第6話 極端に沈んだ雰囲気
さて、俺の仕事に話を戻そう。今の俺はただのレジ係だ。錬金術のことなんて、何一つ知らない。
ベルンの店では、誰も俺に錬金術の知識を教えてくれるわけでもないし、薬の調合方法や材料の見分け方といった専門的なことを説明してくれる人もいない。
俺はまるで感情のない機械のように、ただひたすらレジ業務をこなし、客の対応や帳簿のチェックをして、決められた作業をこなしているだけだ。
錬金学徒なんて大層な肩書きにはほど遠い。ただの「便利な手伝い」って感じだ。
でも、正直なところ――俺はそれを特に気にしていない。
思い返してみれば、前世の地球での生活は、いつも忙しさとの戦いだった。
仕事のプレッシャー、日々の生活の細々とした雑事、そして終わりの見えない飲み会や付き合い。
そんな日々が続いて、俺は常に心も体もすり減らし、精一杯生きることに疲れ果てていた。
あの息苦しい毎日を思い出すたびに、自分の人生そのものに疑問を感じることすらあった。
その点、今の生活はどうだろう?
確かに、単調で刺激が少ないかもしれない。でも、その代わりに、心の余裕がある。
複雑なことを考える必要もなく、ただ日々の仕事をこなして平和に暮らす。それだけで十分幸せだと思える。
「こういうシンプルな生活が送れるなんて、俺にとっては貴重な贈り物みたいなものだ。」
そう思えば、特に不満は感じない。
特に、この店には普段からほとんど客が来ないのが特徴だ。
店内はほとんどいつも静まり返っていて、聞こえるのはクレアがカウンターの奥で帳簿をいじる音か、奥の錬金室で新しい錬金術のレシピに集中している気配くらいだ。この穏やかな空気感が心地よく、つい気が緩んで眠気に襲われることもある。
正直、この生活はほとんど「老後の隠居生活」みたいなものだ。
もちろん、暇を持て余すこともある。そんなときは、何かしらの雑用を見つけて手を動かすようにしている。
たとえば、棚に並んでいる薬瓶や薬草の容器を種類ごとに分けてきれいに並べ直したり、隅っこでホコリをかぶっている錬金材料を掃除したり。これだけでも、店内が少し整うと気分がよくなる。
また、クレアが新しい薬を調合しているときには、俺も手伝いに行くことがある。材料を運んだり、できあがった薬剤を所定の棚に並べたりといった、簡単な力仕事がほとんどだ。
こういう単純な作業は、疲れるどころか不思議と充実感を与えてくれる。
クレアは相変わらず俺に対してほとんど無関心だ。
ベルン錬金店の代理店長である彼は、どこか冷たい距離感を漂わせている。必要最低限のこと以外、あまり話しかけてくることもなく、いつも自分の仕事に集中している。
それでも、俺と彼の関係は別に悪くはない。彼は錬金術に専念し、俺はレジ業務をこなす。お互い干渉しないというスタンスがうまく成り立っている。
そんな安定した生活は、俺にとってどこか不思議な心地よさを与えてくれる。
考えてみれば、前世の生活は何かとプレッシャーや不安に追われていた。絶えず何かに追い立てられ、休む間もなく働き続ける日々。
そんな重苦しい日常に比べれば、今のこの穏やかで規則正しい生活は、まさに久しぶりに味わう“解放感”そのものだ。
この村での平穏な毎日を過ごすうちに、ふと思ったことがある。
「もしかすると、この静かで安らかな日々こそが、俺がこの世界に“転生”して得たご褒美なんじゃないか?」
今日も相変わらずの静けさだった。店内には客の姿はなく、窓の外からも村のざわめきはほとんど聞こえない。
柔らかな陽光が窓越しに差し込み、カウンターを暖かく照らしている。その暖かさは、気を抜くと眠気を誘うほどだ。
少し体を動かそうと思い、棚に並んだ薬瓶を整理し直すことにした。最近、いくつかの瓶が歪んで並んでいるのが気になっていたのだ。そう考え、立ち上がろうとした瞬間――
「ギィ……」
ドアが小さな音を立てて開いた。
俺は反射的にドアの方を振り返る。そこに立っていたのは――
(ん?これは……イヴリンじゃないか。珍しいな。)
目の前に現れたのは、黒髪の少女だった。その長い髪はまるで絹のように艶やかで、肩に柔らかく垂れ下がっている。彼女はこの村で数少ない若い女性の一人だ。
イヴリンがこの店を訪れることは滅多にない。
俺は棚の整理をするつもりだったが、その考えをすぐに頭から追い出し、急いでレジカウンターへと戻った。
そして、頭を上げ、「プロの接客スマイル」を作りながら、いつものお決まりの台詞を口にした。
「いらっしゃいませ!何をお探しですか?薬剤ですか、それとも錬金材料ですか?当店ではあらゆる商品を取り揃えております!もし在庫がない場合でも、事前にご注文いただければ、入荷次第すぐにご連絡いたします!」
このセリフは、もう何度も口にしてきたので、もはや反射のようなものだ。頭で考える必要すらなく、スムーズに言葉が出てくる。
だが――その後の店内の空気は、なんとも言えない奇妙な静けさに包まれた。
目の前に立つイヴリンは、店の中央でじっと佇んでいる。彼女は両手を胸の前で重ね、頭を少し下げたまま、俺の問いかけには一切答えない。
その静寂の中、店内にはただ時計の「カチ、カチ」と秒を刻む音が響いているだけだった。
俺は思わず動きを止め、胸の奥に一瞬の異様な緊張感を覚えた。
イヴリンの沈黙は、ただの気まぐれや無関心とは明らかに違う。むしろ、その静けさが店内全体を覆い尽くし、空間そのものが重苦しく感じられるほどだった。
思わず、彼女の様子をじっくり観察してみる。
すると、彼女の顔色が明らかに悪いことに気づいた。肌はどこか青白く、視線は床の一点に落ちたままで、どこか空虚な感じすら漂っている。普段の彼女とは似ても似つかないほど、極端に沈んだ雰囲気だ。
イヴリンといえば、いつも明るく元気で、人と話すのが好きな村のムードメーカーのような存在だ。それが今日の彼女はどうだろう。まるで、どこか遠い場所から漂ってきた濃い影をまとっているかのように、悲しみと疲れが全身から溢れ出ている。
(一体、彼女に何があったんだ?)
胸の中に不安が膨らむと同時に、自然と声のトーンを落としてしまう。
俺は慎重に言葉を選び、なるべく穏やかで優しい声を心がけながら、試しに話しかけた。
「イヴリン……なんだか疲れてるみたいだね。何かあったの?」
彼女はふと顔を上げ、俺の目を一瞬だけ見つめた。唇が微かに動いたが、結局何も言葉を発することはなかった。
そしてまた、視線を落とし、まるで何かを言うべきかどうか迷っているように、じっと俯いたまま考え込んでいるようだった。
その姿を見た瞬間、俺の胸に不安がじわりと広がっていった。
普段のイヴリンなら、こんな風に沈黙するなんてありえない。彼女はいつも明るく、村の中でも誰とでも楽しく話すタイプだ。
だが、今目の前にいる彼女は、その面影が全く感じられない。
俺はただのレジ係で、彼女の事情に首を突っ込む権利なんてないのかもしれない。でも、この状況で何もなかったかのように振る舞うことは、どうしてもできなかった。
この村では、生活圏が狭いぶん、誰かの小さな異変でもすぐに目立つ。人々の間で何かが起これば、その影響は村全体に波及することだって珍しくない。
(どうやら、今日は簡単に終わる日じゃなさそうだな……。)
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