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彼はそんな俺を見て、にっこり笑った。いつもクラスの輪の中心で見せている、影のない笑顔だった。そしてその顔のまま、彼は言ったのだ。あんた俺のことずっと見てるよな、と。
俺は、教室の隅っこからこっそり眺めていた彼の笑顔が、自分だけに向けられていることに気を取られていて、彼の言葉の意味を一瞬受け取り損ねた。そして、数秒おいて彼の言葉を咀嚼し直し、ぞっとした。確かに俺はときどき彼のことをこっそり見てはいたけれど、ずっとなんて見ていないはずだった。それも、本人に気が付かれるほどなんて、絶対に。でも、彼の言葉は明らかに確信に縁どられていた。彼が笑っていなければ、俺はその場から走って逃げ出していただろう。それくらい、動揺していた。
「住んでるの、実家?」
彼は、そんな一見脈絡のないことを、笑顔のまま問いかけてきた。俺は、ぎこちなく首を横に振った。実家から大学に通えないことはなかったけれど、母ひとり子ひとりの母親とは、小学生の時に男の子を好きになったことがばれていじめられて以来、距離ができていた。その微妙な距離に耐えられず、俺は大学進学を機に、という顔をして家を出ていた。
「じゃあ、ひとり?」
彼がまた問いかけて来るから、俺はぎくしゃくと、今度は縦に首を振った。
「ここから近い?」
また、首を縦に振る。彼の真意が分からなかった。
「じゃあ、行ってもいい? 雨だし寒いし。」
雨だし寒い。それが、彼が俺に告げた理由の全てだ。俺はそれ以上なにも彼の感情について知らない。それは、はじめの日にもそうだったし、今でもそうだ。
とにかく彼は、本当に俺について家まで来た。俺は、無言で歩いた道すがら、もしかしたら彼も同性愛者なのではないかと思ったりした。ゲイには、簡単にひとと肉体関係を持つひとも少なくない。彼もそのタイプなのだろうかと。
半歩後ろをついてくる彼を恐る恐る振り返ると、やっぱり彼は、笑顔を返してきた。影がない、完全無欠の笑顔。俺は、その表情には、影と一緒に感情もないみたいだ、と思った。するとなぜかその顔が怖くなって、俺は彼に話しかけることができなかった。彼も俺に話しかけてはこなかった。今思えば、彼は全く俺に対して興味なんかなかったのだろう。居酒屋から俺の部屋までの五分間は、だから本当に静かで、細く降る雨の音すら耳につくくらいだった。
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