砂漠の王と雪の姫

藤浪保

第1話 女神アルカと堕神イヴェリス

 バシャッ。


「きゃっ」


 突然顔に冷たい液体が掛かり、シヴェラは寝台から転げ落ちた。


「ぷっ」


 声のした方を見れば、侍女ケイシーが嘲笑あざわらっていた。からのタライを手にしており、縁から水が石畳に滴り落ちている。


「いつまで寝てるんだ。早く起きて支度をしな」

「支度って、何の……?」

「国王陛下がお呼びだ」

「陛下が?」

「伝えたからね!」


 ケイシーはタライを放り投げると、そう言い放って部屋を出て行った。金属のタライが石畳に落ち、わんわんと耳障りな音が響く。


 トヴァルカ王国の第一王女シヴェラにとって、国王とはすなわち父親だ。父親が娘を呼び出したというだけのことなのだが、顔を合わせるのは実に一年ぶりだった。


「なんで急に……」 

 

 理由は不明だが、とにかく急がなければならない。昨夜も妹のアルカレアの婚礼衣装を縫っていてほとんど眠れていないが、そんなことは加味してもらえないだろう。


 シヴェラは濡れてしまった顔と髪をぬぐおうとして、髪がもう凍りはじめていることに気がついた。室内ではあるけれど、寝起きで暖炉の火を入れていない今は、外と同じくらい寒い。


 髪は後にすることにして、まずは火を起こした。


 部屋が暖まるまで待つ余裕はなく、シヴェラは夜着を脱ぐと、一人で手早くドレスを身に着けていった。


 三年前にあつらえたこの服は、自分で手直しをして限界まで丈を伸ばしていたものの、姿見がなくとも足首まで見えているのは確実だった。それでも手持ちの衣装の中で最もマシだと思える物なのだ。


 去年はまだ平気だったのに、この一年で随分と背が伸び、体形も変わってしまった。胸も張っていて不自然なしわが寄っている。


 こんな格好で出ていけばまたひどく非難されるだろうが、行かなければ罰を受けるだろう。


 氷の溶けた髪をぬぐって簡単に結い、ヴェールを被ったシヴェラは、同じく寸足らずのコートを羽織り、意を決して部屋を出た。


 目の前にあるのは薄暗いらせん階段だ。


 一番下まで降りた後、どっしりとした木の扉に手を当てて、ゆっくりを力を込める。


 蝶番ちょうつがいがギギィときしんだ音を立てる。


 開いた――。


 普段はかんぬきが下ろされ、外からしか開けることのできない扉だ。


 シヴェラは扉を押した勢いのまま、外の世界へとまろび出た。


 まぶしいっ。


 そこは一面の銀世界だった。


 降り積もった雪が、さんさんと降り注ぐ太陽の光を反射して白く輝いている。


 内部の小さな明かり取り用の窓からの光とは比べるべくもない。


 目を細めながら、シヴェラはゆっくりと息を吸った。冷たい空気が肺を満たしていく。カビ臭くない、静謐せいひつで澄んだ清らかな空気だ。


 はぁ、と吐くと、白息が出た。部屋の中でもいつも見ている光景だが、外ではなんだか特別な物のように感じる。


 背後を振り仰ぐと、澄み渡る青空を背景に、どっしりとした石造りの塔がそびえ立っていた。その最上階が、シヴェラが幽閉されている部屋だ。


「あ……」


 つつっと視線を落とし、たった今出てきたばかりの扉の両端に立つ衛兵を見て、シヴェラは小さく声を漏らした。


 彼らは警戒するような、嫌悪を催すような、憎んでいるような、そんな表情でシヴェラを見ている。


 シヴェラは思わずヴェールを押さえ、しっかりと被っていることを確認すると、衛兵から顔を隠すように身を縮こめ、小さすぎて閉まらないコートの前身ごろを何とか寄せて前方へと向き直った。


 降るがままにしてある雪原の中、人ひとりが通れるほどの細い道が雪を踏み固めて作られている。それは前方遠くにある城壁の一端へと続いていた。


 シヴェラは一歩、また一歩と雪を踏みしめていく。


 ブーツはとっくにサイズが合わなくなっていて、仕方なく夏の革靴を履いている。これだって随分窮屈だが、なんとかまだ履けている。


 靴裏に滑り止めの毛皮は張っていないから、滑って転ばないように注意しなくてはいけない。幸いにも、夜のうちに降った雪は氷になるほどには踏み固められておらず、シヴェラが歩くたびにギュッギュッと音が鳴った。


 露出した足元が寒い。ストッキングは履いているが、夏用の物だ。くるぶしまでの靴ではガードしきれず、ドレスも寸足らずでは、雪がつくのも避けられない。ついた雪は体温で溶けていく。


