第8話


 昼食休憩のあと、東北大学と向き合った。

 斉藤創さんは次鋒に座っていた。「今年は前半早めにくる」と岩井監督と佐々木コーチが読んだとおりである。しかしオーダーでは三年目の西岡精家の後には、二年目の大野雅祥、二年目の矢田哲と下級生を並べている。この三人で止められなければゴトマツまでまわる。ゴトマツも抜かれれば松井隆、そして守村としふみである。昨年は創さんに松井と守村の二人を抜かれ、三人目のゴトマツでぎりぎり止めている。

「流れが悪かったら西岡から守村まで五人をゴボウ抜きされる可能性もあるな」

 私が掲示板を見上げながら、横に座る竜澤に言った。竜澤は黙ったまま掲示板を見ていた。


   北海道大学  東北大学

      (学年)   (学年)

 先鋒 松浦義之2  川村高歩1

 次鋒 西岡精家3  斉藤 創6

 三鋒 大野雅祥2  杉原啓介3

 四鋒 矢田 哲2  三和幸晴2

 五鋒 後藤康友3  戸次賢治4

 六鋒 松井 隆5  菅原広史2

 七鋒 守村敏文4  後藤圭吾3

 中堅 黒澤暢夫3  永峰共能4

 七将 中井祐樹2  堀江伸玲2

 六将 吉田寛裕2  赤井沢隆5

 五将 岡島一広4  中川智刀3

 四将 石井武夫4  小野義典4

 三将 東英次郎4  森 候寿4

 副将 藤井哲也4  金子 剛4

 大将 城戸 勉4  河本孝造4


 先鋒の松浦義之は無難に引き分けた。

 次鋒の西岡精家が蒼ざめた顔で畳に上がる。向こうから斉藤創さんが頰を張りながら上がってきた。試合時間は六分。これだけの超弩級を相手にすると、この六分が異様に長い。

「はじめ!」

 主審の声とともに創さんが悠然と前に出てくる。西岡はやや下がり気味に組み合った。創さんは西岡の上半身を体重をかけて前へ前へと強く引っ張りながら振り回す。西岡は崩れまいと必死に耐えるが、やがて後ろ帯を取られて前に潰され、カメになる。完全に創さんの抜きパターンに入られた。

「西、耐えろよ!」

「隙みて立ち上がれ!」

 北大陣営から必死の声援があがる。

 創さんが西岡の頭にまわり、肘で潰しながら縦返しの体勢を作った。思いきって返しにいく。西岡の身体が浮き、両陣営から悲鳴と声援、そして怒号。西岡は必死に耐えている。さらに縦返し。西岡また必死に耐える。「耐えろ!」北大から無数の声があがるなか、カメの西岡は顔を真っ赤にして耐える。

「分けられるだろうか」

 隣の竜澤が呟くように私に聞いた。

「わからん」と私は言った。

 創さんは西岡をカメにしたまま動きを止めて休んでいる。

 攻撃のこの緩急のつけかたが創さんは抜群にうまい。攻められているほうはどこかで呼吸を読まれ、一気に返されてしまう。

 創さんはときどき陣営を見て残り時間を聞いている。

「あと二つ!」

 陣営から残り二分の合図があったところで創さんが動きはじめた。表情をゆがめながらの全力の縦返し。西岡が耐える。創さんが満面に朱を注いで連続の縦返し。西岡が耐える。さらに縦返し。西岡が耐える。そこで創さんがふと力を抜いた。また休むのだろうかと思った瞬間、強引に返され、そのまま横四方に抑え込まれた。

「抑え込み!」

 主審の声と東北大の大歓声が重なった。北大勢は畳を叩きながら「逃げろ!」と声援を送るが、西岡まったく動けない。

 三鋒の大野雅祥が上がっていく。

 眼前で先輩である西岡が抑え込まれたのを見ているのだ。相当にプレッシャーを感じているのは間違いない。立って組み合った。お互いに様子を見る。いや、創さんは休んでいるのだ。前の試合で失ったスタミナの回復を待っている。試合が後半に入ったころ創さんが動いた。内股。そして西岡戦と同じように大野を前に崩しながら振り回し、横捨て身を狙う。大野がカメ。「耐えろよ!」北大陣営から大きな声援があがる。

