『 蒼碧の果て 』

桂英太郎

第1話

 人がいなくなった後と云うものは、そこにどうしようもなくもの言わぬ空白が生まれるようだ。

 その数日、僕は勤めている製材所での残業が続き、彼女とは碌に顔を合わせてはいなかった。と云うより、正直僕らの同居生活は、いつの頃からか暗渠のような暗がりを人知れず彷徨っていたと云っていい。なんとかしなくっちゃと思う反面、その焦りがすべてを狂わせているような気もして、僕は自然と仕事に逃げていたのかも知れない。その日もそうだった。

 帰ってみると先に戻っているはずの彼女の姿はなく、その代わり居間のテーブルには、僕らのまとまりを失くした生活を封印するかのように、封筒に入った手紙が小さくそこに置いてあった。僕はその数行しかない文面を眺めてすぐに封筒に仕舞い直し、それからコーヒーを沸かして一人で飲んだ。訳が分からなかった。そして途端に家の中が彼女の分だけぽっかり広くなっていることに気がついた。別に結婚の約束をしていたわけではない。職場が近いと云う理由で予告なしにやってきた彼女が、いつの間にかこの古い集合住宅に居ついてしまったのがそもそもの事の始まり。そしてそれに合わせるかのように、その結末にも呆気なく彼女が幕を引いたと云う次第だ。


 厄事(わるいこと)は続くもの。その日、いつもと変わらず仕事に出ていた僕の携帯がバイブした。作業服の内ポケットから出して着信画面を見ると実家の父親からだった。

「おう、○△さ◆だ。×☆◎でやって□か?」

 周りの作業音でよく聞き取れない。「あ。ああ、うん。今仕事」

 僕は作業場の隅に走り寄る。

「そうか。こっちも相変わらずだ」

「そう」

 瞬間故郷の家から眺める変わり映えのない田園風景が思い出される。

「で、何か用?」僕は再び電話の向こうの相手に言った。

「ああ、ちょっと」

 珍しく父は何か言い淀むようだった。

「今、作業の途中なんだけど」僕はさっさと切り上げようとした。仕事中の私用電話には社長が何かとうるさい。

「お前の父親のことだ」

「あ?」

 隣りの作業台ではこの春子どもが生まれたばかりの同僚がヒノキ材の加工に入る。電動ノコが容赦なく唸りを上げ始めた。

「お前の本当の、父親のことだ」

 僕はその時、携帯を落とさないでいるのでやっとだった。


 この日、結局僕は夜九時過ぎまで仕事をして家に帰り着いた(忙しく体を動かすことで結果余計なことは考えずに済んだ)。家に入って洗濯物を取り込んでからまた薄いコーヒーを飲み、それから母親の携帯にダイヤルしかけて一旦切った。明日にしよう。そう思った。いや、これから先もこの件を考えずに済むものならそれに越したことはない。そうとさえ思った。

「ああ、もう面倒臭えなあ」

 自分の口からそう漏れ出た時、僕は初めて彼女が家を出た理由がなんとなく分かった気がした。


 それから一週間、僕は父の云う「本当の父親」のことは放っておいて、居なくなった彼女の居場所を誰彼なく尋ねて回った。それは「本当の父親」から逃げたかったと云うわけではなく、純粋にそちらの方には気が回らなかったから。考えてもみてほしい。三十を目前にした男に「本当の父親」がいたとして、今更どんな感慨が湧く?

 全く余計なことを…。それが僕の父に対しての、そして母に対しての率直な気持ちだ。

「母さんは何て言ってるの?」

 あの電話の時、言うだけのことを言った早々話題に困っている父に僕は訊いた。

「別に何も言ってないよ。と云うか母さんはこのこと知らないんだ」

「知らない?」

 僕は不機嫌な時に母の眉間に刻まれる深い縦皺を思った。「それって大丈夫なの?あとで母さんに知れたら…」

「まあ、何とかなるさ。それよりもこれは、絶対的にお前に伝えておかなければならないことなんだから」

 僕は久し振りに聞く父の口癖に、俄かに「不安」の二文字が湧き上がってくるのを感じていた。


 思わぬところから彼女の居場所を突き止めることができた。以前一緒に山鮎釣りに行ったことがある共通の女友だちが教えてくれたのだ。僕らはとあるファミレスで夜待ち合わせた。

「今はきっとあんたに会いたくないと思うな、彼女」

「どうして?」僕はいささか憮然として訊いた。

「う~ん。何て云うのかな、あんたのそう云うところ」一つ年下の彼女は僕をチラッと見て言う。

「え、どう云うところって?」

「つまりね、歯車が噛み合わなくなった時って、無理に動かすと余計に拗れるってことよ」

「それ、彼女が言ったの?」

「そうじゃないけど」

 僕はその個人的には親切な女友だちを前にしながら、心はいつしか何処か遠い森の茂みに迷い込んでいる。

「どうしてもダメ?」

 僕は半分泣きベソさえかきそうだったろう。

「きっとね、またチャンスは巡ってくるのよ。あんたにも彼女にも」

 町外れにあるファミレスの隅の席で話をしながら、僕にはそこが全ての行き止まりの場所の様に思える。そして異様に効いた冷房がそれに拍車をかけている。

「あ、あんたってさ。子どもの頃夏休みはどうしてた?」

 女友だちが急にそう切り出した。

「どうして?」

「誰かが言ってたけど、夏休みの過ごし方でその人の一生って決まるらしいよ」

 僕はふ~んと相槌を打ちながら、ひとしずくになったアイスココアを最後まで啜る。向こうのドリンクバーでは十代らしきグループが嬌声を上げている。

「いっそ彼女のこと、知らないフリしてもよかったんだけどね」

 彼女は時々脈絡のない話し方をした。「彼女はほら、何かにつけ思い詰めるところがあるから」

 それには僕も頷ける。

「で、今は彼女何してるの?」

「旅芸人よ」

「旅…芸人?」僕は少なからず混乱して言った。

「そう」

「つまり?」

「東京の児童劇団に入って、全国を巡業してるって」

 僕は一緒にいた頃の彼女を思い出そうとして、なかなかその像を結ぶことができない。

「彼女がまさか、そんな仕事をするなんて」やっとそれだけが言葉に出た。

「そうね。でもそう云う人だからこそ逆に向いているのかも知れない」

 僕は女友だちの言葉に浮かない顔をしながらも、内心どこか納得するところがある。要するに僕は彼女のことを何一つ分かっていなかったと云うことだ。それに彼女も…。僕はそう頭の中で反芻してから言う。

「そうだね。本当にそうかも知れない」

 それから僕らはそれぞれ飲み物をお代わりして、全く別の話題で小一時間話をして別れた。一体これは何なのだろう?僕は夜の公道脇を一人歩きながら、この歳になるまでに出会った様々な人々の顔を思い出す。そして時々対向車のヘッドライトがまともに僕の目を射抜き、僕はその都度歩みを緩めなければならなかった。


 もし父が僕の本当の父親ではないとしたら、本当の父親はこれまで一体何をしていたのだろう?

一方で僕の中でそんな問いが頭をもたげてくるようになった。家で、職場で、帰りに寄るコンビニで。それは時と場所を選ばず僕の中で湧き上がっては日ごとに大きくなっていった。その人が(つまり本当の父親と云う人が)どう云う人なのか、そんなことに興味があるのではない。そうではなくて、僕がこの世に生まれてからの三十年近く、その存在が何故全くの空白のままでいられたのか不思議でしようがなかったのだ。そして父は今頃になって何故、それを現実の陽の下(もと)に戻そうとするのだろう?

 僕には全く理解できない。


 彼女のことで宙ぶらりんになって以来、僕は毎日のように街に出掛け映画のナイトショーを観まくっていた。もともと趣味と云えば釣りとそれぐらいしかないのだが、もちろん今度ばかりは楽しみからではなかった。要は自棄(やけ)になっていたのだ。

 映画館のスクリーンには実に多くの人生が映っては消えていく。不思議なことに邦画でも洋画でもその印象は変わらなかった。多分ジャンルも関係なかったろう。僕はそのことにとても不思議さを感じながら、何でもいいから己の余白を意識せずに済む暗がりの中で、自分の全く関係ない世界をただ無遠慮に眺めていたかった。ただそれだけだった。しかし映画が終わり劇場内にぼんやりと明かりが戻った頃、僕は余計に居た堪れなさに胸を突かれることになった。救いのないイタチごっこをする、寄る辺ない自分に。

 休みの日ともなると映画館をはしごすることもあった。シネコン館ならほとんど丸一日館内に居続けることになる。食事はお金と手間がもったいないので、こっそりハンバーガーを持ち込んで済ませたりもした。ある時その日何回目かの上映の直前、入口で僕はキップ切りの女の子に声を掛けられた。

「映画、好きなんですね」

 正直決して美人とは云えない見ず知らずの彼女に僕は何と返したらいいか分からなかったが、考えてみたら日に何度も見掛ける常連客に対する彼女のささやかな気遣いかも知れなかった。

「ええ。これぐらいしか時間の使い方、知らないから」

 僕は応えた。

 すると彼女は一瞬呆れたような顔をしたが、その後少し微笑んで「六番スクリーンです」と、至って真面目なスタッフ然として告げた。

 僕は安手のうすいカーペットの廊下を歩きながら、不意に自分は何故こんなことをしているんだろうと途方もない気持ちになる。それでもその反復を止めることもできず、やんわりとした暗闇の待つ六番スクリーンに向かいそぞろ歩いていった。


 そんなある日、家に戻ると葉書が一枚郵便受けに入っていた。裏返すとそこには母のものらしい細く尖った文字の列が合わせて十一行並んでいた。

「お久し振りです。元気でやっていますか。父さんも私もなんとか病気もせずにやっています。さて、父さんから聞きましたが、あなたにもあの一件のことを知られてしまったようですね。正直私はあなたに対してすまないと云うより、もうすっかり忘れてしまっていた子どもの頃のイタズラを思い出した時のように、むしろ気恥かしいと云う気持ちの方が強いです。今までも父さんに特に口止めをすることはなかったのですが、いざこうなってみるとやはり私はこの一件を忘れたがっていたのかと意外な気持ちになってしまいます。ただ一つこの便りであなたに伝えたいのは、父さんも母さんもあなたを騙すつもりはなかったと云うことです。それだけはどうか信じていて下さい。

 それでは食べ物には注意して仕事を頑張って下さい。

              追伸: たまには電話しなさいね。    母より」

 

 僕はその一枚の葉書に書かれた細かい文字列を、まるでエジプトの象形文字を追うかの如く読み進めた。そして故郷の母とのこれまでを思い、実体の希薄さに少し動揺する。これならまだ映画館のスクリーンの前で、できたてのポップコーンの臭いに辟易してる方がずっとマシだ。少なくともこれはどうやら逃れようのない現実のことらしい。僕は彼女が出ていって以来敷きっ放しの布団にゴロンと全身を横たえた。

 そうだ。その男(ひと)に一度会ってみよう。その時僕は突然そう心に決めた。そして一旦腹が決まると僕の中で今まで思ってもみなかった疑問が頭をもたげた。それはその人は僕の存在自体知っているだろうか、と云うこと。母とはこの一件についてまだ直接話をしていないから詳しい事情は分からない。もしかしたらその人は僕の存在そのものを知らないのではないか。何か事情があって母とその人は別れた。その時僕はまだ母の胎内で芽吹き始めたばかりだったのではないか。だとしたら、その人が今まで何の連絡も寄越してこないのも不思議ではない。だって知らないのだから、別れた女に子どもがいたなんて…。

 僕はふと地方を児童劇団で巡っているであろう元恋人のことを思った。僕はおそらく彼女のことを分かったつもりでその実何も理解してはいなかった。ただ一緒にいると云うだけでなんとなく安心してしまっていた。しかし彼女の中には全く僕の知らない不透明な世界が現に広がっていたのだ。そしてそれは僕に対して開かれることは遂になく、その代わり今は日本全国を飛び回り、子どもたちにひと時の夢を描いて見せているのだ。

「さて、どうしたものだかな」

 そう声に出してみてから、僕はやはりその人に会うべきだろう、そう思った。父が僕にこの一件を知らせた理由は分からないが、確かにそれは正しいことではないのか。今はそう思えた。


 携帯で父に電話をしてみることにした。もう少し詳しく話を聞いてみたかった。電話は仕事の昼休みに架けた。気忙しいさなかに架けた方が余計なことを考えずに済むと思ったから。リダイアルで父の携帯へ。初めてのことなのでやはり緊張する。

 僕は電話がずっと前から苦手だった。受ける方でも架ける方でも。遡れば物心ついた頃から、突然けたたましく鳴る消防のサイレンのように、電話は僕の肝を冷やし心をかき乱す黒い厄介者でしかなかった。はい、もしもし…。僕が応えて正体不明の相手が喋り出すまでのひと間が僕には瞬間の拷問にさえ感じられた。そしてそれは電話が小型化し、その用途が時代の象徴的に進化しても変わることはなかった。自分から架ける時はそれでも幾分かは気が楽。むしろ半確信犯的に相手に通話を要求すると云うさりげないサディズム。僕は思う。しかし油断はできない。相手が僕のことを認識した際のトーンの変化が思いがけなく僕の自尊心を傷つけることだってある…。自分でも十分に変だと自覚している。しかし現に僕は家の電話機だって二十四時間留守録設定にしていて、これまで親からの電話にさえ録音で相手を確認してから改めて後で架け直してしたほどだから。