 城壁へと到達した時には、ひざ下の半分から下は靴も含めてぐっしょりと濡れていた。靴の窮屈さに冷たさが相まって、つま先の感覚がなくなりそうだ。


「国王陛下に謁見の栄誉をたまわり参上いたしました」


 シヴェラは目を伏せたまま、互いの槍をクロスさせて入口を塞いでいた門番に告げ、優雅にカーテシーをした。


 もちろん、王女が一介の門番に対してこのような礼儀を払う必要はない。たとえ相手が騎士団長だったとしても、当然王女の方が地位は上である。


 だが、シヴェラに関してはその常識は当てはまらなかった。第一王女という肩書は残されているものの、その実態は、一介の侍女よりも下どころか、ともすれば下働きよりも下に見られるほどなのだ。


 門番はすっと槍を引いて道を開けた。シヴェラがここに来ることが事前に伝わっていたのだろう。でなければ拘束され、塔に連れ戻されているところだ。


 木戸を開けると、暖かい空気がもわっと流れてきた。一歩踏み入れば、春の日なたのような暖かさに包まれる。


「魔女がっ」


 木戸を閉めようとした時、門番の片方がぼそりと呟いた。


 とっさに視線を向けたシヴェラと目が合う。憎しみの込められた目は、塔の前の見張りとそっくりだった。


 シヴェラは逃げるようにして足を進めた。


 今歩いているのは裏の通路だ。王族や王城に勤める貴族たち、そして訪問客が使うのは表の通路とは別にあり、使用人が彼らと出くわさずに王城の中を移動できるようになっている。階段の上り下りは多いが、国王の待つ謁見室のすぐそばまで行くこともできる。


 間違っても王族が通るような場所ではないが、その常識もシヴェラには適用されていなかった。むしろ表の通路を通って誰かにその姿を目撃されようものなら、厳しい罰が下る。表の通路を歩いたことなど数えるくらいしかない。逆にこっちの複雑な裏の通路の方が、シヴェラには馴染みがあった。


 すれ違う使用人たちは、シヴェラの姿を見るとぎくりと体を強張こわばらせ、そして道を開けた。シヴェラが通りやすいように、ではない。なるべくシヴェラから距離を取りたいだけなのだ。


 ここでも何度かすれ違いざまに悪態をつかれた。「魔女」「堕神だしんの使い」「まだ生きてたのか」「役立たず」「今年も何人も死んだ」「疫病神やくびょうがみ」と、どれもこれも怨嗟えんさに満ちている。


 シヴェラはそっとドレスの下、首元にある豪華なネックレスに手を添えた。


 魔力を抑えるための魔導具で、自分では外せないようになっている。これがある限り、シヴェラは己の魔力を使えない。だから、シヴェラに恨みを持つのは筋違いだ。


 いくらそうシヴェラが言ったところで、彼らは聞く耳を持たないだろう。彼らにとってシヴェラはむべき存在でしかないのだ。


 シヴェラはぐっと下唇を嚙みながら、黙して通路を進んでいった。


 やがて目当ての場所まで来たシヴェラは、表の通路へと出る扉をそっと開けた。


 衛兵以外誰もいないのを確認してから、静かに扉から滑り出る。ふかふかの絨毯に靴が埋もれる感触がした。


 すぐに衛兵の前へと進み出て、城壁の外の門番に告げたのと同じセリフを口にした。


 衛兵はシヴェラの頭の上から足の先まで視線を走らせると、謁見室の扉を小さく開け、中へとシヴェラの到着を告げた。表情を崩さないのは、さすが王城内で働いてるだけはあり、教育が行き届いている証だ。その目に滲む負の感情だけはやはり隠しようもなかったけれど。


 確認を取った後、衛兵は脇によけた。同時に、扉が中から大きく開かれていく。


 シヴェラは目を伏せたまま、ゆっくりと謁見室へと足を踏み入れる。

 

 国王の座る玉座の前まで進み出ると、先ほどまでよりも気を使ってカーテシーをした。


「シヴェラが王国の太陽であらせられる国王陛下に拝謁いたします」


 姓は名乗らない。シヴェラが王族の姓を名乗ることを国王が嫌っているから。


「久しぶりね、お姉さま・・・・


 視線を上げると、ヴェールの薄いレース越しに、椅子に座る二人の姿が見えた。左は父親である国王、右は妹のアルカレアだった。王妃が座するはずのその椅子は、しかし王妃不在の場合には国王の補佐として王女が座ることが認められている。そして本来であれば第一王女が座るはずなのだが、その常識もまたシヴェラには当てはまらなかった。


 それにしても、アルカレアに姉と呼ばれるのも三年ぶりだ。一体どうなっているのか。


「相変わらずひどい身なりだこと。王女の威厳もなにもあったものじゃないわね」


 シヴェラは再び目を伏せて身を縮こませた。


 格好がひどいのは、品位維持費が割り当てられていないからだ。シヴェラに入るはずの分はアルカレアに渡っている。シヴェラがやらねばならない公務を肩代わりしているのだから当然だ、という論理でもって。