 創さんは大野の頭側に回り、また休みはじめた。攻めさえすれば取れると言わんばかりのこの態度には腹が立つがどうしようもない。創さんとしては一人抜きではなく三人四人と抜くつもりでペース配分をしているのだろう。動いたのは先ほどの西岡戦と同じく残り二分になったときだ。縦返しで何度も何度も強引にめくり、緩急を使い、揺さぶりを使い、大野が疲れたところで立ち上がった。そのまま開始線に戻るかと思っているとまさかのフライパン返しで抑え込んでしまった。二人差になった。三人目の矢田哲は表情を強張らせながら待っている。中井祐樹と同じく白帯スタート組だ。相当に脚が効くというが本当なのか。

 大野雅祥が戻ってくるのに代わり、矢田哲が畳に上がる。私はこの矢田をよく知らなかった。三カ月間、現役時代は重なってはいたが、一年目が多かったので目立つ者しか憶えられなかったのだ。背は低い。体重も六十五キロないようだ。何より柔道衣が似合わず、いかにも弱そうだ。表情も普通の大学生の風情である。

 しかし組んで引き込むや、粘っこく脚を効かせる。創さんが全力を出さずにまだ休んでいる最中とはいえ、本当に粘っこい。脚を越えたと思ったらすぐに脚が戻ってきて邪魔をする。ここで創さんは自らカメになってしばらく休む。しかし残り二分を切ったところでまたスパートをかけ始めた。下から返し、矢田をカメにし、縦返しから何度も抑え込もうする。しかし息が上がっており決め手を欠いて、矢田が大殊勲の引き分け。

 ゴトマツが引き分けたあと、松井君が得意のかたちで抑え込んで一人差にするが、疲れたところを次の戸次に抜き返されてまた二人差に。

 北大はかなり追い込まれた。次の守村は抜き返さんと攻めるが、戸次はカメになって無難に引き分ける。

 次は黒澤暢夫。次世代の抜き役の要となる彼が、内股と横四方でまたたくまに二人を抜いてタイに戻し、北大陣営は総立ちになった。

 次の東北大主将、永峰に対しては引き分けにいくが、永峰は創さん仕込みの縦返しにいくために暢を引っ張って横捨て身を何度も狙う。重量級同士の攻防は迫力があった。息の上がっている暢はそれにできるだけ付き合わないように少し腰を引いて耐えている。永峰が寝技に引き込んだ。そこに暢が速攻。何度も脚をまわす永峰だが、暢は休まず連続して速攻をかけ、永峰をカメにした。そこから永峰を立たせず、引き分け。北大は大きな拍手で暢を迎える。とにかくタイに戻した。

 しかし誰かが抜かないとならない。もしタイのままいけば腰を痛めている城戸には引き分けが精一杯だろう。そうすると昨年と同じく代表戦となって斉藤創さんが出てくる。その場合、またしても東英次郎との戦いになるだろう。一人目に斉藤創、二人目に永峰共能、三人目にまた斉藤創。こちらは創さんに引き分けられる可能性があるのは東英次郎ひとりなので、東英次郎、西岡精家、東英次郎か。あるいは西岡のところに黒澤暢かゴトマツを置いて永峰と引き分けを狙う。東英次郎は去年は二度とも創さんと引き分けたが、医学部六年生となった今年の創さんはさらにパワーアップしている。東も実力を上乗せしているが、寝たら創さんだろう。だから今年も立っていくに違いない。しかし立技というのは一発で飛ばされる可能性もある危険な試合になる。だから本戦で大将の城戸つとむを残して北大は勝ちたい。

 次の七将の中井祐樹は先ほどの東大戦と同じく闘志を前面に出してほりに向かっていく。

 中井が引き込む。堀江が応じる。

 堀江が一本脚を越えた。中井はカメ。彼のカメは強力だと聞いていた。だからこのまま最後まで守るかと思ったら、途中で隙を見て立ち上がった。そして一度速攻をかけたあと堀江をカメにし、横三角で攻め始めた。さらに返して、腕を縛るところまでいった。北大から大歓声。堀江の必死のブリッジで逃げられるが、中井のアグレッシブな戦いに驚いた。試合はそのまま引き分けとなった。