 結局父は出なかった。勤めを定年した後は一日中ずっと家で勝手気ままとばかり思っていたが、父には父の自由な生活があるのかも知れない。僕は仕方なく携帯を切り、もう何度も禁煙に挫折しているタバコに指を伸ばす。そして同僚たちと他愛ない軽口を叩きながら午後の作業に没頭していった。

 その日のうちに父の折電が来た。自宅電話から。

「おお、昼間架けたろ」

 父は少しくぐもった声で言った。「携帯、電波の入りが良くなくてな。どうした?」

「うん」

 僕は応える。「一度、その人に会ってみようと思ってさ」

「そうか。うん、それがいいな」

 父は何か手に取って確かめるように言った。

「それでさ」

「連絡先だな」

 そう言うと父は受話器を置いてどこかに移動したようだった。しばらくして再び受話器が握られる。「メモ、いいか?」

「うん」僕は手元にあったコピー用紙の裏にボールペンの先を当てた。

 父の口からまるで何度も練習したかのようにスラスラとその人の住所と名前が出てきた。僕のペンはそれをきわめて事務的に書き取っていく。そうでもしなければ簡単に逃してしまうほど、その字が表すものは他人事(ひとごと)以外の何ものにも見えなかった。

「父さん」

「ん?」

「母さんから葉書来たけど」

「ああ、そうらしいな」

「母さんはいいのかな?」

「何が?」

「僕がその…、その人に会うことがさ」

 僕は元彼女が貼ったままの壁のポスターを眺める。六人組のアイドルポスター。

「母さん書いてなかったか。今更俺たちにジタバタするものは何もないさ。ただお前に嘘をついていたくないだけだ」

 父の答えははっきりとしていた。

「うん、なら良いんだけど」

 僕はそう応えるしかない。

 その、僕の本当の父親と云う人は母よりも四つ年上、父よりは三つ下の今年五十二歳らしい。仕事は今何をしているかは分からないが、元は学校の先生だったらしい。父に教えてもらった住所には四国の県名があった。僕は生憎四国へは行ったことがないので、その人の住むところがどんなところなのかさっぱり見当がつかない。

「俺にもそれだけしか分からないんだ」

 話し終えて父は言った。

「まあ、詳しいことが分かったところで仕方ないんだけどね」僕は父に言う。

「会いに行くか…」

「そうだね。でも今すぐじゃないよ」

「どうして?」

「仕事もあるし、四国なんて行ったこともないしさ」

「そんなことはどうにでもなるだろう」

「そんなことって、仕事は急には休めないさ」

「でもお前の一生に関わることだぞ」

「そうかな。実際この歳になるまでその人のこと知らなかったわけだしね」

僕は苦笑する。「それに相手だって困るよ。急に『息子です』なんて奴が現れても」

 父はしばらく沈黙する。そしてもう一度噛んで言い含めるように「まあ、あとはお前の問題だからな」そう呟いた。僕はそれに電話口で頷く。

「ただ、事は急いだ方が良い時もある」

 父は付け足した。僕にはそれを敢えて否定する理由は今のところ見つけられそうになかった。

 次の日僕は職場の社長に一週間の休暇を願い出た。口実は「父親のぎっくり腰の具合が思わしくなく、実家の農作業を手伝うハメになった」と云うもの。自分でも胡散臭い気がしたが、意外と社長はすんなり許してくれた。その日の帰り道「もう後戻りは効かないなあー」、僕はまるで他所事(よそごと)のように口に出してみる。道路から川べりで子どもたちが水遊びしているのが見えた。もうすぐ本格的な夏が始まりそうだった。


 生まれて初めての四国行きのフェリーの中、僕は目的地の場所を改めて地図で確認している。手持ち無沙汰と云うこともあるが、周りに溢れるほぼ観光目的の天真爛漫な人いきれにあおられ、自分も何とかその観光色に埋没してみたくなったのかも知れない。

 場所は高知県の山奥。特に名所があるとも思えない、まさに辺鄙なところ。「こりゃ、長居はできそうにもないな」僕はそう呟いてからその町の中央に有名な清流が流れているのを見つけた。

「釣り目的って手もあるな」僕は思う。

 船のデッキに出ると、七月後半の若い日差しが海面に反射していた。波はなかったが風は程良くデッキにいる僕にまで吹きつけてくる。そう云えば付き合っていた彼女ともこうして遠くまで旅行に出たことはなかった。一緒にいる時は大抵家の中か、せいぜい近所を散歩する程度だった。僕も彼女も人混みと云うものが苦手で、まるで魚が水を求めるかのように(あるいは土竜が地下の暗闇をひた進むように)僕らは人気(ひとけ)のまばらな場所を選り好んでは散策していた。車も通らない板塀の路地でかくれんぼしているうち本当にお互いの姿を見失い、小一時間程して公園でばったり出くわしそのまま喧嘩になったこともある。今思えば他愛のない、そして懐かしい思い出。そのうちまた再会できるのだろうか…。何の変哲もない目の前の大海原を眺めながら僕は思う。

船はそれから三十分ほどして港に着いた。


 発着ターミナルで交通機関の確認をする。もう夏休みともあって僕と同じ若い旅行者の姿も目につく。JRの駅までは少し距離がある。ここからは路線バスに乗るしかないようだ。時刻を見ると目的の次のバスまではまだ二時間ほどもあった。

 どうやらここは港町でありながら元々は城下町でもあったらしい。城の形をデフォルメした観光キャラがそこかしこに姿を見せている。観光案内所に行き、そのキャラが載ったチラシを手に取り眺める。『城内美術館』と云う記載を発見した。旅先の美術館。持て余す時間を使うにはもってこいじゃないか。そう思って自分が持て余しているものは別にもあることを改めて思う。単に連絡を取るだけなら手紙のみでもよかったのだ。

「せっかく四国にまで来たんだからな」そう呟きつつ僕は脈絡のない気持ちのまま歩き出す。

 美術館のある城跡までは徒歩で二十分ほどかかった。夏休みとは云え、平日ともあって周囲に人はまばらだ。僕は美術館に続く石垣の曲がりくねった道を息を切らせながら歩く。まるで一歩一歩空気が薄くなっていくようだ。

「失敗したかな」後悔し始めた矢先突然坂道は終わり、その先に美術館の門が見えた。中世の城跡に建てられたとは思えない、ハイカラなダークグレーの建物。僕の身体はすんなりその中に吸い込まれていく。受付で料金を払おうとした時、何故か映画館の切符切りの女の子のことが思い出された。目の前にいるのは年も背格好も違う無口そうな中年のおばさん。僕は二つある展示コーナーのうち浮世絵の方を選んだ。もちろんその方面の素養などあるはずもなく、ただ単にポスターに映った色の豊富さと興味本位の物珍しさから。

 絵は江戸末期のもの中心で、後半は明治の世俗絵まで含まれていた。僕の知る限り作者も有名な人よりむしろ無名に近い人ばかりを選んで集めた印象さえある。しかし退屈は感じない。そこにはまず卓越した芸術的センスと研ぎ澄まされた職人技が冴え渡り、説得力のある構図からは猥雑な社会を逞しく生きる民衆の息づかいまでが伝わってくるようだ。

 一つの絵に目が止まった。どうやら明治に入ってからの作品らしく表面的には浮世絵らしさはなかったが、作者は間違いなくその系譜の末端に位置する人物らしい。数人の洋装の女性が椅子に座っている。年齢はまちまちだがそれぞれが気品を持った出で立ちで、おそらく止んごとなき処の妻子だろうと推察できる。その中の一人、十代まだ前半と思われる少女がこちらを振り返るようにして傍らの母親と思しき女性の肩に手を添えている。

「見返り少女ってわけか…」

 僕は他の観客には聞こえない程度に呟いてみて、なるほど昔学校で習った菱川師宣の絵に通じるものを感じた。

 展覧会はものの十五分もあれば全部見て回れるほどの規模で、僕は早々に出口に出て後はロビー脇にある喫茶室でアイスコーヒーを飲んで過ごした。まだバスに乗るには時間がある。考えてみればこんな時間の使い方をするのは彼女がいなくなって以来久し振りのことだと思った。映画を観まくっていたのは彼女との時間の空白をひたすら埋める為だった気がするし、この美術館も多かれ少なかれ時間つぶしの目的だったが、思いがけなく見ず知らずの土地でちんまりコーヒーを啜っている自分を思うと、何だか不思議な可笑しさが湧いてくる。

「幸先良いのかもな」僕はコーヒー代を払って外に出た。そしてまだ日差しの強い城跡の階段を一つ一つ小走りに下りていった。


 父から聞いた相手の住所は、バスと列車を乗り継いで二時間はかかりそうな場所。僕は乗り込んだバスで山合いの坂道を揺られながら、突然今日のねぐらをどうするか気になり始める。地図上ではもちろんその地域を確認してはいたが、気ままな一人旅を気取って宿の手配は後回しにしていた。今からなら到着はおそらく夕方七時過ぎになる。安い民宿でもあればいいが、下手をすると駅の構内で野宿と云うことにもなりかねない。そこまで考えてまたふと可笑しくなった。実の父親が住んでいるであろう土地で野宿を覚悟せざるを得ないこの身の不確かさ。

「どうしてもって時は直接訪ねてみるさ」

 訪ねてみてそれとなく泊まれそうな場所を訊いてみたらいい。まさか門前払いでハイ、サヨナラってことはないだろう。僕はバスの車窓からキラキラ光を放っている川面を眺めながら思う。やはり事前に連絡をしておいた方が良かったのだろうか?相手にも今はもう別の家族があるかも知れないのだ。突然見知らぬ男が現れたらそれこそ相手にとって悶着の火種となってしまうのではないか?父によると二十年以上前に一度だけその人から手紙が来たらしいが、それにも相手の詳細が分かる内容はなかったとのこと。ただはっきりしているのは彼の故郷、四国の住所だけ。その後父も母も追って連絡することはなかったらしく、父に至ってはそもそもその人のことを母から知らされていなかった様子。と云うのも当時家出娘だった母が転がり込むようにして自衛官だった父のところに居つき、子ども(つまり僕)が生まれたことでそのまま一緒になった…。僕が聞かされていたのはそれで全てだった。

 ふと僕は父が言った「お前にとって絶対的に大事なこと」の意味を考えてみる。父は僕に「会ってこい」と言った。しかしもし僕が父と同じ立場だったら一人息子に同じことを言うだろうか?見ず知らずの男に、それも女房の昔の男に息子を会いに行かせるだろうか?僕には皆目父の気持ちが分からない。そしてこんな気持ちで実の父親に会いに行こうとしている自分が何とも所在なく思える。途中でバスから列車に乗り換えて、それでも僕の目指す町はひと駅ごとに近づいてくる。所々で踏切の遮断機の音が聞こえては後方に流れていく。それが僕には何かの警告音のように聞こえ、はたまた懐かしい記憶のオルゴールのようにも思える。

「それにしても腹が減ったな」

 そう云えばフェリーでサンドイッチを食べて以来、飲み物の他は何も口にしていなかった。

「着いたらまず腹ごしらえだ」

 僕は具体的に何かするべきことができて多少気が紛れるようだった。実のところ、まだ相手に会って何と云うかも考えていない。おそらく相手は僕を見て少なからず驚き、または不審に思うことだろう。無理はない。何故なら僕は相手にとって「不在」そのものなのだから。僕はその時、どう自分を立てればいいのだろう。

 列車がガタゴト揺れている。到着まではあと半時間足らずだ。


 駅の改札を出ると、そこはすっかり夏の夕暮れだった。時刻はちょうど七時を回ったところで、小さな駅舎の前には取って付けたようなロータリーがあり、そこからはおそらくこの地のいつもの夕刻の情景が僕の目にはとても特別なものとして映った。

「ああ、着いちゃったな」

 こうして茫然と突っ立っていると、まるで自分が「誰かの日常」に付き合わされている気がする。

「宿、それから夕飯だ」

 僕は何とか現実に足を付けようと口に出してそう言ってみる。ロータリーを出て正面にあるバス乗合所の建物の中に入ると、僕の住む地域では見慣れないコンビニの看板があり、なんとなく興味が引かれ入ってみる。すると中は普通のコンビニより土産物が多いこと以外特に変わりはなく、ただ求人雑誌や観光案内、地図などが現地周辺のものとなっていること、それだけの違いだった。あとは菓子パンの類まで全て商品は同じ。日本はコンビニ・フランチャイズに支配されてるな…。そんな気すらする。僕はそこで冷えたオレンジジュースだけを買うと、そのまま町の中心の方へ歩いてみることにする。すると歩を進める度に夕闇が深くなり、足元の孤独が濃くなっていく気がする。やれやれ。職場の同僚たちは何してるだろう?この旅のことを話した時(結局嘘はバレていた)社長も奥さんもこの上なく胡散臭そうな顔をしたくせに「そうか。ま、若いうちだけだ」と最後は背中を押してくれた。

 途中タウンページを使って何とか安いビジネスホテルに空きを見つけた僕は、それでも何軒か在ったその町の食堂、レストランには何故か足を向けることができず、結局また別のコンビニで夕食の代わりを買うことになった。

「何泊のご予定ですか?」

 フロントで中年の痩せたホテルマンにそう訊かれた僕は咄嗟にドギマギしてしまう。正直泊まりの予定なんて考えていなかった。まさか初日から相手の家に厄介になろうなんて考えてはいなかったが、理由(わけ)を話せば一夜の宿ぐらいは…などど、結局は調子のいいことを期待していたのかも知れない。

 妙に薄暗いシングル部屋に入った僕は、早速備え付けのミニポットでお湯を沸かし、ありきたりこの上ないカップラーメンの上になみなみと注ぐ。何だ、いつものとさして変わらないじゃないか。そして僕は三階西側の窓から町の様子を見る。歩いてみて分かったが、どうやらこの町は自転車で小一時間もあればその賑わいの大半を見て回れそうだ。車なら十五分とかからないのではないか。

「あー、田舎なんだなー」

 僕は大きく伸びをする。途端に自分が鼻持ちならないノボセ野郎に思えてきて思わず苦笑する。気づくと出来上がりの三分が過ぎようとしていた。僕は割り箸を不器用に割ってから急くようにしてそれを平らげる。あとはチャンネルが数える程しかないテレビの画面を眺めながらベッドに横になっているうち、いつの間にかぐっすりと寝入っていた。


 夢を見た。どうやら僕はとっくに相手の家に上がりこんでおり、それどころか勝手気ままにその家の物を使い、図々しくも食事までしていた。しかしそこに出てくるのは僕の実の父親と云ったものではなく、むしろ中年の女で、何かと僕に世話を焼いては食事やら小遣いを勧めてくるのだ。それが夢の中の僕にとっては嬉しいと云うより逆に戸惑うやら不気味やらで、気がついた時は背中がしっとりと汗をかいていた。総じてあまりにも脈絡のない筋だったが、内容は不思議と残っている。それにしてもあの中年女は誰だ?確かに実の父親の家だと云う意識はあったから一応は関係者の設定だろう。すると相手の奥さんか。それにしてはあの応対は余りにも不自然ではないか。更にそれにも増して、相手に抗うこともせず為されるがままの自分は一体何なのだろう?

