第7話

 下宿先の魚心亭に帰り着いたのは、十八時過ぎだった。

 観光地とはいえ、平日のこの時間はお客さんもまばら。お店の入り口とは別にある玄関から入って、鞄を自室に置く。制服の上にエプロンを着けて急ぎお店に移動したものの、洋子さんと治郎さんは暇そうにしていた。


「ただいま帰りました」

「安寿ちゃん。おかえりなさい。見てのとおりよ、暇なの。わたしと治郎ちゃんで回せるから、あなたはいいわよ」


 早くもレジ締めの準備を始めているあたり、本当にやることはないのだろう。治郎さんに至っては、厨房の隅でまかないを食べ始めている。


「……いいんでしょうか?」

「ええ、全然気にしないで。宿題もあるでしょ? むしろ、いつも手伝ってもらっちゃって悪いわね」

「いえ。置いていただいているだけでありがたいので、お手伝いぐらいさせてください」

「ほんとうに出来た子ねえ。店の手伝いはね、土日にしてくれるだけでも十分助かってるの。放課後お友達と遊びに行ったっていいんだから、急いで帰ってこなくても大丈夫なのよ?」


 にっこり笑う洋子さん。最初に四十代と聞いていたけれど、三十代前半と言っても通じるような若々しさだ。そのうえ同性のわたしでも分かるくらいの色気があるのだから、華が咲いたような笑顔には思わず見とれてしまう。

 日本では、実年齢よりはるかに若く見える女性のことを「美魔女」と言うみたいで。治郎さんからそう教えてもらった時は、なるほど魔法のようだなと感心してしまったくらいだ。


「――あ。すみません洋子さん、お店が終わったあと、ちょっと教えてほしいことがあるんです」


 はっと風丸くんのことを思い出して、忘れないうちに洋子さんにお願いする。


「なにかしら? 別に、今でもいいわよ」

「……ゆっくりお話を聞きたいので、あとでもいいですか」

「ええ、それはもちろんだけど」


 不思議そうな顔をして、首をかしげる洋子さん。

 親切な洋子さんを困らせたくはないけれど、これ以上風丸くんをイライラさせるのも申し訳ないと思う。二人に迷惑をかけてしまっているのは自分に理解力がないからで、本当に嫌になる。


「……宿題、やってきます」

「ええ、いってらっしゃい」


 自室に戻り、木製の勉強机に向かう。これは昔洋子さんが使っていたものだ。机にいくつも張られたキャラクターシールに、学生時代の洋子さんはきっと人気者だったんだろうなあと、ふと思った。

 そっと指先でシールをなぞる。破れたり印字がかすれたりしていて、月日の経過を物語っていた。


「――さ。閉店までに終わらせちゃおう」


 誰に言うでもなく呟き、宿題に取り掛かった。


 ◇


 宿題を終えて、制服からTシャツとショートパンツに着替える。一階に降りると、洋子さんがテレビを見ながら夕飯を食べていた。わたしの姿に気づいた洋子さんが、にこっと笑う。


「先にいただいてるわ。安寿ちゃんのぶんはこれね」

「すみません。……しらす丼ですね。美味しそう」


 洋子さんのすぐ隣に置いてある、ラップがかけられたどんぶりを手に取る。

 しらす丼は江ノ島の名物で、魚心亭のイチ押しメニューでもある。お客さんにおすすめを聞かれたときは、「相模湾で水揚げされたしらすをたっぷり乗せたしらす丼がおすすめです。大葉と生姜を少しつけて召し上がると一層美味しいですよ」と答えるのだ。


「店の残り物で悪いわね」

「いえそんな。十分すぎるくらいです。お店だと千円しますし」

「ふふっ、そう考えると贅沢ねえ」


 故郷では、家族の残飯を食べるのが普通だった。むしろ残飯があればいいほうで、なにもない時もままあった。

 だから、ここに来て最初に「残り物で悪いわね」という言葉を聞いたときは身を固くしたのだけれど。洋子さんの言う残り物というのは残飯ではなく、お店で余った食材を食べることだった。十分に美味しいし、量もある。なにより洋子さんも同じものを食べているので、ここでも迫害されるのだろうかという不安はいつの間にかなくなっていた。


