第2話
日本有数の観光地、江の島。
週末ともなれば島は観光客でごった返し、賑わいをみせている。
そしてその江の島で最も歴史の古い食堂ともなれば、食事時は火が付いたように忙しい。――創業二百年を誇る江の島一の老舗食堂・魚心亭。わたしの下宿先だ。
「安寿ちゃん、今の方でおしまい。表の看板をしまってきてくれる?」
「洋子さん。わかりました」
ダスターで机を拭く手を止めて、店の入り口へと向かう。
戸を引き、すぐ目の前に出ている「営業中」と書かれた木製の看板を店の中へと仕舞う。外はもう真っ暗だ。
「ありがと。やっぱり土日は混むわねえ。アラフォーには堪える忙しさだわ」
「洋子さんはまだまだ若いよ! 俺の妹のほうが老けて見えるぐらいだ」
「あら、ありがとね。治郎ちゃんの妹さんって静岡にいらっしゃるんでしたっけ? 久しく会ってないけれど、お元気かしら」
「元気すぎて旦那がヒイヒイ言ってらあ」
「まあ……! 仲が良くて素晴らしいことね」
お店の女将である洋子さんが、調理担当の|治郎(じろう)さんとにこやかに会話をしている。
その内容をぼんやりと聞きながら、ダスターを右手に、補充の割りばしを左手に持ち、各席のクリーンアップに回る。
席の数は、二人掛けが十に、四人掛けが五。さらにカウンターが五。そのすべてを整え、明日の営業を迎えられる状態にするまでが今日の仕事だ。
――開け放している窓から、夜風と共に潮の香りが流れ込む。わたしの好きな匂い。
波が寄せては返す小さなさざめきが、一日の疲労感をふわっと軽くしていく。
ほどなくクリーンアップが完了する。余った割りばしを在庫に戻し、流しでダスターをゆすぐ。
ダスターを干したのち、治郎さんとおしゃべりをしながらレジを締めている洋子さんに声をかける。
「洋子さん。終わりました。お忘れ物もありません」
「あら、早いのね。助かったわ。えーと、もうやることはないわね。もう大丈夫。ありがとう安寿ちゃん」
「では、部屋に戻ります。洋子さん、治郎さん、お疲れさまでした」
「おう、お疲れなー!」
再び会話に戻る二人を残して、店を後にする。
魚心亭は横に長い二階建てになっていて、店舗と住居を兼ねた造りになっている。店の奥にある休憩部屋のさらにその先と、二階すべてが居住スペースだ。
部屋に戻ると言ったものの、自室がある二階には上らない。休憩部屋の縁側から庭に出る。
実は、この庭から見える景色が一番の絶景だ。魚心亭は、江の島の頂上に近い崖っぷちに建っている。地平線まで遮るものは何もなく、朝日も夕暮れも、そして満点の星空まで、すべてを一身に浴びることができるスポットなのだ。
闇夜に包まれた海は、少し不気味に思うことがあるけれど。それでも、見ていると落ち着くことのほうが多い。
しばしの間海のさざめきに癒されてから、わたしは庭のすみにある物置小屋へと向かった。
物置小屋はプレハブ製で、人が三人ほど寝られるくらいの広さ。先々代が趣味の釣り道具を保管するために使っていたけれど、亡くなって以降は使われていなかったところを貸し与えてもらっている。
建付けの悪いドアを力いっぱい引っ張って、中に入る。
小屋の天井にガムテープで取り付けてある懐中電灯たちのスイッチを入れる。いくつかの箒と、こんもりした乾燥エニシダの山がオレンジ色の明かりに浮かび上がった。
茶色いエニシダの山の中にぽつんとちいさな赤座布団が置いてある。そこがいつも座っている、わたしの指定席。
「ふぅ~。今日も一日疲れたな……」
薄い座布団に腰を下ろして、小さくため息をつく。
「……さて。やろうかしら。えーと、どこに置いたっけ」
昨日途中までやったところはどこに行っただろうか。座布団の周りをまさぐる。
乾燥コキアをかき分けて探すと、ほどなく見つかった。箒の穂を束ねたものだ。
ワイヤーで束ねたエニシダの穂を、自分の身長ほどの枝木にくくりつけていく。
ちいさな束を五つほどつけてみて、少々ボリュームが多いなと思って、一つ間引く。穂のボリュームが適切でないと、飛行時のスピードが安定しないのだと、昔おばあちゃんが言っていた。
穂をすべてつけたところで、全体を固定していく。麻紐で、穂と柄をしっかりと巻いていく。
麻紐を力強く引っ張るので、手の皮は赤く腫れあがってしまう。
しかし、手袋をすることはできない。素手で作ることによって魔女の力が箒に伝わり、空飛ぶ箒ができるのだ。
痛みに顔をしかめながら、作業を続ける。
「わんわんっ!」
「――! ああ、しめじ。来たのね。こっちにおいで?」
鳴き声がした方を見ると、一匹の柴犬がこちらを見てはちきれんばかりに尻尾を振っている。
わたしの声掛けを聞いたしめじは、とっとこ物置小屋に入ってくる。そしてわたしのすぐ隣に座り、デニムの太ももに頭を乗せた。
彼女の滑らかでふわふわな体を撫でながら話しかける。
「いい子ね。もうご飯はもらったの?」
「わんっ」
「わたしは箒を作っているから、しめじと遊んであげられないよ。それでもいい?」
「わふっわふっ!」
まるでわたしの言葉を理解しているかのように、しめじは相槌を打つ。そして太ももに頭を乗せたまま、じっと作りかけの箒に視線をやった。それはまるで、自分のことは気にせず作業に戻ることを促しているかのようだった。
「本当にしめじはお利口さんね。あなたみたいに素敵なお友達が、わたしの国にもいたらよかったのに」
ゆっくりとしめじの身体を撫でながら、わたしは魚心亭に来る前のことを思い出していた。
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