 目を開くと窓の外はすでに白々としていた。そして朝食をどうするかと思ったところでハタと気がついた。夢の中の中年女に見覚えがあった。あれは昨日美術館で見た、明治の浮世絵師が描いた椅子に座る女たちの一人ではなかったか。そう考えればなんとなく合点がいく。やれやれ、久し振りの旅行で疲れてたんだな。僕はベッドからゆっくりと起き上がる。

「まさか、この部屋のせいじゃないよな」僕は昨日と変わらず薄暗い部屋を一度見廻してからその馬鹿馬鹿しさに一人ほくそ笑み、それから早速出発の準備に取り掛かる。

 ホテルから相手の家まではバスで三十分ほどと云うことだった。いよいよ目的の相手に会うと云うことで否が応にも自分の緊張(テンション)が高まっていくのを感じる。ふと相手が不在の時はどうしようかと思った。相手だってまだ五十を過ぎたあたり。勤めに出ている可能性は高い。行ってみて本人がいない時はまたホテルに出戻らなければならない…。そう思った時、相手は教師を辞めてから今まで何をしてきた人なのか、自分がそんな基本的なことも知らないことに改めて気がついた。まさかこんな田舎に住んでいて無職と云うことはないだろう。ひょっとすると自営業と云う可能性もある。もしかしたら実家の両親と同じ、農家と云うことだってあり得る。

「ま、どうでもいいことなんだけど」

 目的のバスに乗り込んで、僕は自分が相手の人となりに踏み込もうとしていることに気がつく。この旅に出るまで全く相手のことを知ろうともしなかった自分がだ。僕はそのことに少なからず狼狽している。やはり自分の中には本当の父親に対して何か特別な感情があるのだろうか?いや、無論全くないと云えば嘘になる。でも確かに僕は旅に出る前、いくら父に告げられたこととは云え殆どそのことに気持ちが動かなかったのだ。自分でも不思議なくらいに。ところが今では人並みに相手のことを知ろうとしている自分がいる。何かが動いている。僕は車窓の外で通り過ぎていくこの町の風景を特別な思いで見つめる。


 バスは川沿いを付かず離れず、時に橋を横断しながら進んでいく。僕はまだ相手のこれまでについてあれこれ想像を巡らせている。するとそれは相手のと云うより、まるで僕自身のもう一つの人生であるかのように思えてくる。事実田舎の父が知らせてくれなかったら、僕は一生こうして相手に会いに行くことも、相手について思いを巡らせることもなかったろうから。僕は実家の辺りとはだいぶ違う川べりの風景に見入る。

「しかし、どこに行っても人の家だな」

 僕がつい声を出してそう言うと、一つ斜め前の座席に座っていた高校生らしき女の子が僕の方を一瞥した。僕は気恥ずかしくなってまたすぐに今度は切り立つ山々の方に目をやった。それにしても今日はよく晴れている。南方ではすでに小さな台風ができていると朝のニュースでやっていたが、この辺りは夏真っ盛りの天気だ。いつの間にか僕は、もし相手の家に上手く行き着かなくても野宿ぐらい何でもないような、そんな気分になっている。

 手元の地図ではまもなく目的の場所らしかった。僕が降りる仕度を始めようとすると先程の女の子がやおら立ち上がった。一緒のところで降りるのか…。そう思った時、到着を知らせるアナウンスが車内に流れた。

 バス停に降り、周りの風景をぐるりと見回す。山も川も田んぼも僕の故郷のものとは少しずつ違っているが、それでもどことなく好感は持てる。見ると数十メートル前を例の女の子が颯爽と歩いている。呼び止めて道を尋ねようとしたが止めた。どうせそんなに人家があるわけではない。道端の人にでも訊けば一発で分かるだろう。そう思った。

 川沿いを行く。さすがに名川の源流ともあって、水の美しさにはハッとさせられるものがある。時折水面には川魚の姿も光っている。

「何だ、良いところだなあ」

 僕はまるで自分のことのように嬉しくなり、この勢いでさっさと実の父親に会ってやろうと思う。

 それにしても昨日今日の暑さは尋常ではない。太陽の熱がだんだんと身体の中に巣食っていき、歩いていないとそのまま動けなくなりそうだ。すると眼前に数軒の民家が現れたので辺りに人がいないか探す。生憎目につくところには人影はなく、その中の一軒に近づき玄関に回って声を掛けてみた。無言。僕の声だけが虚しく山の谷間に溶けていく。横で物音がしたので見るとそこに犬小屋があり、どう見ても雑種の中型犬が好奇の目をこちらに向けている。

「誰だい、あんた」

 咄嗟の声に僕は一瞬犬が喋ったのかと思った。その背後を見るともう八十歳を越えてそうな老婆が無機質な目でこちらを睨んでいた。

「あ、すみません。勝手にお邪魔しまして…」

「はあ?」

 僕の弁明も届かないうちに老婆はさらに大きな声を上げる。そしてそれにつられるように犬の方も小さく「ボウッ」と吠えた。

「あの、僕は旅行している者ですが…」

「家に何の用だい?」

 話が噛み合わない。どうやら老婆の耳はこの上ないと云うほど役割を果たしきっているらしい。そう分かると僕は作戦を変えて懐に入れておいた父親の住所を書き留めた紙を黙って彼女に差し出す。すると老婆よりは幾分人間らしい眼差しの犬が何かを悟ったような表情を見せ、老婆自身は近寄ってそれを見るなりどう云うわけか見るからに渋い顔になった。

「穂積の倅のところか」

「あ、はい。そうです。穂積さんです」

 そう応えながらも僕は精一杯言葉に頼らないコミュニケーションを心掛ける。「そのお宅はどちらに…」後半は指を差しながら周囲を見回してみた。すると老婆にも通じたのだろう。明らかに別の警戒心のこもった目で僕を見、そして顎をしゃくってさらに山の奥を示した。

 僕はこの旅で初めての拒絶感を我が身に感じながら、さっさとその場から離れることにする。「どうも」僕はどちらかと云うと好奇の目を絶やさなかった犬の方に会釈しながらその家の敷地から出た。何だ。結局このまま歩くしかないってわけか。僕はつくづくさっきの女の子に声を掛けなかったことを悔む。

 一段と暑い。こんな田舎の一本道をとぼとぼと歩いていると鉄板の上でこんがり焼かれるステーキ和牛の気持ちになる。そう思っていると右前方の丘陵地で黒毛牛が三頭草を食んでいるのが見えた。距離はあるが低く小さくお互い唸り声を掛け合っているのが分かる。それから道は大きく右にループしながら小山の背面に回り込むようにして延びていく。見るとこの辺は水田ばかりだ。それもまだ耕地整理が行き届いていないらしく、昔ながらの棚田が斜面に貼りつくように並んでいる。これじゃあ大型機械は無理だろうな。そう思っていると不意にカーブで一台のオートバイが現れ、瞬く間に擦れ違っていった。しまった。呼び止めて道を訊けばよかった。そう思う間もなく爆音は遠く後方の曲がり角を下って行ってしまった。どうやらここは峠らしく見晴らしは良い。一面山と田んぼだが、標高があるせいか昨日泊まったところより湿気は少ない気がする。風さえあれば割と涼しいはずだ。そろそろ家が見え始めてもいい頃だろう。そう思っていると案の定小さな集落が見える。とりあえず僕は傍らにある自販機で安コーラを買って飲み、即座に大きくむせ返した。ようやく咳が止まった頃、隣りの酒屋と思しき商店からガタイの良い中高年の男性が出てきたので声を掛けることにする。

「こんにちは」

「はい?」

 今度は良い感触。僕はそう思った。

「あの、穂積さんのお宅を探してるんですが」

「え?」

 一瞬男性の顔が曇った。「穂積?」

「ええ、穂積さんです」

「…あんたもあれか?」

「は?」僕にはその低音の効いた問いが咄嗟には呑み込めなかった。

「だからあの分教場に来たんだろ、あんたも」

「分教場?」全く状況が掴めない。

「いい若いモンが…」

 男性は初めとは打って変わって吐き捨てるかのように踵を返す。

「あの、家を探してるだけなんですが」

 僕は必死の態でその背中に声を掛ける。これ以上炎天下の中を歩き回るのは御免だ。

「その角を入った先だ」

 男性は歩きながら指を差してそのまま店の裏に消えてしまった。僕はようやくのことで一つため息をつくと、荷物を持ってそちらの方へと歩き始める。ひょっとすると相手はとんでもない食わせ者かも知れない。僕の脳裏に列車の中から聞いた遮断機の音がリフレインし始めた。


 確かにその奥狭った道の脇にその家の玄関はあった。木造の黒ずんだ板塀の玄関。もちろん呼び鈴など洒落たものはなさそうだ。

「御免下さい」

 僕は声を掛ける。しかし返事はない。

「御免下さい」

 もう一度声を掛けてやはり返事がなさそうだったので拳で戸を叩こうとした瞬間「はい、どちら様ですか?」、奥で思わぬはっきりした声がした。

 僕は少なからず驚いて、それから声の主に事の次第をどう伝えればいいか迷い始める。しかし玄関の戸はそれを待ってはくれなかった。

「何か?」

 出てきた娘は大きな眼をしていた。髪は今時珍しいおかっぱに近い形で、しかしそのことで僕は彼女のことを咄嗟に思い出すことができた。

「あ、さっきの学生さん」僕は思わず小さく叫ぶ。

「え?」

「ほら、さっきあなたもバスに乗ってたでしょう?」

 僕が矢継ぎ早に言うと、彼女は怪訝ながらも「ああ…」と応えた。「それで、何か御用ですか?」

 僕はこの際腹を据える。どうやらこの娘の前では下手な芝居を打っても仕方がない。娘の強い眼差しに僕はそう思えた。

「あの、僕柏木と云います。突然訪ねてきて失礼だとは思ったんですが、穂積さんは今ご在宅ですか?」

「いえ。父は今いません」

 娘は明瞭に応える。僕はそんな彼女の表情に見入る。

 …と云うことは、どうやら彼女は僕の腹違いの妹らしい。

「お仕事ですか?」僕は訊く。

「…あの、分教場に御用の方じゃないんですか?」

 娘はいかにも疑わしそうな顔で言う。

 分教場?そう云えばさっきの商店主もそんなことを言ってたな。「ああ、いえ」

「合宿希望の方じゃ…」

「僕は違います。そう云うのじゃなくて、実は…」

 その時、家の奥の方で昔ながらの電話の呼び鈴が鳴った。僕の内(なか)で不穏なものが甦る。

「ちょっと待ってて下さい」

 少女は僕を一瞥するとそのまま奥に引っ込んでいく。呼び鈴が止んだ。僕はその場に一人佇み、その空白を持て余す。そして急にこのままここから居なくなってしまいたくなる。どうやら当の相手はいないらしい。予想はしていたことだが、僕は自身の中に得も言われぬ疲労感を感じる。端的に「こんなところにまで来なければよかった」と思う。

 今なら引き返せる。今なら正体不明の男としてあの娘の前からいなくなれば、それはそれとして事は自然と流れていくはず。まだ間に合う。その時、今度は正面に見えていた振り子の柱時計が大きな音を立てて時を知らせる。そのボーンと云う音の後ろで娘の足音がした。

「すみません、お待たせしました」

「あ、いえ」

 僕はこれで一つのチャンスを逸した。「僕柏木と云います。お父さんに会いたいと思って来ました。何とか連絡が取れないでしょうか?」

「柏木さん…」娘は僕の目を真っ直ぐに見て言った。「あの、父は今分教場の合宿に出掛けてるんです。山の上にある廃校にいます」

「そうですか、分かりました。その廃校までの道を教えて下さい。自分で会いに行ってみますから」

「え、今から?歩いてですか?」娘は目を丸くする。「ここから車でも軽く二十分はかかりますよ。それに上り坂ばかりですから大変です」

「しかし…」

「さっき、父を手伝っている人から電話があったんです。その人が今から父の忘れ物を取りに下りてきますから、それに同乗させてもらったらいいと思います」

「あ、そうですか」

 すると娘は意味ありげにため息をつき、僕に言う。

「でもあんまり期待しない方がいいですよ、父には」

 その言葉に僕は思わず首をかしげる。「どう云うことですか?」

「父は変わり者ですから」

 娘は何の躊躇もなくそう応えた。


 分教場からの車が到着するまでの間、僕は思いがけず穂積家の居間で待たせてもらうことになった。家の中は程良く片づけられ調度品は品の良い和洋折衷と云った感じで、僕には家電だらけの実家とは対照的にむしろこの家の佇まいに親近感さえ覚える。