 六将も二年目の吉田寛裕。東大戦で殊勲の勝ち星をあげたばかりだ。しかし相手のあかざわは医学部五年の強者。かなり強いと聞いている。吉田が何度も背負い投げに入るが赤井沢がかわす。そこで思いきった内股で畳に叩きつけた。

「一本!」

 北大陣営が総立ちになった。

 吉田は小柄なため、相手の真下に飛び込んでのこのたかうちまたを得意としている。

 ここで北大がようやくリードした。吉田は二人目と引き分けた。そして岡島一広、石井武夫、東英次郎、藤井哲也と、無理せず引き分け、大将の城戸勉を残して勝利した。

 結果的に薄氷を踏むような勝利だった。岩井監督たちも冷や汗をかいただろう。それにしても斉藤創さんの強さはどうだ。去年にも増してパワフルな柔道はまるで鋼鉄製の戦車のようだった。動きが強力なだけではない。存在そのものが強固で堅い。あれでは誰も手に負えない。

 翌日の準決勝進出を決めた北大メンバーは、汗を拭いながら岩井監督の話を聞き、城戸主将の総括を聞き、それぞれ道衣を脱いで着替え始めた。準決勝の相手は京大に決まった。優勝するためには絶対に破らねばならない相手である。

 私たちOBは、その現役をつかまえて明日の準決勝について聞き、対策を考えていた。

 向こう側の試合場で大きなどよめきが起こった。もちろん試合で何かがあったのだろう。しばらくそのままどよめきが続いている。私と竜澤が立っている位置からは人混みで見えない。

「なんだろう」

「誰かが誰かを投げたんじゃないか」

 二人でそんなことを話していると、少し離れた場所で背伸びして見ている者が「つくるさんがカメにされてるみたいです」と言った。二年目のたかがいだった。

「誰に?」

 私が驚いて聞くと首を捻った。

 二年目のひらえいなかがわみつのりがパンフレットを開いて、相手が誰なのか探している。

 そこに一年目が何人か走ってきた。

「九大の二年目に創さんがカメにされて滅茶苦茶にやられてます」

「誰だ、その二年目っていうのは」

 竜澤が聞いた。

 一年目が蒼い顔で言った。

っていうやつです。去年の七帝戦のあとに入部したから誰も知らなかったみたいです」

 場内はまだざわついていた。

 私は竜澤と一緒にそちらの試合場へと場所を移した。すると本当に斉藤創さんがカメにされていた。それを九大の二年目が取りにいっている。重量級とは思えぬほど様々な技を繰り出している。

 甲斐と創さんは結局引き分けたが、創さんのほうが明らかに消耗していた。

 その試合を見て、同期たちと外へ出た。そして飯を食ってOBの待ち合わせ場所へ行った。

 この日は全国から集まったOBたちのためにホテルでの温泉つき懇親会が開かれるらしい。そのためにバスまでチャーターしたので時間になったら集まるように言われていた。もちろん明日の試合がある現役学生は自分たちのホテルに戻っている。

 夜は、札幌に応援に来た全OBが温泉に浸かった。そのときに佐々木コーチに会って、甲斐という九大の選手について聞いた。

 佐々木さんはその試合をはじめから見ていたという。

「甲斐はまだ底がわからんな。それより俺が驚いたのは創のアンテナだ。はじめ普通にやってて、途中で『これはやばい』って気づいてすぐにカメになったんだ」

 興奮して話す佐々木コーチは眉間にしわを寄せていた。



 翌日も、同期たちと連れだって中島体育センターへ行った。

 昨日と同じくらい人が集まっている。北大選手も京大選手もすでに道衣に着替えてアップしていた。

 同期と並んでそれを見ていると、佐々木コーチが寄ってきた。

「城戸が昨日より悪いんだ」

 腰のことだ。

「昨日、試合には出てないけど動いたべ。それがよくなかった」

「試合は?」

 私が聞くと首を振った。

「今日も置大将だ。でも京大相手だ。まわってこないってことにはならんべ。さっきごんべいさんに痛み止めを射ってもらってた」

 権平とは京大OB会長の権平さんのことだ。高専柔道や七帝戦に深い愛情をもち、整形外科病院の院長としての忙しい仕事の合間を縫って京大道場に通っているらしい。試合を離れれば他大学の選手にも気を遣うのが七大学OBたちに共通する精神である。