「……お隣、いいですか?」

「何言ってるの? もちろんいいわよ。っていうか、毎回聞かなくて大丈夫よ」

「すみません」


 洋子さんの隣に腰かけて、いただきますと手を合わせる。

 お箸で一口すくって口に運ぶと、しらすの塩気と大葉の爽やかさが一気に広がった。――美味しい。

 今日は一段と暑かったし、上履きの件もあったから、疲れがたまっていたのかもしれない。お腹はぺこぺこで、いくらでも食べられる気がする。


 がつがつと口に運ぶわたしを見て、洋子さんは笑いながら「足りなかったら冷奴とお浸しもあるからね」と言ってくれた。


「――それで、聞きたいことってなあに?」


 わたしの箸の動きが落ち着いたところで、洋子さんが声をかけてくれた。

 洋子さんはプリンを食べていて、わたしにも一つ差し出してくれる。


「あっ……! すみません、食事に夢中になってしまいました」

「いいのよ。そうやってたくさん食べてもらえると嬉しいもの。……ここに来た時よりかは健康な体型になったけれど、まだ痩せてるから心配なのよ。だから、遠慮せずにどんどん食べてね」

「置いていただけるばかりか、美味しいものもたくさん食べさせていただけて、ほんとうに夢のようです。……プリンまですみません」


 実際、食が充実したことによって、体重はここに来てから十キロ以上増加している。身長もなぜかぐんぐんと伸びていて、遅れて来た成長期みたいだ。


 とはいえ、美味しいものは美味しい。このプリンは島に新しくできたお土産屋さんが看板商品として売り出しているものだ。おしゃれな瓶に入っていて、液体と固体の中間ぐらいの絶妙な柔らかさが絶妙な逸品。てのひらにしっかりキープしながら、風丸くんの件を切り出す。


「その……。前、洋子さんに聞いたことなんですけど。今日も同じことがあって、やっぱり教えてもらえるとすごくありがたいんですが……」

「ごめんね、なんのことだっけ?」

「同じクラスの風丸くんが、部活が休みだって教えてくれる件です。わたし、それがどういう意味なのかわからなくて、いつも彼を怒らせちゃうんです」

「ああ、そのことね。思い出したわ」


 ゆっくりとプリンを口に運びながら、面白そうな笑みを浮かべる洋子さん。

 そういえば、前回聞いた時も同じような表情をしていたっけ。特に面白味のある質問だとは思わないのだけれど……。

 しばらくの間、沈黙が続く。テレビから流れるお笑い芸人の声が台所に響いた。


「……ん~、前も言った通り、わたしが教えちゃうと、風丸君だっけ? その彼に申し訳ない気がするのよね。でも、安寿ちゃんも困っているんだものね。仕方ないか……。あのね、安寿ちゃん」

「はい」


 洋子さんの改まった表情を見て、今日は教えてくれるのだと察しがついた。自然と背筋が伸びる。


「全部は教えてあげられないけど。今度彼にそう言われたら、安寿ちゃんも予定はないって答えなさい。図書室に行きたくても我慢なさいね。もちろん店の手伝いも気にしなくていいから」

「え……? そ、そう答えるのが正解なんですか?」


 「わたしも予定はない」という返事は全く頭になかったから、びっくりして思わず聞き返してしまう。でも、親切な洋子さんが嘘をつくとは思えない。


「正解かどうかは、わたしには分からないけれど。少なくとも、そう答えれば、彼のことをもっと理解できるようになると思うわよ」


 風丸くんのことを、もっと理解できるように……? 洋子さんの言った言葉を、頭の中で繰り返す。

 席が前後とはいえ、彼と話したことはほとんどない。知っているのはバスケット部のエースで、背が高くて、男女問わず人気があるということだけ。彼がどういう性格なのか、毎日どういうことを考えているのか、そういう内面のことについて、確かにわたしは知らない。


 ――どういう人かを知らないから、発言の意味が分からないのだとしたら。洋子さんの言うとおり、わたしは彼を知る努力が必要なのかも。

 その理屈は、すとんと胸に落ちてきた。


「……わかりました。次にそう言われたら、わたしも予定はないって答えてみます」

「うん、それがいいと思うわ。少しは青春してらっしゃい」

「……?」


 青春って――? 図書館で借りた小説の中では、「夢や希望に満ち、活力のみなぎる若い時代」みたいな意味で使われていたけれど。今の話の流れで、そんな内容があったかな。むしろ、わたしには最も縁のない言葉のように思える。


「ああ、いいのいいの。何でもないわ。とにかく、その日は彼の言うことに従って楽しんでらっしゃい。二十二時に島の門が閉まるから、それまでに帰ってくればいいから」


 洋子さんはひらひらと手を振って、食器を片付けに行ってしまった。


 今の話のすべてを理解することはできなかったけれど、どうしたらいいかが分かってよかった。もう風丸くんをイライラさせないで済むことに、とりあえず安心する。


 かちゃかちゃと食器を洗う音を聞きながら、わたしは明るい気持ちでプリンの蓋をひねった。

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