砂漠の王と氷姫
藤浪保
前編 女神アルカと堕神イヴェリス
バシャッ。
突然顔に冷たい液体が掛かり、シヴェラは寝台から転げ落ちた。
「ぷっ」
声のした方を見れば、侍女が
「早く起きて支度をしな」
「支度って、何の……?」
「国王陛下がお呼びだ」
「陛下が?」
「伝えたからね!」
侍女はそう言い放って部屋を出て行った。
トヴァルカ王国の第一王女シヴェラにとって、国王とはすなわち父親だ。しかし、顔を合わせるのは実に一年ぶりだった。
「なんで急に……」
理由は不明だが、とにかく急がなければならない。昨夜も妹のアルカレアの婚礼衣装を縫っていてほとんど眠れていないが、そんなことは加味してもらえないだろう。
シヴェラは濡れてしまった顔と髪を
髪は後にすることにして、まずは火を起こした。
部屋が暖まるまで待つ余裕はない。シヴェラは夜着を脱ぐと、一人で手早くドレスを身に着けていった。
三年前に
こんな格好で出ていけばまたひどく非難されるだろうが、行かなければ罰を受けるだろう。
氷の溶けた髪を
薄暗い
開いた――。
普段は
シヴェラは扉を押した勢いのまま、外の世界へとまろび出た。
そこは一面の銀世界だった。
降り積もった雪が太陽の光を反射して白く輝いている。
目を細めながら、シヴェラはゆっくりと息を吸った。冷たい空気が肺を満たしていく。カビ臭くない、
背後を振り仰ぐと、澄み渡る青空を背景に、どっしりとした石造りの塔がそびえ立っていた。その最上階が、シヴェラの部屋だ。
「あ……」
つつっと視線を落とし、たった今出てきたばかりの扉の両端に立つ衛兵を見て、シヴェラは小さく声を漏らした。
彼らは警戒と嫌悪と憎悪が入り混じった表情でシヴェラを見ていた。
シヴェラは思わずヴェールを押さえた。しっかりと被っていることを確認すると、衛兵から顔を隠すように身を縮こめ、小さすぎて閉まらないコートの前身ごろを何とか寄せて前方へと向き直った。
降るがままにしてある雪原の中、人ひとりが通れるほどの細い道が雪を踏み固めて作られている。それは前方遠くにある城壁の一端へと続いていた。
シヴェラは一歩、また一歩と雪を踏みしめていく。
ブーツはとっくにサイズが合わなくなっていて、仕方なく夏の革靴を履いている。これだって随分窮屈だが、なんとかまだ履けていた。
靴裏に滑り止めの毛皮は張っていないから、滑って転ばないように注意しなくてはいけないが、幸いにも、夜のうちに降った雪は氷になるほどには踏み固められておらず、シヴェラが歩くたびにギュッギュッと音が鳴った。
露出した足元が寒い。ストッキングは履いているが、夏用の物だ。
城壁へと到達した時には、足元は靴も含めてぐっしょりと濡れていた。靴の窮屈さに冷たさが相まって、つま先の感覚がなくなりそうだ。
「国王陛下に謁見の栄誉を
シヴェラは目を伏せたまま、入口を塞いでいた門番に告げ、優雅にカーテシーをした。
もちろん、王女が一介の門番に対してこのような礼儀を払う必要はない。たとえ相手が騎士団長だったとしても、当然王女の方が地位は上である。
だが、シヴェラに関してはその常識は当てはまらなかった。第一王女という肩書は残されているものの、その実態は、侍女よりも下どころか、ともすれば下働きよりも下に見られるほどなのだ。
門番はすっと槍を引いて道を開けた。シヴェラがここに来ることが事前に伝わっていたのだろう。でなければ拘束され、塔に連れ戻されているところだ。
木戸を開けると、暖かい空気がもわっと流れてきた。一歩踏み入れば、春の
「魔女がっ」
木戸を閉めようとした時、門番の片方がぼそりと呟いた。
とっさに視線を向けたシヴェラと目が合う。憎しみの込められた目は、塔の前の見張りとそっくりだった。
シヴェラは逃げるようにして足を進めた。
今歩いているのは裏の通路だ。王族や王城に勤める貴族たちや訪問客が使う表の通路とは別にあり、使用人が彼らと出くわさずに王城の中を移動できるようになっている。階段の上り下りは多いが、国王の待つ謁見室のすぐそばまで行くこともできる。
間違っても王族が通るような場所ではないが、その常識もシヴェラには適用されない。むしろ表の通路を通って誰かにその姿を目撃されようものなら、厳しい罰が下る。表の通路を歩いたことなど数えるくらいしかなく、逆に複雑な裏の通路の方が、シヴェラには馴染みがあった。
すれ違う使用人たちは、シヴェラの姿を見るとぎくりと体を
ここでも何度かすれ違いざまに悪態をつかれた。「魔女」「
シヴェラはそっとドレスの下、首元にある豪華なネックレスに手を添えた。
みすぼらしい身なりとは不自然なそれは、魔力を抑えるための魔導具で、自分では外せないようになっている。これがある限り、シヴェラは己の魔力を使えない。だから、シヴェラに恨みを持つのは筋違いだ。どれもこれもシヴェラのせいではない。
いくらそうシヴェラが言ったところで、彼らは聞く耳を持たないだろう。彼らにとってシヴェラは
シヴェラはぐっと下唇を嚙みながら、黙して通路を進んでいった。
やがて目当ての場所まで来たシヴェラは、表の通路へと出る扉をそっと開けた。
衛兵以外誰もいないのを確認してから、静かに扉から滑り出る。ふかふかの絨毯に靴が埋もれる感触がした。
