第9話

「これはまずいわ。ああ、どうしよう……」 


 夏休みまであと一日。

 そんな木曜日のお昼に、わたしは頭を抱えていた。


 昼休み明けの授業は体育。昼食を食べ終えたから、少し早いけれど着替えてしまおうと思ってロッカーに体操服を取りに行った。けれども、ロッカーにはあるはずの体操服がなかったのである。


 まあ、ここまではいい。上履きと同じように、わたしのものが忽然と姿を消すことは珍しいことじゃない。そして、たいていの場合はそのあたりを探せば出てくるから、大事にならないで済む。


 ただ今回は――。

 空き教室から見つけた体操服を手に、ため息をつく。「小早川」と胸のところに書かれた体操服には、赤いペンで大きくバツ印がついていた。


 授業の開始まであと十五分しかない。急いで洗いに来たものの、ペンはなかなか落ちない。どう考えても、授業開始には間に合わない。

 長い息を吐いて、目を閉じる。


「……仕方ない。体育は見学しよう」


 ちくり、と胸の奥が痛む。ゆっくりとまぶたを上げて、蛇口から体操服へと流れ落ちる水をぼんやりと目で追う。

 ものを隠されて授業に支障が出るのは初めてだった。魔女の里で教育を受けられなかったわたしにとって、学校の授業はすごく大切なもの。そこには踏み込んでほしくなかったなと、心が暗く沈む。


 水しぶきの音が胸のざわめきと混ざり、仄暗い不安を掻き立てた。


 ――もしいじめがエスカレートしたら、里にいた時と大差ない暮らしになるんじゃないか? 結局わたしは、どこに行っても無価値のままで、不必要な存在なんじゃないか? そう思うと、背筋がぞっとした。


(――いや、大丈夫。ここには洋子さんと小桃ちゃんがいるもの。しめじだっている。あの頃より悪くなることはあり得ないわ)


 頭と心を支配しようとする黒いものを、必死で振り払う。


 ――トイレの外が騒がしい。クラスメイト達が教室移動を始めたみたいだ。

 もう時間だ。わたしも体育館に行かなくちゃ。


「魚心亭に帰ったら洗剤をつけて洗いましょう……」


 びしょびしょの体操服をビニールに戻して、わたしはトイレを後にした。


 ◇


 体調不良ということにして、先生に見学の許可をもらった。

 体育館のステージの上から、バスケットをするみんなを眺める。


「……あ、小桃ちゃんだ」


 体育の授業は二クラス合同でやっている。目の前のコートで試合をしているのは、小桃ちゃんのクラスだ。

 茶色に染めた髪をポニーテールに結わえた小桃ちゃん。髪ゴムにはきらきらと光る飾りがついていて、遠目にも華やか。さすが、体育の授業でもおしゃれに抜かりはない。

 小桃ちゃんは小柄な体格を生かして、ちょこちょこと走り回ってパスをもらっている。ドリブルのたどたどしい感じが可愛らしくて、見ていると思わず笑顔になってしまう。


 ――と、奥のコートから歓声が上がった。わたしのクラスの男の子たちが試合をしているところだ。

 ネットを通ったボールが床に落ちる。かなり離れたところでシュートフォームを残しているのは、風丸くんだった。

 得点が入ったことにより、攻守が交代する。クラスの男の子たちはディフェンスをするために自分のゴールへと走って戻る。エンドラインからパスを出す相手チーム。そのままコートの真ん中のあたりまでボールを運ぶ。スリーポイントラインの外側でパスを回して――その軌道上に、誰かが飛び出した。


「風丸くんだ……!」


 風丸くんは相手のパスをカットして、そのままドリブルしながらコートを疾走する。シューズと床が擦れる高い音が、その速さを物語る。

 ドン、ドン、と一際強くボールが床を打ったあと。まるで空を飛ぶかのような身軽さで、二歩ステップを踏む。そして彼の長い指先から離れたボールは、ふわりとゴールに吸い込まれていった――。


「すごい……っ!」


 あっという間の出来事だった。

 すごいことをやったように見えたけれど、シュートを決めた風丸くんは平然としている。目にかかった前髪を鬱陶しそうにかき上げ、駆け寄ってきたチームメイトに気がつくとハイタッチをする。

 そして、白い運動着の襟元で汗を拭きながら、ちらりとわたしの方を見た。


「…………?」


 目が合ったように、思えたけれど。

 実のところ、わたしはかつて暗い蔵で本を読みすぎたあまりに、視力があまりよくない。

 風丸くんがわたしなんかを見るはずがないから、気のせいだろうと思った。


 それにしても、バスケット部のエースというだけあって、風丸くんはほんとうに上手だ。コートの外にはクラス内外の女の子数名が見学していて、風丸くんのシュートが決まると歓声を上げ、時々ちらりと見える腹筋に悲鳴を上げたりしている。


「ほんとうに人気なのね……」


 見た目もよく、運動もできる。さらに風丸くんは成績もよかったはずだ。非の打ちどころがないというのはこのことだろう。


 魔の里には基本的に女性しかいない。例外は魔女の婿に来た男性でつまりは既婚者だ。魔女の血によって子どもは必ず女児が生まれる。

 そんな女だらけの環境で育ったからか、あるいは人生の半分以上を幽閉されていたからか、わたしは恋愛というものがよくわからない。だけど、優秀な男性が人気になるというのは理解できる。


 ――次に風丸くんから「今日は部活がない」と言われたら、「わたしもこのあと予定はない」と返事をすることになっている。そのことを思い出すと、どこか気恥ずかしい気持ちになった。

 完璧な風丸くんと違って、わたしは欠陥だらけ。魔女としての能力もないし、いじめられているし、成績も中くらいだ。彼から話しかけられる理由が一つも思いつかない。


 だけど。理解できないというのは、わたしが彼のことをよく知らないからだ。風丸くんという人間をよく知ることが大切なのだと、洋子さんは教えてくれた。


 いったいいつになるかなあと考えながら、小桃ちゃんの試合に視線を戻す。もしかしたら、もう二度とお声は掛からないかもしれない。そうであれば嬉しいけれど、でも、少しだけ寂しい気もした。

 

 ――けれども、その日は思ったより早くやってきたのだった。

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