 城戸が北大選手を集めて何か話している。「はい!」「はい!」と何度か北大勢が声をあげた。そこへ岩井監督がいって何か言った。「はい!」と再び選手たちが声をあげた。岩井監督がゆっくりと何かを話している。一年目が一枚の紙を手に大会本部へ走っていった。オーダー表である。

 しばらくすると試合オーダーが掲示板に掲げられていく。

 一枚かかるたびに溜息があがったり、どよめきが起きたりした。

 北大選手たちはかなり緊張してそれを見ている。

 なにしろ七帝戦九連覇中の京大である。その京大をここで破らねば優勝はできないのだ。

 北大は昨日の二試合を松浦義之の先鋒でいったが、同じでは歩調を合わされ、京大に有利に働くと思ったのか、あえてムラのある大野雅祥を持ってきた。

 次鋒に石井武夫。三鋒に矢田哲。

 四鋒と五鋒に黒澤暢夫とゴトマツの巨漢二人を並べ、四年の藤井哲也をひとり挟んで、吉田寛裕と松浦義之の元気コンビを配置している。以下、川瀬えつろう、岡島一広、東英次郎、中井祐樹、松井隆、守村敏文、城戸勉である。


    北海道大学  京都大学

      (学年)   (学年)

 先鋒 大野雅祥2  田中秀樹3

 次鋒 石井武夫4  藤野哲史3

 三鋒 矢田 哲2  仙石太郎3

 四鋒 黒澤暢夫3  小幡太志4

 五鋒 後藤康友3  竹田基志5

 六鋒 藤井哲也4  阿波信輔3

 七鋒 吉田寛裕2  川上幸治2

 中堅 松浦義之2  遠藤泰治3

 七将 川瀬悦郎4  児島洋平3

 六将 岡島一広4  松永大悟4

 五将 東英次郎4  野田篤広4

 四将 中井祐樹2  奥田正文4

 三将 松井 隆5  八木信太郎3

 副将 守村敏文4  薄葉毅史3

 大将 城戸 勉4  岡林亮爾5


 北大に大きな穴はない。しかし本当の抜き役といえるのは東英次郎と城戸勉、その下に黒澤暢夫、そしてゴトマツといったところか。さらに下がって吉田寛裕と松浦義之の二枚の立技か。しかし城戸は戦えない置大将なので実数には入らない。

 私たちが同期で固まって観戦によい場所を選んでいると佐々木コーチがやってきて強張った顔で座った。手には丸めた大会パンフレットを握りしめている。この一年間、佐々木コーチが相当に力を入れて指導していたというのは、岩井監督や四年目たちから聞いていた。今年の『北大柔道』にはこんなふうに書いていた。《興奮してくる自分を抑えつつ、言ってやりたい。十連覇なんて、そんなあまくないことを教えてやるぜ京大》と。

 私たちも佐々木コーチの近くに座って試合が始まるのを待った。

 しばらくするとアナウンスが入って選手たち十五人が向かい合って並んだ。京大選手たちは自信に満ちていた。

「正面に礼! お互いに礼!」

 主審の声で両校の陣営が大声をあげはじめた。

 大野雅祥と、京大の三年、なかひでが向かい合った。

「はじめ!」

 田中が引き込んだ。大野が速攻、田中がカメに。それを取れずに大野が立ち上がる。立技と寝技が嚙み合わぬうちに引き分け。先鋒戦らしい試合だった。

 次鋒の石井武夫に対するのはふじさと。私が去年当たった選手だ。力が強いので注意しなければならない。藤野の大外刈りで石井が崩れてカメになる。藤野立ち上がり再開。藤野また大外。石井が崩れたところをバックについて絞めをしつように狙い始める。石井がそれを嫌って動くうち、藤野が巧みにその脇をすくった。そしてそのまま身体を移動していくと、最後は横四方固めに抑えた。序盤で一人抜きを許してしまう。

 二人目の矢田哲は慎重に組み、ゆっくりと引き込んだ。藤野はその脚を割って入ろうとするが矢田の脚がしつこくて入れない。さらに藤野が強引に入っていくと、それを矢田が横に落とした。そしてバックについて守っていたが、前に落とされて正対したところで時間。引き分け。