「何か飲みますか?」

 娘が訊いてきたので、僕は「お茶を下さい」と無難に応えておく。

 僕は手持無沙汰に荷物から地図を取り出し、訳あり気に眺める格好をする。そうしてお茶を淹れる娘の後ろ姿を見ながら不意に不思議な感覚に包まれる。この子は本当に自分の妹なのだろうか?背格好からして高校生。部活は何をしているのだろう。勉強はできる方なのだろうか。僕は初めて見る年の離れた身内の後ろ姿に、何か密かに圧倒されている。

「どうぞ」

「は、どうも」

 僕はその感覚を抱えたまま娘が差し出した煎茶の湯呑みをただまじまじと眺める。

「あの、何か?」

「いえ。頂きます」

 僕はそう言ってからお茶を口に運ぶが、娘の淹れたそれは思いがけなく熱く、咄嗟にむせかしてしまった。

「大丈夫ですか?」

 娘は慌てて謝る。「御免なさい。父がお茶は熱くないと怒るので」

「大丈夫です」僕は少し涙目で応える。ハンカチを取り出して口元を拭き、そのまま荷物の中に押し込む。

「あの、お父さんはお仕事は何を?」

 僕がそう訊くと娘はまた不思議そうな顔をして言った。

「普段は町の方で学習塾をやっています。スパルタで県下でも有名なんですけど、知りませんか?」

「ああ、僕は四国も初めてで」

「そうですか。どちらから?」

「Kです」

 僕が応えると娘は一応納得したように頷いて「中学の時部活の大会で行ったことがあります」、そう言った。

 僕は娘の顔を見る。細い眉に少し尖った目尻。髪はストレートだが心なしか癖毛のよう。

「さっきお父さんは変わり者って」僕は訊く。

「そのまんまなんです。元々地元の人間ですけど地域にちっとも馴染まなくて。若い頃は東京大阪金沢って、方々を転々としてたみたいです。今じゃこの辺ではれっきとした変人として通ってます」

 僕は娘の言葉に笑っていいものかどうか分からない。再び間が持たなくなってきた時、玄関の戸が開くのが聞こえた。

「敬(けい)ちゃん」

 その若い男の声には弾みがあった。「今日、市内でさ…」

 男は僕を見つけると、不意を突かれた野良猫のように表情を変えた。

「誰?」

 娘に声を掛ける。

「お父さんに用があるって。田中さん、分教場まで連れて行ってもらえませんか?」

「うん。別にいいけど」

 男はそれでも何か言いたげに僕を見ている。

「柏木と云います。よろしくお願いします」

 僕は男に一礼する。どうやら相手は僕より二つ三つ下のようだ。

「田中さん、お父さんの忘れ物って?」

「あ、そうだった」そう言うと男は廊下の奥へと入っていき、娘もその後に続く。

 一人になって僕はそのままテーブルから二人の様子を窺う。時々男の笑い声が聞こえてくる。娘の方はあくまで事務的な声で、まるで年齢(とし)が逆転しているかのような落ち着き。僕にはそれが可笑しい。

「じゃあ、行きますか」

 さっきとは打って変わったフレンドリーさで田中と云う男は僕に寄ってくる。

「ええ、よろしく」僕は手早く荷物を抱えると、立ち上がって椅子をテーブルに戻した。最後に姿の見えない娘に礼を言う。「あ、はい」一呼吸遅れて、奥から澄んだ声だけが返ってきた。

 乗り合わせの車中。田中は運転しながらしばし黙っている。僕の方も特に話すことがないのでそのまま前方を見ている。田中の運転は慎重な割にどこか粗暴で、わざとかと云うくらい車内が揺れる。この小型車で山道をさらに上がっていくかと思うと僕は少なからずうんざりした気持ちになる。

「ねえ、あんた」

「はい?」

「先生に何の用?」

 田中はハンドルを握ってこちらを見る。

「ええ、ちょっとプライベートなことで」

「プライベート…」

 田中の声に変化があった。「それってどう云うこと?」

「いえ。田舎の両親絡みのことなんで、今はちょっと」

 僕がはっきりそう言うと田中はそのまま「ふ~ん」とまた黙る。無理もない。確かにこの人にとって自分は部外者以外の何者でもないのだから。僕は穂積宅での彼の上機嫌ぶりを思い出す。

 それにしても車が揺れる。何だか脳の奥がくらくらするほど。

「あの、分教場と云うところまであと何分ぐらいですか?」

「十分ほどかな。それとも下に戻る?」

「いえ、とにかく先生って人に会う為にここまで来たんですから」

 僕は前を見たままそう応える。


 僕が旅行に出発する前日、実家から一つの封書が届いた。その中には父からの短い手紙とさらに小さい茶封筒が入っていた。手紙には「穂積さんに会えたらこれを手渡して欲しい」、それだけが書かれてあった。その中身については分からない(結局その後実家とは連絡を取らなかった)。訊いたところでどうなるものとも思えなかったし、何故かそこにはおいそれと立ち入るべきではない気がしたから。その父からの封筒が荷物のサイドポケットに入っている。僕はガタゴト揺れるシートにいい加減辟易しながら一度その所在を上から触って確かめてみる。相手に会ってみて最悪の場合これを渡して帰ればいい。それで父からの用は事足りるはずだし、僕もこの旅の一応の目的は果たせたことになるだろう。

 田中と云う若者はいつの間にか鼻歌を歌っている。どこかで聞いたようなメロディーと思ったら、案の定カーペンターズのスタンダードだった。彼は途中からそれを意外なほど流暢な英語で歌っている。男が歌うとこう云う曲になるのかと感心していると、田中は僕に気づいたのか「この歌のグループ、兄妹って知ってる?」そう言った。

「ああ、以前(まえ)にCDを持ってましたよ。付き合ってた彼女が好きで」僕は応える。

「ふうん。あ、そう」

 田中は自分で話を振った割には興味なさげな様子。

 それから僕らはまたしばらくお互いに黙って疾走する車に揺られる。昔の漂泊俳人の歌に「分け入っても分け入っても青い山」と云うものがあったが、僕らが今目にしているものはまさしくそれだ。しかし、こんな山奥によく分教場なんて作ったものだ。確か娘は昔の廃校跡地とか言っていた。と云うことは以前こんな山中にも人が住み、家族を作り養い、そして最期は骨を埋めたと云うことか…。

「山ばっかでしょう」

 突然田中が話し掛けてきたので僕は咄嗟に応えられずただ頷く。

「それが良いんですよ。こんな人里離れた場所だからまとまってものが考えられるし、自分の行く末も見定められると云うものです」

 僕はその言葉に思わず問い返す。

「あの、あなた方は分教場で何をされてる方々なんですか?」

「え?」

 田中は間の抜けた顔をすると、次の瞬間には高らかに笑い声を上げ始める。

「はははっ。『何をされてる方々』はよかったなあ。あなたは本当に何も知らないでここまで来ちゃったんですねえ」

 田中はいかにも愉快そうに言う。そして僕は内心それにムッとする。

「ああ、ごめんなさい。ここにはね、本当にいろんな人が来るんですよ。先生の噂を聞きつけて物見遊山に来る人もいれば、真剣に生きる術を求めに来る人もいます」

「先生って…」僕は捉えどころを見失っている。「学習塾を経営されてる方じゃないんですか?」

「ええ、そうですよ。ただ先生はそれだけでは収まらない人ですよ」

「収まらない?」

 僕が虚を突かれたように問うと田中はまた可笑しそうに口元を緩ませ、そして「ほら着きましたよ。あそこです」、片方の手で前方を指した。草深い坂の向こうに石門のようなものが見えている。どうやらそこが分教場と呼ばれる所らしい。車は幾分スピードを落とし、おそらくその昔学校の入口であったろう門をするりと入っていく。すると目の前に古びてはいるが立派な木造平舎があり、その斜め向こうには広々とした運動場までが覗いている。車はその運動場の手前で停まった。何だ、跡地なんてとんでもない。ちゃんとした学校じゃないか…。

「さあ、念願の先生とのご対面ですよ。結局あなたが何しに来たかは分かりませんでしたけどね」

 田中はそう言ってちりちり音を立ててクールダウンする軽からキーを抜いた。「ほら、運動場の端で何か描いているのが先生ですよ」

 言われて僕はそちらの方を見る。確かに一人、痩せ身の男がスケッチブックのようなものを抱えて佇んでいる。僕らは車を降り、一歩一歩その方へと近づいていった。


「先生!」

 最初に声を掛けたのは田中だった。

「ああ、戻ってきたか」

「本ありましたよ」田中はそう言って手にした物を男に掲げてみせる。

「ここに来るといつもそうなんだ。家に置いてきた本がどうにも気になって」

「分かりますよ。旅に出た途端地元が恋しくなるようなものでしょ」

 田中は得意そうにそう男に返したが、男はそれにただ苦笑いを浮かべるだけ。そしてそれが僕が初めて見る「本当の父親」の顔だった。

「あれ、君は?」

「こんにちは」僕は男の質問には応えず、とりあえず挨拶をする。

「ご自宅にいたんで、敬子ちゃんから頼まれて連れて来たんです」

 田中は説明する。

「あの、僕柏木って云います。突然お邪魔してすみません」

 僕の名を聞いてひょっとすると、とも思ったが、予想はどうやら肩すかしのようだった。

「柏木君…、そう」男は複雑そうな顔をした。「生憎だが今日は事前に予約してもらってる人以外は参加を遠慮してもらってるんだ。田中君、言ってあげなかったの?」

 男は少し咎めるように田中を見る。

「いえ、それがどうも違ってて。この人は先生に個人的な用があるらしいんです」

 田中は手短に弁解する。

「え?」

 先生と呼ばれた男はそうして初めて僕に正面を切った。

「その通りです。僕はKから来ました。柏木良(よし)行(ゆき)と陽子(ようこ)の息子です」

 僕は言う。するとそこに短くも果てのないインターミッションが生まれる。まるで小川を行く笹舟のスローモーションのように。それが不案内の田中にはよほど具合が悪かったらしく、僕と男の顔を交互に二度も見返している。

「そうか。君が柏木…」

 男はようやくそう言って、僕は「健太です」、それだけを付け加える。

 僕の中でその時何かストンと落ちるものがある。まだ何も相手のことは知らないし、相手も僕のことを何一つ理解していないはずだが、僕の中では何かがようやく長い時間を経て落ち着くべきところに落ち着いた、そんな実感がある。故郷の父が僕にとって「絶対的に必要なこと」と表現していたのはもしかしたら此の事かも知れない。僕は訳が分からず目を白黒させる田中を可笑しく眺めながらそう思う。

「父からの手紙を持ってきました。ただそれだけです。ご迷惑はおかけしません」

 僕は早速荷物から手紙を取り出そうとする。サイドポケットに手を掛けた瞬間嫌な予感が走った。中に手を入れ探るが案の定物がない。

「どうかしましたか?」

 男が僕に言う。

「あ、はい。いえ、あの、ここに入れておいた手紙が見当たらないんです」僕は正直に返す。

「バッグの内(なか)にあるんじゃないんですか?」

 男は重ねて言った。僕は慌て始めている。あの手紙がなくなったら父と母に何て言おう。もしかしたらあの中には僕にも想像がつかないほどの彼らの思いが詰まっているかも知れないのに。

「さっき、先生の家で落っことしたんじゃないの?」脇から田中が言った。僕はそんなはずはないと思いかけてハッとする。確か男の娘、敬子にお茶をもらっている時、地図を見ようとして一度このサイドポケットに手を掛けた。もしかしたらその時ファスナーを開けっ放しにしてしまったのかも知れない。

「すみません。ちょっと車を見てきます。中で落としたのかも知れません」

 僕はそう言うと、二人を後に半分駆け出すようにしてその場を離れる。

 僕は車に近づく間、男の顔立ち、立ち姿を頭の中で反芻する。白髪の筋がだいぶ交じった長髪。痩せた身体。穏やかな表情の中にもどこか人を寄せ付けない緊張感。それは結局僕が想像していたものとは全く違う印象だった。

 父親ってあんなものだろうか。僕は故郷の父はさておき、そう思う。車のところまで来ると助手席側の窓ガラスから中を覗く。手紙。故郷の両親からの、男(穂積)への手紙。僕は不意に今更あの人に何の用があるのか改めて二人に問い質したくなる。

「どう、あった?」

 田中が駆けてきて言った。

「いえ…」

 彼にもう一度鍵を開けてもらい、改めて中を探す。

「やっぱり自宅の方かなあ」

「あの、今から戻ってもらうわけにはいきませんよね?」

「うーん、これから午後のミーティングがあるんだよね」

 田中は大して気にも留めなさそうに言った。「敬子ちゃんには連絡つけとくからさ、明日また取りに行ったら?」

「そうですね」

 ここにきて我儘を通すだけの度胸は僕にはない。

「そうだ、君もミーティングに参加してみたら。せっかく此処まで来たんだから」

 田中は何故か溌剌とした表情でそう言うと、「ほら、こっち」僕を古い建物の中に手招きする。僕は一度男の方を振り向いたが、いつの間にか彼の姿は消えていて、もうどこにも見当たらなかった。


 建物の中に入った途端視界が真っ暗になった…。と思った。目が慣れてくるとそこには木製の古い下駄箱が並んでいる。それにしても学校の中ってこんなに暗かったっけ?

