第8話

 プリンを食べ終えて、自分の食器を片付けたあと。わたしは図書館で借りた本を持って物置小屋に向かった。

 宵闇の庭に出ると、むわっと湿気を帯びた暑さが身体にまとわりつく。けれども、昼間ほどの不快感はない。頬をなでる海風が心地よく、Tシャツとショートパンツでちょうどいいくらいの気温だ。


 物置小屋の前ではしめじがお座りしていた。まるでわたしが来ることを分かっていたかのように。


「しめじ、こんばんは。待っていてくれたの? ふふ、ありがとね」

「わんわんっ!」


 彼女の頭をなでて、「いい子ね」と声をかける。物置小屋の戸を開放して、まずは熱がこもっている小屋内を換気する。


「まだ中は暑いから、ちょっと待ってね」

「わふっ」


 芝生に座ると、しめじも隣にお座りした。くるんとカーブした尻尾を左右に振っていて、すごく可愛い。


 彼女の頭をよしよししながら、ふと思う。

 動物は素直だ。嫌いなものは嫌いだし、好きなものは好き。一緒にいたければ一緒にいるし、嫌ならば群れから離れて一匹で暮らす。そこに打算や世間体などなくて、常に一つの物差しで生きている。弱肉強食という厳しいルールはあるかもしれないけれど、それは実に単純明快で、自然の理にもかなっているものだ。

 複雑な感情が絡み合い、自分ではどうにもならない理不尽に翻弄される幽世や人間の世界よりはるかに単純で美しい。


「ねえしめじ。生きる意味ってなんだろうね? この頃、よく考えてしまうの。修行生活も残り半分になっちゃったし、学校では進路調査があったりしてね。わたしはどうしたらいいんだろうって考えるんだけど、なにも思い浮かばなくて」

「……くぅ~ん」

「小桃ちゃんは美容師になりたいんだって。小桃ちゃんはおしゃれだし、おしゃべりも面白いから、ぴったりだと思う」


 しめじの柔らかい背中を撫でながら、夜空を見上げる。江の島の端にある魚心亭付近にそれを遮るものは何もなく、降ってきそうな満点の星空が広がっている。


 「星の世界にもしがらみはなさそうだなぁ……」


 じっとまたたきながら、下界を見守る存在。人間や魔女たちに渦巻く黒いものを、彼らはどんな思いで見つめているのだろう。箒に乗れたならもっと近くに行けるのに、それはわたしにとって叶わぬ夢だ。


 はあ、とため息が出る。魔女の象徴でもある、空飛ぶ箒。わたしは作ることはできても飛ぶことはできない。魔女でもなく人間でもないわたしは、いったい将来にどんな希望を抱けばいいのだろう。


 確認すると、物置小屋内の熱は逃げていた。持ってきた本を手に、中に入る。


 狭くて静かなここは、すごく落ち着く。魔女の血のせいか、乾燥エニシダの香りも心地よく感じる。一年五か月前ここに来たとき、自分の部屋はいらない、物置小屋だけで十分だと言ったくらいだ。その意見は洋子さんによって即座に却下されたけれど。


 今日は箒を作る前に、借りてきた本を読むつもりだ。「山椒大夫」という小説で、日本に伝わる童話をもとに書かれたお話なんだとか。洋子さんもイチ押ししていて、「安寿ちゃんと同じ名前の女の子が出てくるのよ」と教えてくれた。

 座布団を枕にしてごろりと横になる。顔の横には解放された扉があり、海風がそよそよと入ってくる。かすかに聞こえる波のさざめきに身を任せ、わたしは本の世界へ落ちていった。


 ◇


「おはよー安寿! 今日も暑くて嫌になるね。って、あんた隈がすごいけど!? どうしちゃったのよ!?」

「小桃ちゃん。おはよう。これは、ちょっと夜更かししちゃって……」


 昨夜読み始めた「山椒大夫」に引き込まれてしまって、あと少し、もう少しだけ、と読み進めていたら、すっかり寝るのが遅くなってしまったのだった。登場人物の悲運は涙なしには見られず、自分と同じ名前ということもあってすっかり感情移入してしまった。


「また読書? 好きだね~。寝不足はお肌の大敵よ? それに、暑いんだからちゃんと寝ないと倒れちゃうからね?」

「う、うん。気を付けるね」


 小桃ちゃんが心配をしてくれた。もちろん気をつけないといけないけれど、たぶん大丈夫。なにしろわたしは故郷でひどい扱いを受けてきても風邪ひとつ引かなかったぐらいで、身体の丈夫さだけは人並みに以上にあるから。

 お父さんが鬼だというのが体の強さに関係しているのかもしれない。


 蝉の焦れるような鳴き声が、海の上に響き渡る。

 照りつける日射しに目を細めながら学校を目指す。


「安寿は夏休みなにするの?」


 花柄の日傘の下から、小桃ちゃんの声が聞こえた。

 学校は今週の金曜日で終わり。終了式のあとは、八月末まで夏休みになる。


「お店の手伝いかなあ」

「……それだけ?」

「うん。他にやりたいこともないから……」

「あんたねえ! ……って言いたいところだけど。あたしも同じような感じだわ。夏休みは観光客がいっぱい来るからね。ま、バイト代くれるって言うから我慢するけどさ~」


 江ノ島は、夏は海水浴やサーフィンのついでに訪れる人が多く、冬は島内のイルミネーションを目当てに訪れる人が多い。そのため、島内のお店もその時期が繁忙期となる。

 小桃ちゃんは夏休みと冬休みにおうちのお土産屋さんを手伝うことによって、日頃の韓流活動の資金を得ているというわけだ。


 わたしにも、「お手伝いのお礼よ」と洋子さんがお小遣いをくれるのだけど。使うあてがないから、全て机の引き出しにしまったまま。

 ちなみにわたしの修行にともなう諸々の費用は、魚心亭と魔女の里とで取り決めがあるようで、なにも気にしないでいいと言ってくれている。


「それにしても、暑すぎでしょ。お化粧が崩れちゃう。早くバスに乗りたいわぁ」

「だね」


 朝のニュースによれば、今日の藤沢市は最高気温三十八度。今年一番の暑さを更新する予定らしい。健康だけが取り柄のわたしでも、少ない口数がいっそう少なくなるぐらいのお天気だ。


 うだるような暑さにあてられて、そのあとわたしたちは学校に着くまで無言だった。

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