 四鋒の黒澤暢夫に抜き返しの期待がかかる。相手は三年のせんごく。仙石が寝技に引き込み、すぐにカメ。暢はそれを嫌って立つ。再び組み合って仙石がまた引き込んでカメ。

「攻めろ!」

 北大陣営からの声に暢はフライパン返しを狙うが、バランスを崩されて上手くいかない。暢の課題はカメ取りだろう。攻めあぐねてまた立ち上がる。仙石は腰を引きながら引き込み。そしてすぐにカメ。暢は前にまわって脇を浅くすくい、強引に帯取り返し。これでめくれて脚を一本からませたまま上体を固めた。

「よし、いけ!」

 北大陣営が時計を確認しながら声をあげる。しかし残り時間は三十秒。仙石の必死の足がらみを抜けずに引き分け。

 五鋒のゴトマツが京大の抜き役・小幡を相手に手堅く分けたあと、四年目の藤井哲也がたけもとの巧みな攻撃に途中から防戦一方となり、一度抑えられたのを逃げるがすぐにまた横四方固めに抑え込まれて一本。北大は二人のビハインドとなった。

 七鋒は期待の二年目、吉田寛裕。竹田基志は二人目とあって無理せずにカメになる。吉田は横絞めから逃げてローリングした竹田と一瞬胸を合わせるが、京大のカメは堅固で攻められない。途中で竹田の耳から大出血して試合が止められ、止血後、再開。結局カメを攻略できず引き分け。

 中堅は松浦義之。京大は三年のしんすけ。阿波が引き込んですぐにカメ。京大としては二人差を守れば勝てるので精神的に優位である。バックについて松浦が絞めを狙うが守りが堅くまったく手が入らない。諦めて松浦が立った。組み合うとすぐにまた阿波がカメ。松浦は絞めにいくしかないがまったく進捗せず引き分け。京大の守りの堅さが目立つ試合となった。

 ふと会場脇に二人の一年目に肩を借りて歩いている城戸勉が見えた。どうしたのだろうと思っていると、京大陣営の後ろへ歩いて行く。そして肩を貸していた一年目の一人が陣営の前に人を分けて入っていく。最前列に座って声を上げている丹羽権平さんに何か言った。権平さんが立ち上がり、陣営の後ろへ行き、かばんを持って城戸のところへ。城戸が何度も頭を下げている。そこで道衣の上を脱ぎ、表情を歪めながらうつぶせになった。権平さんが大きな注射器を出して腰に打っている。痛み止めに違いない。昨日の試合では置大将の自分には回ってこなかった。しかしついに自分が引っ張り出されるときがきた。だから二本目の痛み止めを打ってもらっているのだ。見ていられず私は眼を逸らした。だが俺は先輩だ。OBなのだ。城戸があれだけの覚悟を持っている。俺も覚悟を持たねばならない。

 試合場には七将の川瀬悦郎が上がった。四年目の意地を見せたいところ。しかし京大二年のかわかみは組むやすぐにカメになり何もさせてくれない。川瀬が横三角で揺さぶりをかけるが、川上は首も脇も堅く、まったく動かせない。そのまま引き分けられる。

 六将の岡島一広の相手は次期主将と目される三年のえんどうたい。悠然たる動きで前に出てくる。岡島が引き込む。岡島も北大の抜き役なのでここは下がれない。下から脚を効かせながら返しを狙う。しかし遠藤の動きは力強く、逆に岡島がカメにされる。

「いいから脚を戻せ!」

 岡島に無数のげきが飛ぶ。岡島が抜き返せないと北大には松井隆と東英次郎くらいしかいない。しかし松井君の上からの攻撃は研究しつくされており京大には通用しないだろう。

 岡島は必死に脚を戻した。そして立ち上がろうとしたところで遠藤が帯取り返し。脇をすくって岡島を抑え込みにかかる。北大陣営から悲鳴があがった。一方の京大陣営は大喚声をあげている。遠藤が脚を抜いた。主審が手を前に出し「抑え込み」のコールをする寸前に、岡島が身体をよじって逃げた。ここで試合終了のベルが鳴る。