「靴、その右側の青いシールの貼ってあるどれかに入れといて」

 田中は顎をしゃくってから先を進んでいく。男はどこに行ったのだろう。ミーティングが今からと云うことは、もうその会場に向かったのだろうか。それとも…。

「あの、先生は?」

「ああ、まだ運動場のどこかにいると思うよ」

「そうですか。ミーティングには出られないんですか?」

「うん、出ないよ。此処はあくまで参加者主導の集まりだからね」

「はあ」

「で、先生は第三者として僕らの学習をサポートしてくれるってわけ」

「学習、ですか?」

「何か変?」

「いえ、そう云うわけじゃないんですけど、何だか皆さん頭が良い人ばっかりなんだろうなって」

 僕は応える。当の田中だって人当たりはともかく頭の回転は速そうだ。きっと高卒の僕でも知ってそうな有名大学を、更に優秀な成績で出ているに違いない。つまり此処はそう云う人たちが集まったエリート集団の修練の場、に違いない。

「はははっ」

 思いがけなく田中は高らかに笑う。そして急に黙るとカーテンから陽の光が漏れる長い廊下をずんずん歩いていく。僕はその後ろを付いていくしかない。遠く小さく誰かの話し声が聞こえる以外はただ鳥と虫の声しか聞こえてこない。

「僕らはね、」

 田中が口を開く。「本当に生きる為に必要なものをここで学んでいるつもりです。学歴がつまらないものとは思いませんけど、先生が仰るのは『それを君は何にどう生かそうとするのか』、そう云うことです」

「…」

 僕は田中の改まった話し振りに相槌もままならない。

「ほら、何年か前に新興宗教が世間を賑わせたことがあったでしょう。僕らはああはなりたくないんです。彼らは、いや、リーダー格の大卒信者たちは最高学府にまで進んでおきながら生活人としてすでに大事なものを取りこぼしていた。そしてそれに従う者たちは信仰と云う名のエゴイズムに自分たちの不安を預けるしかなかった。その結果社会を震撼させる数々の悲劇が起こったわけです。でも僕らはね…」

 田中はそこで僕の方に顔を向けた。「乗り越えられるものなら乗り越える力を。そうでないなら耐え忍ぶ力を。そしてそれを見極める力を自分の中に養いたい。そう思ってるんですよ」

 僕はその言葉にどう返していいか迷う。そうこうしているうちに僕らはある部屋(元教室?)の前で止まった。中から静かな喋り声が聞こえる。

「ここです」

 田中がドアを開けるとそこには通常の教室二つ分くらいのスペースがあり、様々な年格好(それでも大半は二十、三十代)の人たちが車座になって熱心に話をしている。

「やあ、お帰り」

 一番奥に座っていた髭面の若者がそう言うと、田中は「どこまで進んだ?」と元の軽妙な口調に戻った。

「連絡事項は終わり。後は宴会の出し物の件。目玉はあれとして、順番はまだ決まりそうにない」

 議長と呼ばれているらしいその人は至って真面目に応える。

「何気に出し物にはうるさいからなあ、先生は」

 田中がそう言うと、周りの者たちからも「全くだ」「異議なし」等の声が上がる。

 僕はこの場の雰囲気に当てられている。これはまるでふた昔以上前の学生集会みたいじゃないか。今までの人生で学校の生徒会などにも一切関わってこなかった僕には自分が全く場違いそのものに思える。

「ところで彼は?」ある一人が僕を見咎めてそう言った時、僕は一瞬眩暈がしそうになったほど。

「彼は先生の個人的な要人だ」

 田中は間違ってはいないが、どこかズレた言い方をした。あるいはわざとかも知れない。

「へえ」

 そこに座っていた二十名ほどが一様に僕を値踏みするように見た。

「ちょっと手違いがあってね、彼明日まで残ることになるから挨拶がてら寄ってもらったんだ」

 田中がそう言うと一同はまた納得するように頷く。

「何かある?」

 田中は僕を促す。僕には特に言うべきことはなかったが、こう注目されている状況をさらりとかわす器用さもなく、

「あの、お邪魔してすみません。こう云う場は初めてなので少し戸惑っています」といささか素直過ぎる挨拶をした。それがかえって効を奏したのか、一同の僕への圧が幾分緩くなった気がする。「用が済んだらすぐに失礼します。どうぞよろしくお願いします」、頭を下げた。

「じゃあ、どうしようか。僕はミーティングがあるから」

 田中がそう言いかけたので僕はすかさず「ええ、案内はもう結構です。あとは自分でここいら辺を見て回ります。構いませんか?」と返す。

「もちろん」

 田中はまるで一同を代表するかのように言う。早速僕はその部屋を後にし、再び長い廊下に出る。ようやく解放された気分になる。空気が澄んで足元の床板からはひんやりとした触感が伝わってくる。

 相変わらず細く暗い廊下。時折刺すような光の帯が尚一層その印象を強くさせる。ふと見ると、そこに一つの影が立っていた。

「あなた、誰?」

 女性の声。僕は相手を見る。小柄な、しかし体育会系を想像させるしっかりとした肢体(からだ)。顔はやや丸顔だが、表情にはむしろ過剰なまでの険しさが垣間見える。「もしかして、マスコミ?」

「ああ。いえ、違います。ただ所用があってお邪魔してるだけの者です」

「そんな人ここには来ないわ。あなた、何か隠してるでしょう」

 女は尚も僕に詰め寄る。

「そんな、違いますよ。本当に僕はただ…」

「誰かちょっと来て。変な人がいる」

 女が大きな声を上げる。すると廊下の両端向こうから人の気配がちらほらとし出す。

「ほら、早く来て」

 女は完全に僕を侵入者と決め込んでいるようだ。僕は虚しく状況を見計らうしかない。

「どうした、ミユキちゃん」

 右手から髪をポニーテールにした長身の男が寄ってくる。

「ちょっと、誤解です。僕はただ…」

「何モンだ、お前?」

 どうやらさっきのミーティングの場にはいなかったらしい。「不法侵入か?」

「違いますよ!」

 そう言いながらも僕はもう男とは反対方向に走り出している。男が猛然と後ろから追ってきているのが分かる。一体何なんだ、これは。どうして僕がこんな目に遭っているんだ?とりあえず元来た道を戻り、下駄箱で急いで靴を履き直す。冗談じゃない。大体あの女は何だ。勝手に人を不審者扱いして。僕は表に出る。その瞬間真夏の太陽光がまともに僕を照りつける。一瞬よろめくがそれでも僕は構わず走り続け、やがて振り返りようやく追跡を逃れたらしいことを悟る。どうやらここは分教場の裏手。見ると周りは一面の草っぱらだが、少し離れたところには畑が広がっているようだ。僕は休憩がてらそっちの方に足を向ける。誰か年配者らしい人が作業をしている。僕は相手を驚かせないように近づいてみる。

「こんにちは」

 僕は声を掛ける。相手はやおら腰を上げ振り向くと僕の方を見る。そして何か言ったかと思うと、手で近くに来るよう合図する。僕は黙ってその通りにする。

「ここを耕してみろ」

 男はそう言うと持っていた鍬を僕に渡す。僕はその理不尽さを感じる暇もなく畑に入り鍬を入れ始める。日頃の手入れが良いのだろう。思ったほど地面は固くない。僕は鬱憤を叩きつけるかのように鍬を振り下ろす。後ろで男が何かを呟いたが僕は構わず続ける。実家では小さい頃から畑仕事はやり慣れている。五十メートル一列くらいひと息でやってしまえる。僕はそう踏んでいた。


「だから言わんこっちゃない」

 男は地面に尻もちを着いた僕を見下ろして言った。

「まだやれます」

 僕は言うが、立とうとすると力が入らない。

「無理するな。この天気で急に張り切ったから日射病にでもなったんだろう」

 日射病?熱中症の事か…。

「お前、どこから来た?塾生か?」

 男が問う。

「いえ、違います」

 僕は同じ質問への何度目かの返答(こたえ)を繰り返す。しかし男はそれ以上僕に質問する気配はない。

「立てるようになったら今度はあっちだ」

 代わりに雑木林の方を指差す。男は全体的に精悍な物腰をしているが、年はおそらく七十に近いだろう。白髪頭を短髪にして、立てない僕には構わずどんどん自分の作業を続けている。僕はしばらく呆けたようにしてその背中を眺めながら頭のもやが晴れてくるのを待つ。見上げると抜けるような青空に気まぐれな白雲がゆっくりと漂っている。

 結局一列どころか半分も耕せなかった。ペース配分を間違ったらしい。何やってんだろう、俺。そう思った時、大半を一人でやり終えた男がおもむろに振り向き「いけそうか?」と声を掛けてくる。僕は促されるままにゆっくりと立ち上がると一度大きく背伸びをする。大丈夫そうだ。そして男の指示で先の藪払いの方に取り掛かる。僕は渡された鎌で草木を片っ端から刈っていく。自分の二の腕からみるみる汗が噴き出してくるのが分かる。男は僕の後ろから刈った草木を集め出す。やがて少しずつ辺りが開けてくる。

「おじさん、ここも畑にするんですか?」

 僕は男に訊く。

「ああ。ワシは難しい理屈より身体を動かして食い物を作っとる方が性に合うちょる」

 男はぶっきらぼうに応える。

 …と云うことは、この人も元々は分教場に故あって来た人なのか?確かに男にはどこか土地の者ではない雰囲気がある。僕は思いを巡らせながら鎌を振い続ける。次第に中腰がきつくなってきた。途中から男にもらったタオルを頭に巻き、それでも僕はひと時その永遠とも知れない作業に没頭する。


「お前、いつまでいるんだ?」

「え?」男の問いに僕はすぐには応じられなかった。汗をかいた両方の腕にどこからか虫がたかってくる。僕は自分の事情をどう男に話すか思い図る。

 僕らはだいぶ開けた空き地で一休みしている。男は旨そうに煙をふかす。その表情はあくまで険しいが人当たりは決して悪くない。

「おじさんは地元の人じゃないんですか?」

「違う」

「どこから?」

「言いたくない。お前は?」

「僕はK県から」

「ふ~ん。何でまた?」

「僕は別に文教場に用があったわけではないんです」僕は男の横顔を見る。「実は穂積さんとのことで」

「師匠と何かあるのか?」

 男はあまり変わり映えしない顔で僕に尋ねる。

「ここだけの話にしてもらえますか?」僕は念を押し、男は頷く。

「どうやら僕は穂積さんの子どもらしいんです」

「ん?」

「僕もほとんど詳しいことは分からないんですが、田舎の親からそう云う風に言われてここまで確かめに来たんです」

「そりゃあ…」男は煙草を持ったまま口を開ける。「師匠はそのこと知っとるのか?」

「いえ、まだ話ができてないままなんです。信じてもらえるかどうかも怪しいですし」

 僕は正直に応える。

「ワシがこう言うのもどうかと思うが」男は前置きする。「おめえ、そのことは諦めた方がいい」

「諦めるって…、僕は別に」

「まあ聞けよ」山根と名乗った男はぐっと顔を突き出して言った。「師匠って人間はな、いつの頃からか個人的であることをやめてしまったんだ。その理由(わけ)は、まあ如何にも個人的なことだがな」

「どう云うことですか?」

「おめえも此処がただのレジャー施設じゃないことは分かるだろう?」

「ええ、それはもう」僕は応える。

「つまりな、師匠は此処での活動をはじめとして、他の連中がとっくの昔に放り出した理想って奴をいまだに追いかけてるんだ」

「理想?理想って何です?」

「ワシも一口では言えんよ」山根はそこでまた煙草を大きく吹かした。その煙が目の前で瞬く間に霧散していく。「ただ一つ言えるのは、此処が危うい場所と云うことだ。人が理想を掲げた時、同時にそれ以外のものに対して不寛容になる。理想が高ければ高いほどその人間の足元は細くなり、暗がりで周りが見えなくなってしまうんだ。そして何かが起こった時、一気に雪崩は起きる」

「雪崩?此処で何か危険なことが起きそうなんですか?」

 僕は尋ねるが山根はすぐには応えない。「何かが起こってからじゃ遅いんだ。悪いことは言わん。さっさと家に帰ることだ」そしてやおら立ち上がる。「人間はな、自分で食うものを作って、あとはのんびり昼寝でもしてるのが一番なんだ。下手に夢とか希望とか、そんなものを抱えると碌なことにはならん。少なくともワシはそうだった。お前たち若いモンには想像できんだろう。理想が現実に駆逐され、ものの見事に絶望に流れていくのを」

 山根はそう言うと「さてと」、そのまま何事もなかったかのように鍬を持ってまた畑に入っていく。その背中を見ながら僕には返す言葉もない。仕方なく立ち上がりその後に付いて行こうとした時、背後で人の気配を感じた。

「見つけた、侵入者」

 僕は振り返る。そこには例の女が真っ直ぐに立っている。場所柄それは小さなトーテンポールに見えなくもない。

「違うんだ。君は誤解している」

 僕はいささか面倒になりながら言う。確かに危うい場所だな、此処は…。

「じゃあ正直に答えなさいよ。自分の素性を」

「僕は柏木って云うんだ。穂積さんに個人的な用があって、この分教場のことは娘さんに聞いて田中さんの車で連れてきてもらったんだ。用が終わったらさっさと出ていくつもりだ。君たちの活動には何の興味もないんだから」

