第13話

 ほどなく運ばれてきたパスタを食べて、少しおしゃべりをして。店を出たわたしたちは駅の向こう側――東口方面に向かった。そこが鎌倉の一番栄えているエリアなのだと、風丸くんは教えてくれた。


「鶴岡八幡宮」という大きな赤い鳥居のある神社を見に行ったり、「小町通り」という商店街でお茶休憩をしたり。すべて彼のガイドに頼ってしまって申し訳ない気持ちもあったけれど、魔女の里と江ノ島という限られた世界にいたことがもったいなく感じるくらいには、様々なものを見て、体験することができた。

 それは、普段の日常とはすごくかけ離れた時間で――終始、ふわふわした気持ちで彼の後をついて回っていた。


 周囲が暗くなってきたころに彼と解散して、また江ノ電に乗って江の島へと戻った。


 ◇


 島の入り口付近のお店は賑やかだったけれど、魚心亭のある島の頂上付近はすでに静かになっていた。ぽつりぽつりと立っている白い電灯には羽虫や蛾が集い、うっそうと茂る木々の間からは鈴虫の穏やかな鳴き声が響く。


 島の入り口から続く長い坂を上りきると、魚心亭だ。食堂と住居を兼ねた家の前ではあと息をつき、タオルで汗をぬぐう。

 店の灯りは消えているので、もう締め作業も終わっているのだろう。


「ただいま帰りました」


 住居側の玄関から家に入り、灯りが漏れている台所をのぞく。

 中では洋子さんが夕食をとっているところだった。


「おかえりなさい。思ったより早かったのね。夜ごはんは?」

「まだですけど、その、大丈夫です。小町通りというところでたくさん買い食いしてしまったので、お腹いっぱいで……」


 はち切れそうなお腹を抱えて呻く。

 洋子さんの美味しい飯を食べられないのはすごく残念だ。だけど、どう考えてもこれ以上はお腹に入らない。


「あらあら。鎌倉に行ってきたのね。楽しんできたみたいで何よりだわ」


 にこにこしながら、わたしを見つめる洋子さん。


「……はい。楽しかった、です」

「それはよかったわ」


 引き続き、にこにこ顔でわたしを見つめる洋子さん。机に肘をついて両手で頬を挟み、なんだかとても楽しそうだ。

 ――今日のことを、詳しく話したほうがいいのかな? でも子どもじゃないんだし、変な気もする……。


 今日の一連の出来事を思い出して言葉に詰まっていると、洋子さんは右手を振って立ち上がった。


「ふふっ、ごめんね。困らせちゃったかしら。いいのよ、話さなくて。安寿ちゃんのそのお顔が全部教えてくれたから」

「えっ!? か、顔が……?」


 慌てて顔をぺたぺた触ってみるも、まったく意味がわからない。言葉にしなくても頭の中身がわかるなんて、まるで魔法みたいだ。でも洋子さんは魔女じゃないから、そんなことができるはずはないのだけれど――?


 混乱するわたしに構わず洋子さんは席を立ち、流しに食器を運ぶ。


「ああ、そういえば明日から夏休みよね。あのね、申し訳ないんだけれど、少しでもいいからお店を手伝ってくれるとすごく助かるの」

「もちろんです! 明日から毎日働くつもりですから、安心してください」

「ごめんね、ありがとう。もちろん、お友達と予定が入ったらそっちを優先してちょうだいね。人を雇えばいいんだけれど、小さな食堂だから、あんまり余裕もなくってね……」


 食器を洗う洋子さんの背中が、なぜかいつもより小さく見えた。


 旦那さんと離婚して、実家であるこの魚心亭に戻ったのは五年前だと聞いた。洋子さんが戻ってきて数か月後に、大女将――洋子さんのお母さんは亡くなったという。不慣れな店仕事に売り上げは悪化。当時雇っていた従業員は厨房の治郎さんを残して皆いなくなってしまったそうだ。


 それ以来、洋子さんは治郎さんと二人三脚で店を切り盛りしている。五年前に比べたら売り上げは戻ってきているものの、今も決して余裕があるとはいえない状況。――ということを、ここに来たばかりの時、治郎さんがこっそり教えてくれた。


 わたしの生活にかかる諸々は魔女の里との契約に含まれているはずだから、恐らくそこは負担をかけていないと思う。でも、見ず知らずのひとを家に受け入れるのは、やっぱり相応の気苦労があるはずだ。

 そんな面を一切見せず優しく接してくれ、美味しい食事まで出してくれるのだから、わたしは洋子さんの役に立ちたいといつも思っている。注文を取って食事を運ぶくらいならできるから、それでよければいくらでも働きたい。


「わたし、洋子さんと治郎さんが大好きなんです。もちろん魚心亭も。だから役に立ちたいんです」

「安寿ちゃん。……ありがとうね」


 こちらを振り返ることなく、洋子さんは言った。その声はいつもより小さいように思えたけれど――台所から流れる水の音で、相対的にそう感じただけかもしれない。


「……じゃあ、わたしは部屋に行きますね。――おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 気の利いたことを言えるわけでもない自分を不甲斐なく思いながら、わたしは台所を後にした。

 二階の自室に戻ると、畳の香ばしい香りがわたしを迎えてくれた。箒づくりと同じように、こういう「干し草」のにおいに落ち着くのは、魔女の血なのかもしれない。魔力が無いのに、なんだか皮肉なものだと思う。


 まずは制服を着替える。炎天下で歩き回ったから、インナーのキャミソールはへたっていた。ブラとパンツ一枚になり、衣装ケースからTシャツとショートパンツを探す。


「……ううっ、やっぱりブラも気持ち悪いわね」


 日本の下着は高性能高品質だけれど、夏場はブラも意外と蒸れる。替えの下着も引っ張り出して、結局全身を着替えた。新しいシャツとショートパンツはさらっと乾いていて気持ちがよく、通気性もいい。一気に快適になった。


 カーテンを引き、窓を開けると、心地よい海風が全身を撫でてゆく。海も空も真っ暗で、波が穏やかにさざめく音だけがそこにある。

 窓の桟に肘をついて目を閉じると、心の中が凪いでいくように感じる。一日の終わりのこの時間が、わたしは好きだった。


「……今日は箒を作らないで寝ようかな。明日から夏休みだし、いくらでも時間はとれるもの」


 いつもなら、このあと物置小屋に行くのだけれど。慣れないことをしたせいか、もう眠い。炎天下を歩き回ったので疲労も感じている。

 しかしそれはとても居心地のよい感覚であることに、少しの驚きを見つける。嫌なことをされたり、我慢を重ねてたりして感じるそれとは、まったく質が異なっていた。


 心地よいまどろみのような感覚に、しばらく身を任せる。

 こんな穏やかな気持ちで日々を過ごせたらいいな――。ぼんやりと、そう思った。


 翌日の今頃はどん底の気持ちになっていることなど、この時のわたしは露ほどにも思っていなかったのだった。

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