 北大ナンバーワンの東英次郎が両頰を張って畳に上がる。ここは二人抜きの期待がかかる。相手は三年のじま。東の立技を警戒して下がりながら引き込む。そしてカメ。東は阿修羅の形相で返そうとするが京大のカメは断じて堅い。一度はバックについて絞めを狙うが、児島も顔を歪めながら必死の守り。「あと三つ!」北大からの声援が響き続けるが、児島が守りきれば京大の勝ちは揺るがなくなるため、命がけの表情である。ここでベル。引き分け。北大陣営から声にもならぬ溜息のようなものが静かにあがった。

 四将の中井祐樹、三将の松井隆と、守りに徹する京大をまったく崩せず引き分けられる。

 副将の守村敏文の相手は京大主将のおくまさふみ

 奥田は守りにこず、攻撃にきた。これは主将としての責任感であろう。北大が全力であたってきているのに、チームをあずかる主将が力を出し切らずに引き分け狙いの試合をするのはきようだと考えたに違いない。守村が引き込むところ、力強い上からの攻めでじわりじわりと上がり、上体を肩固めにめ。がっちりと抑え込む。北大三人のビハインドを許す。立ち上がって息を切らしている奥田の表情を見て、私はもしかしたら奥田は城戸勉と直接対決をするために、攻撃されるリスクを冒して守村を取りにいったのではないかと思った。それが誠意だと考えて。

「勝ち!」

 主審が奥田に手を上げた。守村が下がってくるのに代わり、城戸が畳へと上がっていく。北大陣営と京大陣営がみな正座しはじめた。北大OBたちからパラパラと拍手があがった。痛みに耐えながら脚を引きずって畳に上がる城戸に対するものか。あるいは堂々と受けてたつ奥田正文のおとこに対してのものなのか。拍手は次第に大きくなり、京大からも沸き起こり始めた。

「はじめ!」

 主審の声があがった瞬間、拍手がやんだ。両者がゆっくりと前へ出る。組み合った。城戸は表情を歪めて襟をつかんでいる。会場内は水を打ったように静かになっていた。「城戸頑張れ」とも「奥田頑張れ」とも誰も言わない。奥田は城戸を思いきり攻め立てていた。決して手を抜かない。城戸もそれに全力で応えていた。

 八分の試合が終わるとまた両陣営から拍手が沸き起こった。城戸勉たちの学年の長い長い練習の日々が終わった。

 城戸主将の呼集で集められた北大選手たちは男泣きに泣いていた。OBたちもまわりで泣いていた。岩井監督の総括があり、解散となった。今日の夜は、ホテルで学生たちの慰労会が開かれる。試合会場では、これから決勝が行われる。



 私たち同期はいったん散会して七時の慰労会で会うことにした。私と竜澤はタクシーでアパートに戻り、目覚ましをセットして三時間ほど仮眠した。起きてから昔二人でよく行った定食屋でカウンターに並んでサンマ定食を食べた。竜澤が「まだ五十八万もあるんだ」と嬉しそうに言って万札をカウンターに置いた。

 またアパートに戻り、寝転がって二人で今回の七帝戦について話した。

 二人で焼酎を一杯ずつ飲んで慰労会のホテルへ行った。

 ロビーには北大柔道部OBが溢れていた。私たちの頃とは大違いだ。しかしこういった現役応援態勢になったことは喜ぶべきことだろう。

 二階のパーティ会場に上がると、そこにもOBがぎっしりと座っていた。椅子に座って、しばらく年輩のOBと話していると、現役たちが顔を真っ赤にして入ってきた。眼も真っ赤だ。学生同士の交流会、レセプションで泣き腫らしたのだ。

 若いOBがマイクを握って司会をやり、旧交会会長のたけやすあき会長の挨拶、はたけなかかね師範の挨拶、そして岩井監督の挨拶があった。それぞれ心温まる卒部生たちへの言葉だった。しかし佐々木洋一コーチは、マイクを握って「僕は……この結果に……僕は」と発したあと言葉に詰まってしまった。そして立ち尽くしたまま号泣しはじめた。みな驚いてひなだんから下ろしたが、椅子に座っても佐々木コーチは泣いていた。