「ふん、どうだか分からないわ」

 やれやれ、全く話にならない。僕の中で諦めの気持ちが膨らんでいく。

「じゃあ、君は僕を何だと想像してるんだい?」

「可能性としてはマスコミに送り込まれたスパイ。この分教場の噂を聞きつけて、情報を手前勝手に加工して売りさばこうとしている」

 なるほど。僕は苦笑いする。面白い。まるでサスペンス映画だ。しかし残念ながら現実は違う。もっと単純で、そしていかにも辛気臭い。

「もしそうだとしたら、君は僕をどうするつもりだい?」

 すると女は僕の顔をじっと見つめる。

「あなたには二つの選択肢がある」

「?」

「一つは今すぐ此処を出ていくこと。もう一つは分教場の本当の姿を知るために此処で私たちと一緒に生活すること」

「え?」

 僕はその後半の選択肢に驚く。「いや、そう長くはいられないんだ。ただの旅行者だから」

「それじゃあ結論は出たってわけね」

 女は言う。

 もう、別にいいか。僕は心の中で思う。太陽はすでに西に傾きかけている。腹も減った。残念だがその穂積と云う人に挨拶だけして引き揚げるしかないか。

「分かった。どうやらいくら説明しても無理そうだから僕は帰る」

 そう言って僕は服に付いた泥埃をはたいた。

「駄目だ」

 すると後方から声がする。振り向くと山根がすぐ後ろに立っていた。

「まだあんたには手伝ってもらいたいことがある。おい、ミユキ。いい加減にしなさい」

「…」

 すると女は急に俯きがちになる。「だって…」

「ワシがこの人に頼んどるんだ。この人はお前の言うような変な人間じゃないぞ」

 僕は山根の顔を見る。

「すまんな。この子は少し変わっとってな。新しく来た人にはひどく警戒するんだ」

 山根は言う。「どうだい、あんた。良かったらもう少しここにいてワシの手伝いをせんか?」

 言ってることがさっきと矛盾している気もするが悪い気はしない。しかしやはり長居は無用ではないのか?「でも僕はこの分教場のことをほとんど知りませんし、僕がいたら皆さんの迷惑になるんじゃ?」

「それはワシから皆に説明する。心配はせんでいい。ミユキ、お前もそれでいいな?」

「ジイちゃんがいいんだったらいいよ」

 意外にもミユキは素直に返す。

 やれやれ、どうしたものか。僕は見知らぬこの土地にまで来て畑仕事に邁進することになるか…。見渡すとまだまだ草やぶは十分にある。

「僕はあと二日ぐらいしかいられませんよ。自分の仕事もありますから」

「上等だ」

 山根は言う。「おい、ミユキ。この人をワシの部屋まで連れて行って作業服を貸してやれ」

 ミユキはその指示にすぐに反応し僕の手を持つと、ぐいぐい引っ張って元校舎の方に連れていく。僕は咄嗟のことに気恥ずかしさを感じながらも、とにかく彼女の後についていくしかない。


 結局丸半日、見知らぬ廃校裏の畑で開墾作業をした僕は、良くも悪くもくたくたになりながら夕食の場に落ち着いた(中飯(なかめし)は山根のジイさんが握り飯を一つ分けてくれ、それを無心に頬張った)。教室跡の食堂に勢ぞろいした面子はほぼ三十名程度。やはり二十代から三十代前半の者がほとんど(それもほぼ男)。それぞれの役割分担は決まっているらしく、いかにも機能的に皆が稼働しているように見える。僕が印象的なのは明かりのない昼間に較べると夜は電気が灯るせいか皆の顔が良く見え、分教場そのものの雰囲気までが明るくなったように感じること。

 調理班がホワイトボードに夕食のメニューを記載している。今夜は定番のカレーらしいが、山根のジイさんはあまり好物でもないらしく食が進んでいない。皆が僕をそれほど意識していないのは、そんな山根の口利きと、元々外部からの来訪者の集まりのせいかも知れない(その代わり特に気を遣ってくれる様子もない)。そして当の穂積の姿は未だに見えない。

「師匠は一緒に食事しないんですか?」

 僕は隣りの山根ジイさんに尋ねる。すると横から代わりにミユキが応える。

「先生はいつも後で食べる。その方が皆、気を遣わずに済むって」

 なるほど。そう云う考え方もあるか。

「なに、師匠は昔からそうだ。皆で何か一緒に、と云うのが実は大の苦手なんだ」

「そうなんですか」

 僕は驚く。「でも明日は宴会があると聞きましたが」

「ああ、師匠の知り合いが来るらしい。なんでもその人の伝手で別の分教場を手配するかも知れんてことだ。その視察を兼ねてのことなんだろう」

 そう言われても僕にはこの分教場そのものがどんなことをやっているのか、まだよく分かっていない。僕はあえてミユキに尋ねてみる。

「ミユキちゃんはここで何を勉強してるの?」

「何でも、好きなこと。先生はその時々で変わる。音楽やったり、本を読んだり、ただお喋りしたり」

「穂積先生は何を?」

「宿題を見てくれる。時たまだけど」

 どうやらここは夏休みを利用しての合宿の場らしい。

「皆、どこから来てるんだろう?」

「日本全国からだよ。師匠は学習塾経営の傍ら方々の企業や自治体で人材育成指導をやっとるんだ。その講演とかを聴いてやって来る者も多い」

 今度はジイさんが応える。

 全く知らない、自分の父親の仕事。正直僕には興味も何も、所謂範疇外に他ならない。

「先生には不思議な力がある。お前に分かるか?」

 突然ミユキが言う。僕は首を振る。「力って、どんな?」

「先生は会った人間の心の色が分かるんだ」

「心の色?」

 僕の頭の中にテレビのオカルトものが想像される。

「ミユキ流の言い方だ。気にするな」隣りから山根が言った。

「穂積さんは以前学校の先生をやってらしたんですよね」

「ああ、大学(がっこう)出立ての数年間だがな」そこで山根は少し遠い目をした。「確かに師匠には独特の勘働きがあって。しかしまあ、あれは生まれ持っての天分なんだろうな」

 夕食が終わるとまた三々五々、皆は各自の活動に戻っていくようだ。結局穂積は姿を見せなかった。山根ジイさんに世話をかけ僕は彼と同じ宿直室で泊まることになった。自分の寝床が確保されると云うことはこんなに安心できるものかと改めて思う。

 山根は僕に手製の敷地図を使って明日の作業の段取りを説明してくれる。自然と彼の畑作りへの思い入れが伝わってくる。しかしそれは僕の実家のとは違って、もっと個人的かつ根源的欲求に基づいているような印象を受ける。

「山根さんはずっと此処に住んでるんですか?」

 僕は尋ねてみる。

「そうだ。皆が下界の生活に戻っても、ワシは此処の管理を師匠から任されとる」

「ミユキちゃんは?」

「いつもは町で定時制に通いながら働いとるが、なんせ変わり者だから時々周りとモメてな、そのたんびに此処まで一人でやってくる。気が向いたらたまにワシの手伝いなんかもしとるがな」

 ああ、そう云うことか。僕は妙に納得する。

「山根さんは最終的に此処で何をしたいんですか?」

「何をって、別に大層なことは考えておらんよ。ワシは野良仕事が性に合うちょるだけでな」山根はじろっとした目で僕を見る。「まあ、欲を言えば…」

「何ですか?」

「自分で水を引いて、此処で米を作ってみたいな」

 山根はそう言うと少し恥ずかしそうに微笑んでみせた。ああ、良いかも知れない。僕はその笑顔を見て思う。

 窓際に寝床を作ってもらい、深夜僕はそこに寝転がって上から覗く夜空を眺めてみる。昼間良く晴れていたせいか今晩は星がチカチカ威勢良く輝いている。そして時折その中から零れるように光の筋が流れていった。僕の住む所でも星は見えるはずだが、最近は空を見上げること自体あまりしていなかった。

 穂積は僕の来訪をどう思っているのだろうか。まさに青天の霹靂?それとも何がしかの予感があったこと?涙の対面など期待してはいないが、今日は思いがけなく農作業三昧に終わってしまった(ハンドメイドらしいシャワー室で汗を流した時、僕はすっかり山根ジイさんの農業研修生の気分になっていたほど)。明日はまず穂積の自宅に連絡を取って手紙の所在を確かめ、そしてさっさと穂積に渡してしまおう。あとは山根の作業を手伝ってキリのいいところで引き揚げてしまえばいい。そう思うと僕はむしろゆったりと落ち着いた気分になる。

「心の色か…」

 星がまた、青白い尾を引いて流れていった。


 ところが翌日(あくるひ)、穂積の娘敬子に連絡を取ってみると「手紙は見当たらない」との返事が戻ってきた(もちろんその中身について触れてはいないが)。困ったことになった。僕自身手紙の内容について全く聞かされていない以上、逆に捨てたままで帰るわけにもいかない。少なくとも僕は直接穂積本人と両親のことについて話をすべきなのだろう。しかし朝食の場にも穂積は姿を現さなかった。

「この合宿の運営って不思議ですよね?」

 僕は山根に訊く。

「参加費は維持費分を等分して請求するだけ。プログラムは以前(まえ)は師匠が作っとったが、最近は合宿経験者が持ち込んで、採用されればそれで分科会が結成されるって段取りだ」

「なるほど。でもやっぱり穂積さんも何かされるんでしょう?」

「特別分科会と云うことで皆からの質疑応答に応えることはある。まあ世間話みたいな講話だ」

「よく分からないんですが、この合宿にはどんなメリットがあるんですか?」

「ふん」山根ジイさんは不敵に笑う。「はっきり云って目先のことに囚われる連中には何の得もないだろうな、此処は。現にこの辺の地元の者には新興宗教とごっちゃにされとるよ、ワシらは」

 僕はこの地に着いた時の地域住民からの扱いを思い出す。

「でも、実際此処には参加希望者が溢れてますよね。日本各地から」

「そうだな。敢えて云えば、師匠の云う『人間存在における技術革新論』に共鳴してのことだろう」

「何ですか、それ?」

 僕は思わず目を白黒させる。

「ワシにもよく分からん。要は機械の発展と同じように、人間の生き方にも技術的進歩が求められる時代が来た、と云うことらしい」

「つまり…、人間の生き方に今流行りのITみたいな発展が望めるってことですか?」

「まあ、師匠はそんなことを言っとったな」

 僕は内心、それってやっぱり宗教じゃないのか、そう思う。

「でも実際それをどうやって実現させるんです?やっぱり修行とかするんですか?」

「さあな。ワシはそんなことには一切興味がない。ただ人間は食わずには生きていけない。だからそれを自分の手で育てていく。それだけだ」

 僕らはそんなことを話しながら次第に本日の作業に没頭していく。今日は石垣積みだ。元々果樹園だったところを畑にしようとしているが、その石垣の相当の部分が瓦解している。石材はすでに山根が用意していたが、それを下から積み上げていくのは決して楽な作業ではない。事実危険な工程もある。

「セメントは使わないんですか?」

 僕が訊くと、

「やってから考える。なにぶん予算なんて洒落たものはないからな」

「穂積さんからの援助はないんですか?」

「最低限の維持にかかる分だけだ。好きにやらせてもらっとる以上、文句は言えんよ」

 山根は言った。やれやれ全く変わり者の集まりだな、此処は。僕は周囲を見渡しながら呟く。山根と二人して石を運び、彼の指示に沿って順に並べていく。一つ一つの石材の重みが身にこたえる。製材所で或る程度の力仕事には慣れている僕でも思わず腰の具合を気にしてしまう。老齢の山根なら尚更だろう。せめてここにいる間は山根のために作業を代替わりしてやろう。僕は「実の父親」のことはさておき、そう思う。


 穂積が僕らのところにやって来たのはちょうど昼休みの時だった。

 僕らは宿直室に戻って休憩していた。昼食の後、山根ジイさんがNHKのラジオを点け、僕はそれに耳を傾けていた。歌謡曲が数珠つなぎで流れる番組で、僕はそれが遥か昔の何処か遠い国から聞こえてくるような妙な気持ちになる。もう滅んでしまった場所から風に乗って運ばれてくる、懐かしくも忘れ去られた記憶…。

