第6話

小早川こばやかわ 安寿あんじゅ


 日本で三年間暮らすにあたって、洋子さんと一緒に考えた名前。本名の安寿と洋子さんの苗字をお借りした、素敵な名前。


 その名前が書かれた下駄箱は、からっぽだった。


 ――またか。

 頭に浮かんだのは、その三文字。

 驚きはなかった。上履きが姿を消すことは、これで確か三回目だから。二年生になってから、わたしの持ち物はしばしば姿を消すようになった。


「あ、安寿。……ねえ、もしかして。またなくなったの?」

「小桃ちゃん」


 友達とのおしゃべりを終えた小桃ちゃんが背後から下駄箱をのぞき込む。言葉の後半はぐっと声が低くなっていた。


「え~! サイアクじゃん。いったい誰がやってるんだろうね? ほんと、陰湿でむかつく。ほら、探すの手伝うよ」

「……ありがとう。ごめんね、迷惑かけて」

「いーの、いーの。今回はどこにあるのかなー?」


 小桃ちゃんは柔らかそうな頬をぷっくり膨らませて、ゴミ箱の中や水道の下を探しまわっている。

 その姿を見ると、わたしは申し訳なさと同時に、少しばかりの嬉しさを感じてしまうのだ。


 彼女は人気者なのに、すごく優しい。地味で暗く、しかもいじめられているわたしに親切にしたって何にもいいことはないのに、なぜか気にかけてくれる。


 いや、小桃ちゃんはみんなに優しいから、その一環でわたしに優しいだけなのかもしれない。それでもわたしはすごく嬉しかった。魔女の里では、おばあちゃんが亡くなってからわたしの味方は一人もいなかったから。気にかけてくれて、寄り添ってくれる友達がいるのは奇跡なのだ。


 ――結局上履きは、二階女子トイレのごみ箱に入っていた。


 過去二回とも、上履きはわりと近くに隠されているだけであって、見つからないということはなかった。行方が分からないままだと新しいものを買うことになるので、洋子さんに迷惑をかけてしまう。今回も無事に見つかったことにホッとした。


「安寿、大丈夫? いい加減先生に言ったほうがいいんじゃない?」

「ううん、平気。これぐらいなら大丈夫。もっとひどい目に遭ってきているから、全然落ち込んでいないの」


 実家で受けてきた扱いを思い出して答えると、小桃ちゃんはひどく苦い顔をした。……あっ。中学校でもいじめを受けてきたと思わせてしまったかもしれない。


 とはいえ、今の返事は強がりでもなんでもない。上履きを隠され、机の中にごみを入れられる程度であれば全然へっちゃらだ。

 それよりも、学校で勉強ができるほうの嬉しさが勝る。

 暗い蔵で一人本を読み漁るのは孤独で退屈だった。だから、こうして学校に行けることは、わたしにとって大きな喜びだった。


 スピーカーから、キーンコーンと鐘の音が流れる。


「あ、予鈴だ。じゃ、またね!」

「うん。ばいばい。ありがとうね」


 小桃ちゃんは自分の教室へと走り出し、わたしも自分の教室へと向かうのだった。


 ◇


 ――放課後。一日の授業が終わり、がやがやと賑やかな教室。


 鞄に教科書や筆入れを詰め、さあ帰ろうと席を立つ。

 と、後ろからぽんぽんと二回、軽く肩を叩かれた。


「おい」

「あ、風丸くん」


 振り返って、わたしを呼んだ人の顔を見上げる。

 黒髪にパーマをかけた背の高い人物。風丸かぜまるはやとくんだ。わたしの後ろの席に座る、バスケット部の男の子である。

 席が前後ということでたまに二言三言話すけれど、いじめられているわたしとバスケット部のエースである彼に、席の位置以上の関わり合いはない。


「どうかしましたか?」

「……き、今日俺、部活休みなんだよね」


 油の切れた機械のようにぎこちなく、彼は言った。


「……? それがどうかしましたか……?」


 今日部活が休みであることが、わたしに関係あるのかしら。うーん、ないはずだと思うけれど……?

 彼はこうしてたまに「部活が休み」であることを教えてくれる。けれども、そのたびにわたしは意味が分からなくて首をひねるのだ。

 

 弱ってじっと彼の顔を見ていると、風丸くんは耐えかねたようにわしゃわしゃと頭を掻きまわした。


「あー! もうほんとにお前は! このあと用事はあるのかって聞いてんの!」

「ごっ、ごめんなさい……? このあとは図書室に寄ろうと思ってます。本を借りて帰って……そのあとは家のお手伝いをするつもりで……」


 わたしが戸惑うと、いつも風丸くんはイライラしたような様子になる。

 困って更に風丸くんの顔をのぞき込むと、彼は顔を赤くしてぷいっとそっぽを向いてしまった。


「あー、もういい。またリベンジするわ。じゃあな」

「う、うん。またね……?」


 風丸くんは自分のリュックを引っ掴んで、さっさと友達のほうへと行ってしまった。あっという間に女の子や男の子たちに囲まれて、わいわいしながら教室を出ていった。


「……何だったんだろう。帰ったら、洋子さんにもう一回聞いてみよう」


 魔女の里に比べると、日本は遠回しな言い方や暗喩が多い気がする。もっとも、わたしは十年閉じ込められていたから、家族と近所の人の話し声しか知らないけれど。


 洋子さんはわたしが質問することは何でも親切に教えてくれるのだけど、「それは、わたしが教えることじゃないわね」と言って唯一教えてくれなかったのがこの件だ。

 だけど、これ以上風丸くんを困らせるわけにはいかない。「今日部活が休みである」ことはどういう意味なのか、今日こそ教えてもらわないと。



 小桃ちゃんは放課後友達と遊びに行くことが多いので、帰り道は一人。一階にある図書室に寄って、気になる本をいくつか借りていくのが定番となっている。


 教育を受けられずに育ったわたしにとって、好きなだけ、しかも何の対価なしに本を読むことができる図書室はすごく魅力的な場所だ。

 読書は勉強も兼ねている。化学や数学と言った理系科目は、かつて過ごした蔵にあった書物――『薬草反応論』や『神農数論』といったものからある程度学べたから比較的得意だ。でも、日本固有の歴史や地理といった分野は予備知識が浅いので、そういったものが絡んでいそうな本を借りることにしている。


 鞄に入れた本の重みに心を躍らせながら、わたしは家路についた。

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