第12話
「じっ、ジュースが六百円もします!!」
その言葉を聞いた風丸くんは、ぶっと吹き出した。店員さんが置いて行ってくれたお水を、ちょうど口に含んだところだった。
「お前……そこかよ!?」
急いでハンカチを取り出し、顔を赤くして叫ぶ風丸くん。
「あ、いえ……。すみません。ちょっと驚いちゃって。だってうちのお店では……あ、わたしの下宿先は食堂なんですけど。そこではコーラが百五十円で飲めるんですよ」
「まあ、ここは立地もいいし、いろいろ凝ってる店だから。こんぐらいするのは普通だろ」
「はあ、そうなんですか……」
その言葉に、再びメニュー表に目を落とす。そこに書かれているのは「丸しぼりグレープフルーツジュース」「イギリス直輸入アールグレイティー」「自家製ジンジャエール」などといったものだ、確かに魚心亭に置いている瓶ジュースよりもこだわりが感じられた。
それにしても、ジュースが六百円するならば食事はいくらするの? お財布の中身に心細さを覚えつつ、食事のメニューに視線を移す。
そちらは思っていたよりリーズナブルなものが並んでいた。一番安いパスタは九百八十円で食べられる。
「あ。じゃあ、わたしはグレープフルーツジュースと、森のきのこパスタにします」
そう言って、風丸くんにメニュー表を渡す。
彼はそれを受け取り、パッと目を走らせる。そして、すぐに店員さんを呼んだ。
「グレープフルーツジュースと、森のきのこパスタ。それから、アイスコーヒーと鎌倉野菜のパスタをお願いします」
「かしこまりました。お飲み物はすぐにお持ちしてよろしいでしょうか?」
「大丈夫?」
彼がこちらを見たので、こくこくと首を縦に振る。
「先でお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
店員さんはにこやかにオーダーをとり、去っていった。
「……っていうか、小早川って下宿してたんだな」
こちらに向き直った風丸くんが呟いた。
「そうなんです。親戚の叔母さんのところに」
魔女になるための修行で、とは言えない。
洋子さんと共有している人間界用の設定はこうだ。わたしに母親はおらず、父親は海外赴任中。そのため叔母である洋子さんのところから高校に通っている。高校卒業とほぼ同時に修行は終わるため、そのあとは父親のところへ行ったということにしてもらう予定だ。
「そうなんだ」
「はい……」
修行は残り一年半。そのあとのことについては、何も決まっていない。
修行を終えたからと言って魔力が発生するわけではない。形式的に魔女と名乗れるようになるだけだ。なんの取り柄もなく、国に居場所がないわたしは、どうやって生きていけばいいのだろう……。
このことを考えると、いつも暗い気持ちになる。時間が後戻りをすることはないし、時を止められるのは世界に数人しかいない大魔法使いぐらい。修行終了までのタイムリミットは、今この瞬間も刻々とカウントされている。
思わず、ため息が漏れて出た。
ほとんど同時に、はっと息を呑むような音が聞こえた気がした。
「……あー。ごめん」
風丸くんの悲しそうな声で、わたしの意識は引き戻される。
「俺といてもつまらないよな。本当は、しゃべるのはあんまり得意じゃないんだ」
「えっ?」
顔を上げると、彼は薄い唇の端を歪め、困ったような顔をしていた。
その表情を見て、わたしは自分の無礼に気が付いた。一方的に考え込み、知らず知らずのうちにため息までついてしまっていた。
どっと焦りが湧いて出る。
「すっ、すみません! 風丸くんといるのがつまらないんじゃなくて、ちょっと嫌なことを思い出しただけなんです! 一緒にいるのに違うことを考えるなんて、すごく失礼でした。ごめんなさい」
「……ほんとうに?」
沈んだ声だけど、疑いよりも、彼はわたしを信じようとしてくれているように――希望を見出そうとしているように聞こえた。
「はい。もちろんです。むしろわたしこそ……しゃべるのは苦手で。風丸くんに気を使わせちゃってますよね」
ここまでの道中、彼はたくさん話しかけてくれた。けれど、わたしはそれに一言二言返すだけで、気の利いた返事は何一つできていない。
里にいたときは誰とも会話がなかったし、こちらに来てからも洋子さんと小桃ちゃん、たまにの治郎さんとしか話さない。そもそも会話の経験が少ないのに、そのうえ男性ともなれば、もうどうしたらよいのか分からないのだった。父親以外でかかわる男性としては治郎さんに次いで二人目、同年代では初めてなのだから。
「俺は……楽しいけど」
ぎりぎり聞こえるぐらいの小さな声で、風丸くんは言った。
「風丸くんは、楽しいんですか」
驚いたわたしは、その言葉を繰り返した。一緒にいて楽しいなど、生まれて初めて言われた。
俯いた彼の顔は、ウエーブした長い前髪で隠れてしまっていて、表情をうかがい知ることはできない。
けれども、少し除いている耳は、なぜか真っ赤に染まっていた。まだ歩いてきた暑さが抜けていないのかもしれない、と思った。
『わたしと居て楽しい』。にわかには信じられないようなことだけれど……こうして面と言われると、どこかくすぐったくて、恥ずかしいような心地になる。彼のことはよく知らないけれど、悪い人ではないという確信は芽生えつつあった。
「お待たせしました。お飲み物をお持ちしました」
「あっ、ありがとうございますっっ!!」
ビクッと身体が揺れて、思わず変な声が出てしまった。
氷がたっぷり入ったグラスを手にとり、さっそくストローに口をつける。柑橘の酸味とほろ苦さが、口いっぱいに広がった。
風丸くんは、自分のアイスコーヒーには手を付けず、じっとわたしを見ていた。不思議に思っていると、彼は何回かためらいをみせたのち、恐る恐るといった感じで口を開いた。
「……あのさ。もし小早川が嫌じゃなかったら。このあと、ちょっと鎌倉をぶらつかない? 駅の向こう側にはお店とかお寺がたくさんあるんだ」
ご飯だけじゃなくて、そのあとも……? 彼の言葉を聞いて最初に感じたのは、戸惑いだった。
こんなわたしと長時間一緒にいて、本当に大丈夫なんだろうか。男の人と街をぶらつくなんてしたことがないし、今は楽しいと言ってくれても、すぐに飽きてしまうんじゃないだろうか……。いろいろな不安が胸に渦巻く。
けれども、ふと洋子さんの言葉が脳裏によぎった。――『その日は彼の言うことに従って、楽しんでらっしゃい』。それが、風丸くんという人間を理解することになると。
ポケットに入れたスマホを確認すると、メッセージアプリに一件通知が入っている。タップして確認すると、やはり洋子さんからだった。
学校を出るときに送った内容の返信で、「わかったわ。素敵な時間を過ごしてね」という文章だった。
――素敵な時間。果たしてそうなれるかはわからないけれど――。
そうなればいいな、というささやかな希望は確かにあった。初めてのクラスメイトとの外出に、初めての町。冒険に出ているような、特別キラキラした気持ちの欠片が、わたしの心には散りばめられていた。
緊張しているような面持ちの風丸くんに向かって返事をする。
「はい。わたしでよければ行きましょう」
「マジで!? うわあ、やった!」
その瞬間、彼の目がぱあっと輝いた。
そして、わたしの胸には温かいものが広がった。
――修行が終わるまで、あと一年半。少しはこういったことをしてみてもいいのかもしれない。
友達、と呼ぶのは恐れ多いけれど。わたしは彼のことを、単純にもっとよく知りたいと思った。
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