「やってるかい?」

 穂積は古びたジーパンに麻のシャツを着て入口に立っていた。

「おう、師匠」

 山根ジイさんはそう言うと、素早く来客の為に椅子を用意する。狭い空間に男三人。途端に部屋は山小屋のような雰囲気になる。

「山根さん、良かったね。いい助手ができて」

 穂積はそう言って山根に声を掛ける。

「まあ、一人でやるより何かと捗るわね」

 山根も僕の顔を見ながら返す。僕はそれに曖昧な笑顔で応える。

「君、むこうでは何の仕事をしてるの?」

 穂積が尋ねた。僕は一瞬考えてから応える。

「製材所で働いています。高校を出てからずっと」

「ああ、そう。道理で作業服が似合ってるんだ」

 穂積はそう言って山根が差し出した湯呑みのお茶を啜る。「それで、此処にはいつまでいるの?」

 ハッとした。僕はまるで悪さを咎められた子どものようにドギマギしてしまう。

「はあ。今日と明日で畑の石垣積みと校舎の屋根補修をすることになってますが」

 僕は業務連絡をする。

「そうか。悪いね、せっかく来てもらったのに」

 そう言いながら穂積は後ろのポケットから見覚えのある封筒を取り出した。

「あ…」

 それは例の手紙だった。

「うん。運動場の草むらの中に落ちてたらしくて、今朝他の者が拾って届けてくれたんだ。宛名が私だったので」

「そうですか」

 ラジオの曲が変わり、随分前のフォークソングが流れ出す。

「中身を見せてもらったよ。お母さんも元気にしているようだね。安心しました」

「あの」

 僕は言う。

「何だい?」

「僕は手紙の内容を全然知らないんです。あなたの事もつい最近まで知らされていませんでした」

「そう」

「それでいきなりやって来てご迷惑とは思ったんですが」

「そんなことはない。私の責任もある」

 穂積は言った。責任?僕はその言葉の意味を測りかねる。

「私もね…。あ、山根さん。別にいいよ、一緒に聞いてもらって」

 穂積はさりげなく部屋を出ていこうとする山根に声を掛ける。山根はいかにも気まずそうに苦笑すると、僕が頷くまで勝手口のところでモジモジしていた。

「かえってそっちの方が助かる。私もね、正直人並みに困惑してるんだ。不意に君がやって来たこと、そしてこの手紙」

 それから束の間穂積は黙る。あるいは次の言葉を探しているのかも知れない。先程のラジオの曲が閉ざされた恋の成り行きを歌っている。僕はふと元恋人のことを思い出した。そしてあの頃の彼女の気持ちを思い量り、曲に聞き入ってしまう。

「君には好きな人、恋人とかいるのかい?」

 唐突に穂積が訊いた。心の色。僕はミユキが言っていたことを思い出す。

「あ、いえ。少し前まで一緒に住んでいた人はいましたが」

「別れちゃったの?」

「そうですね」

 僕は自分に確認するように言った。

「今時は一生結婚しない人も増えてるみたいだけど、どうなんだろうな。私から見ると他人(ひと)に対して随分臆病になってるような気もするけど。山根さん、そう思わない?」

 すると山根はえっと云う顔になってから「一人もんのワシにゃあ、何とも…」と子どものように口ごもる。

「私たちがもっと若かった頃はむしろお節介ばかり焼いてましたね。お互い人のこともまるで我が事のように。それが時として煩わしくてたまらなかった。そして私たちは言葉を介さなくても分かり合える、そんな理想の仲間を求めて方々を流離った。その一方で誰彼構わずつかまえて、どうでもいい事で夜通し議論したり。挙句の果ては口汚く言い争って殴り合いだ。あの頃の私たちは正に矛盾が服を着て歩いてるようなものでした」

 そこで丁度曲がまた変わった。

「今夜少し時間ありますか?」

「はい。あ、でも今日は何か集まりがあるんじゃ?」

 僕は訊く。

「うん、来客があるんだ。それが済んでからだから遅くはなりますけど」

「分かりました。僕は構いません」

 その返事を聞くと穂積は湯呑みをテーブルに置いて席を立った。お茶はまだ半分以上残っている。

「山根さん、この人はヨーコの息子だよ。気づいてたかい?」

 穂積がそう言うと山根は一瞬表情を変え、それから「そうでしたか」と一言応える。穂積は頷きながら部屋を出ていった。僕は自分の母親を山根までが知っていることに少しうろたえたが、予定の時間もあったのでそのまま午後の作業に取り掛かる。山根もその後夕方まで、特にその話題について触れることはなかった。


 その日は早めの宴会となった。どうやら客人は今夜泊まりはしないらしい。確かに夏とは云え此処は宿泊には今一つ不向きだ(部屋ばかり広くて、だいいち蚊が寄ってくる)。客人は夕方には到着していたらしいが、僕ら二人は作業に手間取っていて知らなかった。シャワーを浴びてから大教室(元音楽室)に顔を出すと、上座にはその客人(=上杉さんと云う京都で建築会社を経営しているらしい人)が座ってただにこにこと笑っていた。司会はあの田中だ。どうやら彼はそう云う表立ったことが得意らしく、ホワイトボードに書いてあるプログラムに従って幹事よろしく進行を取り仕切っている。

 穂積はその田中の横に座り、いかにも参加者の一人と云った不特定然の雰囲気で用意された食事を口にしている。宴の中ほどとなった頃、田中が「それでは先生、何かありますか?」と穂積に声を掛けた。すると会場からパッとした笑いが起きる。もうだいぶ酔いが回った者もいるようだ。穂積はよっこらしょ、と声出し立ち上がると、まるで小学生のようにちょこんとお辞儀をした。

「あ~、大してご紹介に与ってはおりませんが、一言以上のご挨拶を申し上げます」

 穂積が澄ました顔で言う。再び笑い声がして「いいぞ、先生」の野次声も混じる。

「本日は私の友人、上杉氏をお迎えしてこのような宴を催すことができ甚だ迷惑、いや喜ばしく思います(笑)。毎回この廃校合宿の度に思うことですが、よくもまあ日本の津々浦々からモノ好きが集まってくるものだと感心します(野次)。もちろん上杉氏も今日からその一味と云うわけですが」

 そう言って穂積が上杉を見ると、当人は笑いながら手を扇ぐように振る。

「しかしこの場を借りて私は言いたい。モノ好き・変わり者の見聞に耳を傾けず、あるいは心を開かぬ者には明日はないと。そしてこの変動の時代だからこそ自分の意志…、いや違うな、自分の生き方を見出すべく手探りを続けることが何より肝要なことなのだと。そしてそれがひいては、地域・産業・教育やがては国全体を豊かにしていくのだと私は信じたい」

 いつの間にかその場にいた全員が穂積の言葉に聞き入っている。「諸君、出会いはいつも一期一会。今日はこの越境の地で、同胞(とも)ととことん語り合いたまえ。…私は年寄りだからさっさと寝床に退散しますけど」

 やはり笑い声と野次に包まれて穂積は席に戻る。僕は新鮮な驚きを感じている。穂積にこんな軽妙な一面があるとは。そしてこの得体の知れない集まりが意外にも泥臭く物事を突き詰めていることに。僕は続いて始まった各参加者のかくし芸大会を横目に酒を少しばかり口にする。山根ジイさんもずっと黙ってただ料理に箸を動かしている。しばらくして不意にミユキが立ち上がった。そして忘れられたように置いてある古いアップライトピアノに座り、鎮まる一同を背に突如歌い出す。驚いた。完全に素人の域を超えている。曲名は分からないが、ミユキの圧倒的な演奏と歌唱だけで曲の目的は十分に達成されている。周りにも僕と同じく唖然とした様子の者が何人かいた。

「ミユキちゃんって、歌手かなんかですか?」

 僕が隣りの山根ジイさんに訊くと、山根はふふんと笑い「今時、カラオケだって達者なヤツばかりじゃないか」、そう皮肉交じりに応えた。

 宴は夜十二時を回っても続いていたが、自然と集団(グループ)の塊りに分かれ、それぞれ別の話で盛り上がっているようだ。僕は客人が参加メンバーの一人から町まで送っていかれ、その後穂積がやおら自分の部屋に退散するのを見届けてから、やはり山根ジイさんと宿直室に引き上げる。彼の淹れたお茶を飲んでいるとミユキがやって来た。

「ミユキちゃん。歌、すごかったね」

 僕がまず声を掛けると、

「穂積先生が呼んでる」

 彼女は澄ました顔で言った。僕は早速一人部屋を出て穂積の元に向かう。まだ廊下の向こうでは話し声が聞こえる。穂積の部屋(元印刷室?)は暗く、どうやらナイトスタンドだけが灯されているようだ。僕は中に声を掛ける。

「ああ、どうぞ」

 間の抜けた返事が返ってきた。戸を開ける。

「どうもお疲れさん。済まないね。構ってあげられなくて」

 僕はいいえと小さく応えてから、いかにも昔の児童椅子らしきものに腰を下ろす。穂積は少し疲れた様子に見えた。

「何を、どこから話せばいいのかな?」

「いえ、そんな」僕はたじろぐ。「僕はこれと云って…」逆に今はただ、出されたものを受け取るしかない。

「そう?」穂積はキチンと片づけられた空(から)のベッドサイドに腰掛けている。「どうやら君が私に悪意を持っていないのは感じています。そしてそれにはまず感謝したい。ヨーコ、いや君のお母さんがあの時妊娠していたことを私は薄々気づいていた。そして彼女が私の前から姿を消した後、私は君のことを碌に思い出しもしなかったのだから」

「仕方ありません。いささか哀しい気持ちにはなりますが、僕が先生の立場だったら同じだと思います」

 本心、ではあった。

「有難う」

「むしろ僕が気になっているのは両親のことです。どうして彼らはもう大きくなった息子に先生のことを知らせようとしたのか。僕には納得がいきません」

「それを伝えても受け止められるだけ君が成長した、そう云う気持ちからではありませんか?」

 穂積は言った。

「それにしても…」

 僕は口ごもる。

「ご両親はお元気なんでしょう?」

「ええ、それはもう。僕も一度は心配したんですが、どうもそう云うことではないようです」

「君のお母さんは以前から実に不思議な人でした」

 穂積は笑って言う。「お母さん…、私たちはヨーコと呼んでいましたが、彼女と会ったのは私たちがデモで散々な目に遭って駆け込んだ、とある場末の喫茶店でした。私たちは東京にいたんです。

 君もご存じのようにその頃日本では学生闘争と云うものが盛んでした。私たちは本気で社会を変える、あるいは社会は変えることができると考えていました。今から思うと本当に愚かなくらい純粋にそう信じていました。そしてその為に随分間違ったこともした。ヨーコとのこともその一部と云っていいでしょう」

 穂積の顔半分は深い陰影に陰っている。

「彼女はまだ高校生でした。でも学校には行かず、その喫茶店に入り浸って半分手伝いのようなことをしているようでした。私たちもしばらくは店の人と勘違いしていたくらいですから。

 知り合うようになってからも彼女は私たちの活動にはほとんど興味を持ちませんでした。と云うより彼女は私たちの限界をすでに見切っていたのかも知れません。事実私たちの活動は組織的にも既に空中分解寸前。権力に対抗して同じ隊列を組み、同じゲバ棒を振いながらもお互いのことをまるで信用できなくなっていました。私たちはやはり若かった。他人との違いを間違いと即断して排斥せずには自分自身を保てなかった。そして何より、本当は自分がこれから先どこまで理想と対峙していけるか自信がなかった。単純に怖かったのです。自分たちが変えようとしている世間、社会と云うものが。

 そんな狭量な私たちをヨーコは事あるごとに冷たく揶揄しました。『でも何のかんの云って、あんたたちは自分らの玩具箱の中で遊んでるだけなのよ』。無論私たちはそんなヨーコに憤りました。そして何とかして彼女にも自分たちの思想を分かってもらおうと四苦八苦した。しかしヨーコは理解するどころかかえって私たちと反目しました。『あんたたちこそちゃんと周りを見なさいよ。自分たちのやってることが本当に何かを生み出すきっかけになってるかどうか』。

私たちも渾身努力していました。謂わば自分の人生を賭けて活動していたのです。それをたかだか高校生の小娘に総括される謂れはない。私たちは露骨に口にしないまでも各自そう思っていました。そしてそれこそが私たちの驕りそのものだったのかも知れません」

「あの…」

「はい」

「穂積さんと母は恋人同士ではなかったのですか?」

「難しい質問ですね」

 穂積は苦笑する。「君には叱られそうですが、私とヨーコにはあまりそう云う意識はなかったと思います」

「と、云いますと?」

「そうですね。ヨーコの言った通り、当時の私たち学生はただ奔放に若さを解放させていたのかも知れません。それこそ後先考えず。しかしそれはヨーコも同じでした。彼女は私たちの活動には消極的でしたが、彼女は彼女なりに世の中に対して疑問を持っていた。自分に理不尽を強いるものに対して一切合財拒否を呈して。そして何より自由になろうと躍起になっていた。その点で私たちは同志そのもの。そうした中で時として、私たちは友情以上の気持ちをお互いに抱いたのです」

「僕にはなんとも、想像できませんが」

 僕は感想を口にする。

「そうでしょう。私自身、当時の自分たちのことを考えると理解に苦しみます」

 僕たちはお茶を飲みながらしばし沈黙する。もっとも穂積の淹れたそれは僕には熱過ぎるのだが。

「穂積さんには不思議な力があると聞きました」

 僕は突然その話題を口にする。「ミユキちゃんが教えてくれたんです。穂積さんには心の色が分かるって」

「あの子は時々妙なことを言い出すんですよ。私にはそんな自覚はありませんけどね」

「では、やはり?」

「う~ん、昔からそうでしたからねえ。自分では特別不思議と思ったことはありません」

「例えば相手の考えてる事とかが分かるんですか?」

「いや」穂積は応える。「そんな便利なものじゃないんです。ほら、誰かの肩もみをする時、触ると筋肉の固さでどれくらい凝ってるか分かるでしょう。それと似てますね。人や物の発する念のようなものが(あくまで感覚ですが)私には時折見えるんです。あの娘(こ)は音楽をやるので色なんて例えをしたのでしょう」

穂積は穏やかに微笑む。「最近ではそれも随分弱くなりましたが、確かに昔はそれで相手のことが分かった気になったりもしたものです」

「今は違うんですか?」

「年を取るうちに気づきました。そんなものは人間付き合いの邪魔にこそなれ、決して良いものにはなり得ないのだと」

「でも、使い方によっては…」

「使い方ねえ」

 苦笑した穂積は僕の顔をじっと見つめる。「自分の特性を否定はしませんが、人と違うと云うことは一長一短です。場合によっては便利なこともあるでしょうが、私はその意味では恩恵に与ることが少なかった。実際ヨーコのことも私は何一つ分かっていなかったのですから。