 たとえ予算があったとしても、幽閉されているシヴェラに商人を呼ぶ権限はなく、どうせ使うことも出来ないのだが。


「ちょっと、聞いているの!?」


 シヴェラが何も返答しなかったのにイラついたのか、アルカレアが壇上から降りてきて、ヴェールごとシヴェラの髪を掴んで顔を上げさせた。


「はっ、何度見ても不吉な色の目だわ。その髪も!」


 シヴェラの灰色の目を覗き込んだアルカレアは、掴んだヴェールを床へと払った。途端、ほどけた銀色の髪がはらりと肩に落ちた。


 慌てて膝をついて床のヴェールに手を伸ばしたが、アルカレアはヴェールを踏みつけた。


「だけど、ようやくみ子のお姉さまが役立つ時が来たわ」

「どういうこと……?」


 シヴェラはアルカレアを見、そして玉座の国王を見た。だが国王は、忌々いまいましいとばかりに目を逸らし、シヴェラを見ようとはしない。


「お姉さまはズハラの国王へ輿入こしいれをすることになったの。よかったわね、妃になれるわよ」

「ズハラ? でもそれはアルカレアが――」


 ズハラの国王ザフラーンへはアルカレアが嫁ぐことになっていた。シヴェラはここ最近ずっとそのための婚礼衣装を縫っていたのだ。


 砂漠の大国ズハラはここ十年で勢力を北方へと伸ばし、その手はトヴァルカへをも届きそうになっていた。侵略される前にこちらから打診したのが、和平を目的とした王族同士の婚姻だ。


 シヴェラは、椅子に座り直したアルカレアの、燃えるような赤髪と赤眼を見た。その隣の国王の髪と瞳も赤だ。トヴァルカの王族は鮮やかさこそ異なるものの、みなこうして赤い髪と目を持って生まれてくる。


 それは女神アルカの末裔まつえいの証だ。そしてその血に炎の魔力を宿している。王城内部がこれほどまでに暖かいのは、国王とアルカレアの魔力のお陰で、傍系王族と共に国内の冬の寒さを和らげる役割をもまた担っていた。


 太陽神を信仰するズハラの国王は、太陽を思わせるその容貌ようぼうと炎の魔力に興味を持ち、アルカレアをめとることを了承したのだ。なのに――。


「私の身代わりになれって言ってるの」

「でも私じゃ――」


 シヴェラは生まれつき銀髪だった。目の色も灰色だ。王族にはあり得ない色で、そして堕神だしんイヴェリスを思わせる不吉な色だった。


 シヴェラを産んだ今は亡き王妃は、女神アルカの化身のような姿形のアルカレアを産むまでは、国王や周囲からひどく責められた。


 当の本人であるシヴェラの待遇も悪く、幼い頃から表に出ることを禁じられた。裏の通路に詳しいのはこのためだ。そしてそれは、アルカレアが生まれてからはさらに悪くなった。


 それでもまだ魔力が発現するまではよかったのだ。多少の色味が違おうとも、炎の魔力さえ持っていれば王族として認められるのだから。


 なのに、年下のアルカレアよりも遅れてシヴェラが初めて発現したのは、雪を降らせる魔法だった。


 知らせを聞いた国王は激怒した。すぐさま北の塔へと連れて行かれ、以来三年間、シヴェラは幽閉された。魔力を封じる首輪をつけられて。


 それもそのはず。雪を操るのは堕神の力だ。かつて女神アルカと姉妹神だったイヴェリスは、人間と恋に落ちた妹神に嫉妬し、二人を引き裂こうとして返り討ちに遭って天から堕ちた。今もアルカと人間を恨み、厳しい冬をもたらして復讐を続けているとされている。人間を根絶やしにするまでその憎悪は止まらない、とも。


 だから冬の寒さで餓死者や凍死者まで出すようなこの国では、堕神イヴェリスは忌み嫌われており、その容貌のみならず魔力まで発現してしまったシヴェラは、忌み子以外の何者でもなかった。


 殺されなかったのが不思議ですらある。


 そんな、太陽神とは正反対の形質をもつシヴェラがザフラーンの元へと行けばどうなるか。和平の約束が果たされないどころか、攻め入る口実にしかならないだろう。


「私が嫌なの。あんな蛮族ばんぞくの所に嫁ぐなんて。裸も同然の服装で寝そべって暮らし、複数の妻を娶るのが当然の国なのよ。次は十四番目の妻だそうよ。そんな扱いは絶対に嫌。だからお姉さまが代わりに行ってきて」


 トヴァルカは一夫一妻制だ。不貞は法律でも社会的にも厳しく罰せられる。自分以外の妻がいる環境など、受け入れがたいのは当然だ。


 しかし、そんなことは分かっていて婚姻を打診したのではないのか。


「お姉さまには拒否権はないわ。せっかく王女の地位も剥奪はくだつせずに生きながらえさせてあげたんだから、この国が攻められないように、せいぜい気に入られてちょうだいね。失敗して戦争になったらお姉さまのせいよ」

「そんな……」


 そんなの、無理に決まっている。

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