第17話

「安寿ちゃん、具合はどう? お医者様が来たから入ってもらうわね」

「はい」


 返事をすると、一拍置いてふすまが開く。洋子さんに続いて入ってきた口髭のお医者さんは、いつも洋子さんがかかっている内科の先生だという。


 先生はわたしの枕元に膝をつき、口を開いた。


「こんにちは、安寿さん。なかなか具合がよくならないんだって? 詳しく調子を教えてもらえるかな」


 ゆっくりと身体を起こして、返事をする。


「はい……。一番きついのは吐き気です。なんだか……身体の中を何かがぐるぐるして、酔っているような感じです。その次が、倦怠感でしょうか。手足に力が入らなくて、お手洗いに行くのがやっとです」

「熱は?」

「三十八度ちょっとです」

「なるほど。じゃあ、胸の音を聞いたり血圧を測ったりするね。楽にしていて」

「はい」


 ――一通りの診察を終えて分かったのは、どこも悪くないということだった。さらさらと処方箋を書きながら先生は告げる。


「ショックな出来事があったから、一時的に身体もびっくりしちゃってるのかもしれないね。吐き気には胃薬、倦怠感には漢方を出しておくから。あと、一応解熱薬もね」

「わたしは薬局で薬をもらってくるわ。安寿ちゃんは引き続き寝てなさいね」

「すみません。ありがとうございました……」


 お礼を言うと、先生と洋子さんは連れだって部屋を後にした。

 わたしは再び布団に横になり、タオルケットを胸まで引き上げる。


「どこも悪くない。かぁ」


 先生の言う通り、あの晩の出来事がショックすぎて体調を崩しているのだろうか。

 ただ、それにしては長引いているようにも思う。なにしろもう一週間近く経っているのだから。

 そのうえ、症状は日に日に悪くなっている。普通だったら、時間の経過と共に良くなるような気がするんだけど――。


 引っかかることはあるけれど、先生がそういう見立てならば、きっとそういうものなのだろう。そう自分を納得させる。わたしにできることは薬を飲み、なるべく安静にしていることだ。


 伏せっている間、小桃ちゃんがお見舞いに来てくれた。「それにしても、安寿と風丸がねぇ」なんて言って、なぜか洋子さんと全く同じにやにや顔をしていた。持って来てくれた大きなスイカはとびきりみずみずしくて、熱を帯びた身体にすっと染み込んでいった。

 小桃ちゃんと洋子さんはおしゃべり好きで、気が合ったようだった。わたしの部屋を出た後も、二人が台所で会話に花を咲かせる楽しげな声が聞こえていた。


 その晩小桃ちゃんから「学校での出来事、洋子さんに話しておいたから」とメッセージアプリで連絡が来た。

 体調不良が続いているから、結局いじめられていることについて、まだ洋子さんに話せていなかったのだ。

 胸に鉛が詰まったような感覚になったものの、かわりに小桃ちゃんが話してくれて、どこか安堵している自分もいたのが不思議だった。


 ◇


 さらに一週間が経った。

 わたしの体調はさらに悪くなり、ついにおかしな夢まで見るようになっていた。

 夢の中で誰かが「助けて」「寂しい」などと、苦しげな声を上げ続けている。普段は全く夢を見ないので、これは地味に堪えた。おかげで寝ることもままならなくなっていた。


 再び往診に来てくれた先生が言うことには、やっぱり身体に異常はないそうなのだけど。ふすまの向こうで「検査入院をすることも検討しましょう」と、洋子さんに話している声が耳に入った。


 いったいわたしの身体はどうなってしまったのか。丈夫さだけが取り柄だったのに、それすら失ってしまったのかしら? そうなると、いよいよわたしには何の価値もない。夏休みでお店が忙しいなか、わたしの看病もしてくれる洋子さんに申し訳なさ過ぎて、今すぐにでも入院したいと思った。


 その晩は、先生が処方してくれた睡眠剤を飲んでから目をつむった。せめてよく眠ることができれば、具合も上向くのではないか――? そう、藁にも縋る思いだった。


 ◇


『……寂しい……ここは暗い……助けて…………』


 真っ暗闇の中、うめくような男性の声。

 またこの夢だ。もう何回もみているから、反射的にそう理解する。しかし、不思議と意識は覚醒できない。

 この夢はいつも同じ終わり方をする。暗闇からにゅっと白い手が伸びてきて、わたしの首に触れて――そこで初めて意識が解放されるのだ。


『暗い……戻りたい…………』


 声の主は、苦しんでいるみたいだった。毎回、自分の置かれた状況を嘆くような台詞を言っている。

 自分自身の夢に対しておかしなことではあるけれど、わたしはその名もなき彼に小さな同情心を覚えるようになっていた。彼のうめき声は、かつてわたしが魔女の里で感じていた感情まさしくそのものだったから。

 魔力がないことで家族からのけ者にされ、ろくに食事も与えられず、ずっと狭くて暗い蔵に閉じ込められていた。屋敷から逃げ出せば石を投げつけられ、すぐに捕まった。誰か助けて、怖い、寂しい。そう叫んでいた時代があった。でも、誰一人として助けてくれないことを理解し、いつしか声を上げることを諦めた。


 夢に出てくるこの人も、同じ思いをしているのだと思ったら。わたしはもう、黙っていられなかった。


『あの。……辛いんですか?』


 深い意識の中で、名もなき彼に問いかけた。


『…………』


 うめき声はぴたりと止んだ。しかし、返事はない。


『辛いのなら、わたしとお話しませんか? わたしは何の取り柄もないんですけれど、お話を聞くぐらいならできますので……』

『……僕に呼びかけているの?』


 応答があり、ドキッとする。呼びかけたとはいえ、これは単なる夢。返事があるとは思っていなかった。

 返事をしたその声に苦しみの色はなく、同世代か少し年上くらいの声のトーンをしていることに気づく。


『はっ、はい。あなたに話しかけています』

『……ふふっ。僕のことを見つけてくれたんだね! 今そっちに行くから!』

『えっ、行くって……?』


 声の主は、一転してひどく嬉しそうな調子だった。そのうえ、今からこちらに来るという。これはわたしの脳内が作り出しているもののはずなのに、妙にリアルな展開になってきた。

 わたしはこのまま待っていたらいいのだろうか。なにもない、真っ暗な空間に自分の意識だけがある。


 ――と、急にふわふわと意識が浮上していく。夢から覚める、そう感じた。今日の夢はここで終わりか。いつもの終わり方と違うけど、こういうパターンもあるのね。悪夢という感じではなく、不快感もない。ちょっとお水を飲んでまた布団に入れば、再び寝られそうな気がする。


 完全に意識が浮上し、ぱちりと目を開ける。


「アンジュ様! また会えてうれしいよ!」


 ――目に入ったのは。超至近距離でわたしの顔をのぞき込む、海のように青い瞳だった。

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