人を理解すると云うことは、結果よりもその道程(みちのり)の方が大事なのではありませんか。たとえ鬱屈した心の痛みやそれから来る苦しみの時間も、本来その人ならではのもの。それらを共有することではじめてお互い見えてくるものがある。私は近ごろそう思うようになりました」

 その言葉に僕は黙らざるを得ない。不意に殺風景な自分の家の中を思う。「穂積さんはこの合宿で何をしようとされてるんですか?」

「そうですね。あえて云えば『普通とは何か?』と云うことを皆と考えてみたいのかも知れません」

「『普通』?」

「そうです。若い頃の私たちは自分たちの生活とか習慣・節度、そう云う地味で当たり前に在るものを一段下に見ていたと思うんです。受験生が学校で習い試験に出ることだけがさも有用な知識であるがごとく錯覚するようにです。でも本当に身につけるべきはもっと手前にある。私たちはそれを分かっていながらつい後回しにしてしまうんです。私は一人でも多くの人に此処に来てもらって、是非自分の『普通』を見つめ直してもらいたい。そしてそのことを周りに広めていってもらいたい。そう願っています」

「…」

「健太君。私はご覧の通り、何の取り柄もないロートル男だ。変わり者で、地域の者からは時折敵視さえされる。私は私なりに真面目に生きてきたつもりだが、それでもその途中で数々の過ちを犯してきた。弁解のしようもありません。君はそんな私を許してくれますか?」

 穂積を包む陰影は尚一層濃くなっている。どうやら自分は、知らずに一人の人間を追い詰めていたのかも知れない。そう思った。

「誤解しないで欲しい。私は君と云う存在を怖れているわけではない。困っているわけでもない。ただ…」

 僕は穂積が手繰り寄せようとしているものを待つ。

「自分の遠く与り知らなかった存在(ひと)が、こんなにも、そして確実に存在していることを知ってただただ驚いているのです」

 穂積はそう言うと不意に立ち上がる。

「今私は君のご両親に感謝したい気持ちでいっぱいです。しかし、もう君はここに来ない方がいい」

「?」

 僕は穂積を見上げ聞き返す。「どうしてですか?」

「良くも悪くも私は何かと誤解されやすい。そして私もそんな自分に心底ウンザリすることがある」

「それは?」

「うん。自分のことを無闇に分かってもらおうと思わなくなったってことかな」

 穂積はお茶を淹れ替えながら応える。「私もこの先そう長くは生きられないと思う。すると人の目とか評価は二の次に思えてきてね。今は多少ジタバタしても、自分の気が済むように生きるしかないと思うんです」

「…」

「こんな私のそばにいたら君にまで迷惑が及ばないとは限らない。現に娘にはもう完全に呆れられていますよ」

 僕はその時、穂積の娘敬子のことを思い出す。あまり期待しない方がいいですよ、父は変わり者ですから…。彼女はこれから先もずっと、おそらく僕の事は知らずに生きていくだろう。しかしそんな彼女の言葉はすでに僕の深淵を掠めている。

 僕は自分の父親であろう人に何かを期待して此処までやってきたのだろうか?僕は改めて自分に問いかける。今更穂積に父親であることを認めてもらったところで、自分にとってはやはり田舎の父がそれだと云うことに違いはない。その思いはこれからも変わらないと思う。

「そうですか」僕は穂積に応える。「僕にもよく分からないんです。何故自分が此処まであなたを訪ねてやってきたのか」

「失望しましたか?」穂積はまた元の場所に座り直す。

「いえ」僕は穂積を見る。「そんなことはありません。ただ、あなたは僕が考えていた人とはかけ離れていたような気がします」

「なるほど」

「でも、やはり会えて良かったと思います。本当の父親を想像してあれこれ思い描くのも悪くはありませんが、やはり僕はただ会ってみたかったのかも知れません」僕は言う。「穂積さん」

「はい」

「あなたが仰ったように、僕も何の取り柄もない人間です。もうすぐ三十にもなります。恋人には逃げられましたし、仕事だってまだまだ思うようにはできません。ですが何とか自分の力で生きていきたいと努力はしています。多分、これからもきっとそうだと思います」

「そうですか」

 穂積は背筋を伸ばし僕を見る。

「はい」僕は何故かその穂積の眼差しに席を立った。「それでは、失礼します」

「帰りは見送れないかも知れません。どうか、お元気で」

 それから穂積の顔を見るまでもなく廊下に出て、僕はそのまま山根ジイさんが待つであろう宿直室に向かう。どうやらまだ宴会は続いているらしい。静かな笑い声が闇の向こうから聞こえてくる。僕は一瞬救いようもない孤独を感じる。虚しさとは違うが、胸を攫うような喪失感が僕の心にぴったりと寄り添っている。

「おう、話は済んだか」

 部屋に戻ると山根が寝床の用意をして待ってくれていた。

「ええ。さて、寝ましょうか」

 僕は疲れている。ここにきて、これまで生きてきた三十年足らずの帳尻合わせが一気に押し寄せてきたかのように。ある意味有難い。僕は今、眠ることが許されている。今はただこの慣れない場所で身を横たえよう。

「今日も星が出てるなあ」

 山根が言った。僕は窓の外を見る。確かに空には、光の粒が無造作にばらまかれ張り付いているようだ。

「此処の塾生から聞いたが、星にも若いのと年寄りがいるそうだ。もちろん途中のもな」

「ええ、そうみたいですね。大体は色で分かるそうですよ」

 僕は応える。

「便利だな。ワシはこの歳になるまで自分はいつまでも子どものように思っとった」

「そうなんですか」

 僕は笑い返すが、考えてみれば自分もそうだと思う。

「気がついたらよぼよぼの白髪ジイさんになっとるもんなあ。詐欺みたいなもんだ」

「生きてれば皆そうですよ」

「そりゃそうかも知れんが…」

 山根も笑う。「全く、浦島太郎の気分だよ」

 僕は黙ってそれに頷き寝床に横になる。老若入れ混じった光がそれぞれの宿命(さだめ)を湛え瞬いているのが分かる.。僕は思う。明日がどう云う日であってもそれは関係ない。僕はとりあえずこの日常を生き続けていくしかないのだ。それがおそらく、今の自分に与えられた定位置なのだろうから…。

 不意に部屋の明かりが消された。と同時に、僕の意識は遠く広がる銀河のパノラマに吸い込まれてようだ。そしてそれは、やがて深い眠りの世界へと繋がっていった。


 あくる朝。僕は山根とさっさと朝食を済ますと畑の方に出た。昨夜ぐっすりと眠ったおかげで身体は随分と軽い。

「石垣の方はあれでもう大丈夫なんですか?」

「ああ、あとは一人でも何とかなる。お前、今日帰るのか?」

「はい。一応用は済みましたので」

「そうか」

 山根は梯子を抱えて僕の前を歩く。昨日の続きだ。山根が梯子を支え、僕が先に上がる。後からゆっくりと山根も上がってくる。僕らは痛んだ部分の屋根瓦を外し、一つ一つ雨漏れの状態をチェックする。

「おい」

 山根が僕に呼び掛ける。

「はい」

「あの山の向こうがきらきらしてるのが見えるか?」

 そう言われて僕は南の稜線の彼方に目を凝らす。高い峯の連なる先にうっすらと青い煌めきが浮かんでいるのが見えた。

「ここからならたまに見えるんだ」

 山根は言う。

「ああ、海ですか」

「そう」

 僕は遥か向こうに見える青い水の塊に目を凝らす。そうか。僕はあの海の向こうからここまでやって来たんだな。そう思う。そう考えれば自分もまた大したものじゃないか。そうとも思う。

「また来いよ。ワシはもうしばらく此処にいる。冬にも来い。冬の山暮らしも悪くないぞ」

 そう言って山根はニッと笑った。つられて僕も笑う。「いいですね」


 再び田中の車で町まで降りてきたのはその日の夕方近くだった。僕は来た時と同じホテルに宿を取り、そこから実家に電話を架ける。

「おう、どうした?」

 出たのはやはり父親だった。

「今四国。穂積さんには会えた。それで明日、家に帰るよ」

「そうか。どうだった?」

「どうって?」

「何か話せたか?」

「うん、まあね」

 僕は電話を握りながら苦笑いする。「そうだな。変わってるけど、面白い人だったよ」

「手紙のこと、何か言ってなかったか?」

「いや、別に」

「そうか」

「父さん」僕は呼び掛ける。「無理にとは云わないけどさ。あの手紙の中身、なんて書いてあったの?」

「ふふん、そうさな」

「勿体ぶらずに教えてよ」

「ある意味、お前が手紙だったんだ」

「は?何それ」

「お前に持たせた手紙の中身は、ずっと昔あの人が留置場から書いて寄こした手紙だ。俺たちはそれを長い間開封せずそのままにしておいたんだ。それだけだよ」

「なんでまた?」

 僕は呆れて問い返す。

「理由か?」そして父は電話の向こうで一つ咳をする。「忘れたな。多分母さんがそうしたいって言ったんだろう。そのうち二人共、そんな手紙があったこと自体すっかり忘れてた」

 父は笑っている。

「じゃあ穂積さんは、開封されなかった自分の手紙を今頃になって送り返されたってこと?」

 僕はゆうべの穂積を思い出しながら言う。「父さんたちも酷いな」

「手元に置いたままにしとくのもどうかと思ってな。その代わりお前に会えたんだ。プラマイゼロってとこだろ」

 父は悪びれることなく言う。僕は正直穂積に同情したい気持ちになる。

「今度はいつ帰る?正月か?」

「ああ。でもまだ分からないよ。また連絡する」

 僕は電話を切った。全く呆れた人達だ。散々人を焚きつけといて。

 それにしても…。僕はベッドサイドに腰を掛け、遥か時間の向こうに思いを馳せる。警察に拘留され、穂積はそこで母のことを思い出し、一体どんなことを手紙に書いたのだろう。そして母はそれを受け取った時何を思ったんだろう。父は何を感じたのだろう。僕にはもはや見当のつけようもない。どちらにしても、両親はそれを不問にすることを決め、自分たちの日常を邁進することにしたのだろう。僕と云う存在と共に。そして今頃になってその手紙を思い出し、すでに家を出た一人息子に連絡を入れた。本当の父親に会ってみろと…。う~ん、やはり訳が分からない。しかし一方で、確かにそれに勝る返事もなかったろうとも思う。

 僕は仰向けに転がってつるんとしたホテルの天井と対峙する。冗談じゃないよなあ。僕はそう独りごちながら目を瞑り、山根ジイさんと一緒に見た青い稜線の果てをいつしか瞼に思い返していた。


 気がつけば、あの最初の旅からもう十五年近くも経つ。僕は相変わらず製材所に勤め、田舎の父は一昨年病気で亡くなった。母は今のところ自由気ままに暮らしているようだ。

 今、僕の部屋には五年前に四国に行って撮った、大判の写真が数枚パネルにして飾ってある。その写真にはおそらく今も変わらないあの場所からの峰々の雄姿が写っている(他には山根ジイさんとミユキ、三人で谷沢へ釣りに行った時の様子なども)。僕の出自は自分でも首をかしげるほどヘンテコなものだったが、それにもまして今の世の中では俄かには信じられないことが挙って起きている。そんなニュースが流れる度に僕はこの山嶺の写真を一人見つめる。この世には時代が移ろっても早々変わらないものだってあることを愚鈍にも信じ確かめるかのように。

 事件が起きたのは今から十年ほど前だ。一時期穂積と関係のあった会社で過労による自殺者が相次ぎ、マスコミは人材育成で関与のあった穂積にまで取材の矛先を広げてきた。そして丁度合宿が行われていた分教場で、マスコミに紛れてやってきていた右翼団体所属の若者と、合宿参加者とが些細な口論から衝突し怪我人まで出す騒ぎとなってしまったのだ。当日現場に穂積はおらず、当の若者もあくまで個人的思惑から現場に潜り込んだとのことで穂積自身の責任は問われなかったが、その後しばらく彼の身辺は執拗なマスコミ攻勢に晒されることになった。盛んにテレビで流される穂積の様子を見ていると、それはあたかも遅れてきた時代の寵児と云った扱いで、皮肉にも一時は政界に出るらしいとの噂まで立ったが、結局それはマスコミの手前ミソに過ぎなかったようだ(それともあの人が、持ち前の勘働きをここぞとばかり発揮させたと云うことだろうか?)。

 そんな中でただ一人変わらないのが山根のジイさんだ。彼は脇目も振らずずっと自分の仕事を続けてきた。鍬を振り続けてきた。僕は時々山根に手紙を書く。そして彼からは今ではもう随分整備された田畑での暮らしについて、これ以上ないくらい事細かく書かれてくる。僕らは海と山を越え今でも繋がっていると思う。あの果てなく続く山々の頂きのように。そしてその度に僕は、またあの場所へ行ってみたいなあと、厭きることなくこの写真を仰ぎ見るのだ。


 蛇足。あの頃別れた元恋人は、それから本格的に女優となって今では時々テレビや映画でも見掛けることがある。その堂々たる姿を目の当たりにするにつけ、彼女は僕にとってもう完全に深遠な存在となっているようだ。

 すごいなあ…。

                                 ( 了 )

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『 蒼碧の果て 』 桂英太郎 @0348

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