第4話 温かな空気

 朝陽が木窓の隙間から差し込み、柔らかな光が俺の顔を照らした。その暖かさが、夜の薄い寒さを追い払うように感じられる。


 ぼんやりと目を開けた俺は、半透明のUI画面に浮かぶシステム時間を確認した。


「8時50分」


(やばい!今日は俺の当番日じゃないか!なんでこんなに寝坊したんだ!?)


 その瞬間、俺の頭はまるで冷水をぶっかけられたように一気に覚醒した。


 慌ててベッドから飛び起きた拍子に、足が掛け布団に引っかかりそうになり、危うく転びかけた。だがそんなことを気にしている暇はない。


 手当たり次第、椅子に放り投げてあった服を掴み、急いで身に着ける。皺くちゃの外套を適当に整え、髪の毛はそのまま――いや、梳かす時間なんてあるわけがない。


 そして、急いで木製の扉を勢いよく開け放つと、俺はそのまま風のように外へ飛び出していった。


 部屋の扉を勢いよく開けて外に飛び出した瞬間、俺はヘイラおばさんと鉢合わせした。

 彼女は村で評判の良い親切な老婦人で、今は家の前で腰をかがめ、色鮮やかな小花が咲いた鉢植えを手入れしているところだった。


 俺の慌ただしい姿を見ると、彼女は楽しそうに微笑みながら声をかけてきた。


「おはよう、ニゲン。」


 走りながら振り返り、俺は軽く会釈して答えた。


「おはようございます、ヘイラおばあさん!」


 彼女は顔を上げ、笑顔を浮かべたまま、少し気遣わしげな声で続ける。


「今日は店の当番なのかい?」


「そうなんです、ヘイラさん!」俺は急ぎ足のまま振り向きざまに答えた。「ちょっと寝坊しちゃって、急いで向かってるところなんです!」


「なるほどね。」ヘイラおばさんは目を細め、まるで孫を見守る優しい祖母のような表情を浮かべて、穏やかな声で言った。


「そんなに慌てなくても大丈夫だよ、まだ間に合うだろうからね。道中気をつけてお行きなさい。」


「はい、ありがとうございます、ヘイラおばあさん!」


 俺は振り返りながら、走りつつ片手を軽く振って、申し訳なさと感謝の入り混じった笑顔を見せた。

 ヘイラさんも花鉢のそばに立ったまま、笑顔で俺に手を振り返してくれる。

 朝の柔らかな陽光が彼女の肩に降り注ぎ、その姿はなんとも温かく、優しさに満ちて見えた。


 数歩走り去った後、なぜか俺は無意識に振り返ってしまった。彼女が花を丁寧に世話しているその後ろ姿を目にして、胸の中にほんのりとした安堵感が広がる。


 村の環境は決して恵まれているとは言えない。物資も少なく、生活も質素だ。けれど、この村の人々は、そんな中でも自分たちなりの幸福を見つけ、楽しんでいるように見える。

 そんな村の温かな空気が、俺にとっても妙に心地よく、安心感をもたらしてくれるのだ。


 ヘイラおばあさんは、俺がこの村に来てすぐに助けてくれた恩人でもある。


 俺が村にたどり着いた頃、右も左も分からない状況で、不安に押し潰されそうになっていた俺に手を差し伸べてくれたのが彼女だった。


 この村では珍しい一人暮らしの老婦人であるにもかかわらず、彼女は驚くほど優しく、そして寛大だった。


 彼女は自宅の使っていなかった小さな部屋をわざわざ掃除して、俺に無料で貸してくれたのだ。さらに、時折温かいスープや炖菜を作ってくれて、空腹の俺を助けてくれた。


 ヘイラおばあさんの暮らしは決して楽ではない。


 彼女の夫は数年前に病で亡くなり、その体は村の北の丘の上にある静かな墓地に埋葬されている。


 一人息子は兵士として軍に入隊し、もう何年も故郷に帰ってきていない。娘は遠く離れた王都に嫁ぎ、今や母と暮らすことはなくなった。


 そんな状況の中で、ヘイラおばあさんはこの小さな木造の家と庭を一人で守り続けている。


 何度も娘から手紙が届き、王都で一緒に暮らすよう誘われているそうだ。手紙には、王都ではもっと良い暮らしを提供できること、より快適で満ち足りた生活を送らせてあげられることが丁寧に綴られているという。


 しかし、彼女はその誘いを頑なに断り続けている。


 理由を尋ねると、彼女は穏やかな笑みを浮かべながらこう言った。


「私はここに残りたいの。お父さんと一緒にね。この村で、お父さんが眠る場所の近くで過ごしたいの。そして、私が年老いて眠りについたとき、彼の隣に横たわって、この村を一緒に見守れるのなら、それで十分幸せなの。」


 ある日、俺が村の裏手にある丘を通りかかったとき、ヘイラおばあさんがそこにいるのを見かけた。

 彼女は夫の墓の周りを静かに掃除していた。手には小さな野花の束を抱えていて、それをそっと墓の前に置いた。


 その仕草は穏やかで、彼女の目には悲しみや痛みは見えなかった。ただ、そこにあったのは深い愛情と、静かで優しい追憶の眼差しだった。


 彼女は時折こう口にする。


「私はね、残りの人生はこの土地で過ごしたいのよ。そして、いつか私もお父さんの隣に眠る日が来たら、それで十分幸せなの。家から近くて、人の手が届かない静かな場所――それが一番いいのよ。」


 その言葉には、彼女の人生観や夫への変わらぬ愛情が滲み出ていた。


 俺は彼女の優しさを決して当たり前だと思ったことはない。むしろ、あの優しさの裏にある彼女の人生や選択を考えれば、感謝の気持ちは尽きない。


 彼女にとって、この村に留まり、大切な思い出を守り続けることは彼女自身の選択だ。

 そして、俺にとっては、その選択を支え、彼女の善意に報いることが俺の責任だと感じている。


 ヘイラおばあさんに別れを告げた後、俺は全速力で村の角にあるパン屋へと向かった。

 この店は村で唯一のベーカリーであり、店内に足を踏み入れた瞬間、焼きたてのパンの香ばしい香りが鼻をくすぐり、一気に眠気も吹き飛んだ。


 この店の店主は、陽気な中年男性で、いつも少し冗談混じりの口調で人をからかうのが好きな人物だ。


 俺は挨拶もそこそこに、ポケットから数枚の銅貨を取り出し、お気に入りのアーモンドチョコレートパンを買った。


 このパンは、外はサクサクで、中はふんわりとした甘い生地が特徴だ。中にたっぷり入った濃厚なチョコレートクリームと、カリッとしたアーモンドの組み合わせが絶妙で、一口食べるたびに幸福感が体中に広がる。

 これを食べると、まるで空を飛べるような気分になる。


 パンを口にくわえながら、店を飛び出そうとしたその時、背後から店主の陽気な声が飛んできた。


「おいおい、急げよ!また今日も遅刻しそうじゃないか!ベルンに怒鳴られて泣きそうな顔をするのは、もう見たくないぞ!」


 俺はその場で足を止め、振り返って店主を睨みつけた。


「余計なお世話だ!」


 そう叫び返すと、店主はお腹を抱えるようにして大笑いした。その笑い声は少し呆れつつも楽しんでいるような響きだった。


「ははは、分かったよ。さっさと行け!本当に怒られないようにな!」


 俺は彼に背を向けたまま軽く手を振り、再び走り出した。彼の笑い声を背中に受けながら、俺は村の小道を全力で駆け抜けていった。

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