「続いて四年目の引退挨拶です」

 司会の声で城戸主将からひとりずつ壇上に上がって、現役時代の自分のことと、今日の試合のこと、そして感謝の言葉を涙ながらに語った。ひとりずつ話していき、みな泣いていたが、とくに大森一郎はひどく泣いていた。いろいろな人が立ち上がって大森にビールを注いだが、それでも大森は泣き止まない。

 私たちの頃と較べると部員数が増えて層が厚くなっている。これはまさに私たちの代が現役時代に望んだことだ。私たちの頃は全部員で二十人かそこらしかいなかった。入部させても苦しさにどんどんやめてしまうのだ。

「レギュラー争いがれつになるほどチーム力が上がる」とか「紅白戦で十五人対十五人の七帝ルールの団体戦が組める部員数にしたい」とか、そんなことを下級生時代にいつも話していた。そんな部員がいま四十数人を数えるまでになった。昨日の第一試合の東大戦でメンバーに入っていた大森は、第二試合の東北大学との試合には名前がなかった。今日も私は気になっていたが、また名前はなかった。これで引退することに心残りがあるに違いない。あれだけ一生懸命やっていたのだ。しかし私は大森にビールを注ぎにいけなかった。そのうち年輩OBに話しかけられて語り合ったあと、大森を探すと、姿を消していた。

 しばらくして三年目の幹部就任挨拶が始まった。

 新しく主将になった西岡精家から始まって、副主将のゴトマツ、選手監督の黒澤暢夫とマイクを握っていく。彼らもまた四年目の涙に触発されて泣いていた。そして来年は「必ず優勝します」と言った。「優勝カップでビールを回し飲みしたい」と。七帝戦の優勝カップは何十年も前に時の文部大臣から寄贈された文部大臣杯である。すでにボロボロになっているが、優勝した先輩たちから「あれで飲むビールほど美味いものはない」と聞かされていた。岩井監督も二期下のやまうちたか主将の時代と三期下のたかはしひろあき主将の時代のOBとして優勝カップビールを経験しているので、よく「美味いぞ」と言っている。佐々木コーチもその二つの代のときにコーチだったのでやはりその美酒を飲んでいる。

「北海道大学柔道部とうせい!」

 いつもと違う聞き慣れぬ大声があがった。

 西岡である。

 そこから全員が肩を組んでの東征歌となった。そして『都ぞ弥生』にうつり、校歌『とこしえさち』になった。ありしまたけ作詞の美しい歌である。

「友た~れ、永く~、友たれ~」

 西岡の大声のあとにみなが歌いはじめた。


 永遠の幸 朽ちざる誉れ

 常に我等がうへにあれ

 よるひる育てあけくれ教へ

 人となしし我庭に

 イザイザイザ うちつれて

 進むは今ぞ とよひらの川

 尽きせぬながれ 友たれ永く友たれ


 北斗をつかん たかき希望は

 時代を照らす光なり

 深雪を凌ぐ潔き節操は

 国を守る力なり

 イザイザイザ うちつれて

 進むは今ぞ 豊平の川

 尽きせぬながれ 友たれ永く友たれ


 山は裂くとも 海はあすとも

 真理正義おつべしや

 不朽を求め意気相ゆるす

 我等丈夫此にあり

 イザイザイザ うちつれて

 進むは今ぞ 豊平の川

 尽きせぬながれ 友たれ永く友たれ


 OB、現役が涙で眼を赤くしながら肩を解いた。

「指導陣の胴上げをします」

 司会者が言うと岩井監督が「それは優勝したときにとっておきましょう」と笑った。「たしかにそうですね。では四年目の胴上げです。まず城戸から」と司会者が言った。

 そして城戸勉の胴上げが始まった。「腰が痛い」と騒ぎながら城戸も嬉しそうだ。次に東英次郎の胴上げになった。

「大森さん知りませんか」

 聞かれて振り向くと吉田寛裕である。

「さっきはいたんだけどな。外へ行ったのかもしれん」

 すると吉田が廊下へ出ていく。

 東の胴上げが終わると岡島一広の胴上げが始まった。そして守村敏文。石井武夫と続く。しばらくすると廊下のほうから吉田寛裕が戻ってきた。右手で大森一郎の手を引いていた。

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