すぐに衛兵の前へと進み出て、城壁の外の門番に告げたのと同じセリフを口にした。
衛兵はシヴェラの頭の上から足の先まで視線を走らせると、謁見室の扉を小さく開け、中へとシヴェラの到着を告げた。表情を崩さないのは、さすが王城内で働いてるだけはあり、教育が行き届いている証だ。その目に滲む負の感情だけはやはり隠しようもないが。
確認を取った後、衛兵は脇によけた。同時に、扉が中から大きく開かれていく。
シヴェラは目を伏せたまま、ゆっくりと謁見室へと足を踏み入れる。
国王の座る玉座の前まで進み出ると、先ほどまでよりも気を使ってカーテシーをした。
「シヴェラが王国の太陽であらせられる国王陛下に拝謁いたします」
姓は名乗らない。シヴェラが王族の姓を名乗ることを国王が嫌っているから。
「久しぶりね、
視線を上げると、ヴェールの薄いレース越しに、椅子に座る二人の姿が見えた。左は父親である国王、右は妹のアルカレアだった。王妃が座するはずのその椅子は、しかし王妃不在の場合には、補佐として王女が座ることが認められている。そして本来であれば第一王女が座るはずなのだが、その常識もまたシヴェラには当てはまらなかった。
それにしても、アルカレアに姉と呼ばれるのも三年ぶりだ。一体どうなっているのか。
「相変わらずひどい身なりだこと。王女の威厳もなにもあったものじゃないわね」
シヴェラは再び目を伏せて身を縮こませた。
格好がひどいのは、品位維持費が割り当てられていないからだ。シヴェラに入るはずの分はアルカレアに渡っている。シヴェラがやらねばならない公務を肩代わりしているのだから当然だ、という論理でもって。
たとえ予算があったとしても、シヴェラに商人を呼ぶ権限はないのだが。
「聞いているの!?」
何も返答しなかったのにイラついたのか、アルカレアが壇上から降りてきて、ヴェールごとシヴェラの髪を掴んで顔を上げさせた。
「はっ、何度見ても不吉な色の目だわ。その髪も!」
シヴェラの灰色の目を覗き込んだアルカレアは、掴んだヴェールを床へと払った。途端、ほどけた銀色の髪がはらりと肩に落ちた。
慌てて膝をついて床のヴェールに手を伸ばしたが、アルカレアはヴェールを踏みつけた。
「だけど、ようやく
「どういうこと……?」
シヴェラはアルカレアを見、そして玉座の国王を見た。だが国王は、
「お姉さまはズハラの国王へ
「ズハラ? でもそれはアルカレアが――」
ズハラの国王ザフラーンへはアルカレアが嫁ぐことになっていた。シヴェラはここ最近ずっとそのための婚礼衣装を縫っていたのだ。
砂漠の大国ズハラはここ十年で勢力を北方へと伸ばし、その手はトヴァルカへをも届きそうになっていた。侵略される前にこちらから打診したのが、和平を目的とした王族同士の婚姻だ。
シヴェラは、椅子に座り直したアルカレアの、燃えるような赤髪と赤眼を見た。その隣の国王の髪と瞳も赤だ。トヴァルカの王族は鮮やかさこそ異なるものの、みなこうして赤い髪と目を持って生まれてくる。
それは女神アルカの
太陽神を信仰するズハラの国王は、太陽を思わせるその
「私の身代わりになれって言ってるの」
「でも私じゃ――」
シヴェラは生まれつき銀髪だった。目の色も灰色だ。王族にはあり得ない色で、そして
シヴェラを産んだ今は亡き王妃は、女神アルカの化身のような姿形のアルカレアを産むまでは、国王や周囲からひどく責められた。
当の本人であるシヴェラの待遇も悪く、幼い頃から表に出ることを禁じられた。裏の通路に詳しいのはこのためだ。そしてそれは、アルカレアが生まれてからはさらに悪くなった。
それでもまだ魔力が発現するまではよかったのだ。多少の色味が違おうとも、炎の魔力さえ持っていれば王族として認められるのだから。
なのに、年下のアルカレアよりも遅れてシヴェラが初めて発現したのは、雪を降らせる魔法だった。
知らせを聞いた国王は激怒した。すぐさま北の塔へと連れて行かれ、以来三年間、シヴェラは幽閉された。魔力を封じる首輪をつけられて。
それもそのはず。氷の魔力は堕神の力だ。かつて女神アルカと姉妹神だったイヴェリスは、人間と恋に落ちた妹神に嫉妬し、二人を引き裂こうとして返り討ちに遭い天から堕ちた。今もアルカと人間を恨み、厳しい冬をもたらして復讐を続けているとされている。
だから冬の寒さで餓死者や凍死者まで出すようなこの国では、堕神イヴェリスは忌み嫌われており、その容貌のみならず魔力まで発現してしまったシヴェラは、忌み子以外の何者でもなかった。
殺されなかったのが不思議ですらある。
そんな、太陽神とは正反対の形質をもつシヴェラがザフラーンの元へと行けばどうなるか。和平の約束が果たされないどころか、攻め入る口実にしかならないだろう。
「私が嫌なの。あんな
トヴァルカは一夫一妻制だ。不貞は法律でも社会的にも厳しく罰せられる。自分以外の妻がいる環境など、受け入れがたいのは当然だ。
しかし、そんなことは分かっていて婚姻を打診したのではないのか。
「お姉さまには拒否権はないわ。せっかく王女の地位も
「そんな……」
そんなの、無理に決まっている。
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