、かなり多くの量が出ているって聞いたよ。」


「ほう?」


 俺はあくまで興味なさげなトーンで返事をしたが、内心では違った。


(これはますます面白くなってきたな……。村でも教会でも、避妊薬水の需要が突然増えているだなんて、絶対に普通じゃない。何かが起きている。)


 俺の興味は完全に引きつけられた。だが、表情には出さず、クレアの話を促すように軽く頷いた。


 クレアは首を軽く振り、どこか釈然としない表情を浮かべながら続けた。


「なぜそんなに増えているのか、俺も詳しい理由は分からない。ただ……最近村で囁かれている噂と関係があるんじゃないか、って思うんだ。」


「噂?」


 その言葉に、俺は自然と耳を傾けた。何か有用な情報を引き出せるかもしれないと思ったからだ。


 だが、クレアはすぐにその話題を打ち切った。


「大したことじゃない。」


 彼の声には、話をこれ以上広げたくないという意思がはっきりと感じ取れた。


 そのままクレアは振り返り、手に持っていた坩堝を再び持ち直すと、足早に錬金室へ戻ろうとした。


「とにかく、お前は自分の仕事だけに集中していればいい。余計なことに首を突っ込むな。」


 その言葉は冷たく突き放すようなものだったが、俺には彼の声の奥に微妙な抑圧感や、どこか諦めにも似た無力感が混ざっているように聞こえた。


(……何か知っているな。でも俺には話すつもりはないってわけか。)


 クレアは確実に何かを知っている。だが、それが何であれ、彼の態度からして、俺に共有する気は全くないようだ。


(この流言と避妊薬水の急増には、何か関係があるはずだ……。)


 とはいえ、正直言って、こういった「八卦(噂話)」は今の俺にとって、あくまで暇つぶしに過ぎない。どれだけ興味深くても、俺の本来の目的には到底及ばない。


(だって、こんな村の出来事より、チートコードを解き明かす方がよっぽど重要だろ!)


 もし俺があのコードを使えるようになれば、今の弱っちい自分を一気に強化できるだけでなく、この単調で退屈な日々すら飛び越えて、もっと刺激的で壮大な冒険に乗り出せるかもしれない。


(くだらない噂話なんか気にしてる場合じゃない。まずはコードを突破するのが最優先だ!)


 そう思い直した俺は、心の中で渦巻く雑念を無理やり押し込めた。今は他のことに気を取られるべきではない。


(今晩も時間を使って、あのコードの研究を続けるしかないな。)


 未だ成功していないものの、あの入力画面がある以上、どこかに解決の糸口があるはずだ。

 村の些細な出来事に気を散らすよりも、自分の突破口を見つけることに集中すべきだ。

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