第7話
第3章 七帝戦、悲願のVなるか
1
七月になった。
札幌での七帝戦が始まる一日前、金曜日。
廊下をドタドタと歩く大きな足音。三カ月ぶりの懐しい音。そのあとのドアが破れるのではというほど強いノックには苦笑いしてしまった。
激しい勢いでドアを開けて入ってきた竜澤は、まったく変わっていなかった。
「相変わらず汚え部屋だ」
勝手なことを言って私のベッドにどすんと飛び乗り、そこにあぐらをかいた。私もその向かいにあぐらをかくと竜澤が「ボーナス入ったんだ。へへへ」と言ってジーンズのポケットから財布を出して開いた。学生時代から持っていてよれよれになった茶色の財布である。
「社会人ていいな。給料もあるからさ。合わせて幾らあるかな」
えらく分厚い二つ折り財布の中には、札がぐちゃぐちゃに詰め込んである。
「一枚でしょ。二枚でしょ。三枚。四枚。五枚。六枚──」
私の眼の前で、まるで七並べのトランプのように布団の上に並べていく。
「六十三枚だ。よしよし。これで今日は飲みに行こう。これ全部使うんだ。タイムスはお金ないから増田君はいいから。俺、これ札幌で全部使うから」
嬉しそうに札をグチャグチャにしてまた財布に突っ込んでいく。預金しようなどという感覚はないのだ。そもそも振り込まれた給料とボーナスをなぜすべて下ろして財布に入れているのか。普通は必要な分だけ下ろして残りは口座に入れたままだと思うのだが、私もそんな大金を持ったことがないのでそんなものかなと思った。
竜澤には電話で言ってあったが、私のボーナスは六万円ほどしかなかった。困った会社だが、私は屈託を抱えながらも社にのめり込んでいた。
この日の夜は、二人でみねちゃんへ行った。電話をかけて宮澤守と松井隆を呼び出した。東北大学の院生となった飛雄馬は明日土曜日にならないと来ないらしいが、久々に四人集まって竜澤の金で食い、吞んだ。しかしやはり現役時代と較べると、みんな食が細くなっていて、何キロか落として格好よくなりたいと言った。
私は北海タイムスに入ってもみねちゃんに来ているので珍しくもなんともないが、竜澤は楽しそうだった。
しばらく吞むと、竜澤が言った。
「優勝なんてほんとうにできるんだろうか」
話題は明日と明後日のことになる。二日目の日曜日に進めるのは四校だけで、つまり二日目は準決勝と決勝だけが行われる。それに生き残るのがまず第一だ。
「当たる相手次第と言いたいところだけど、一回戦で負けてたらだめだね。だから一回戦の相手は関係ないのでは」
宮澤が理系頭で鋭く指摘した。
私はビールジョッキを持って
「そうだなあ。俺たちとは違う階層へ上がってるんだよな、後輩たちは」
みねちゃんが「おまえらな」と言った。
「弱気が伝染しちまうから明日はそんな顔するなよ」
たしかにそうだ。北大が二連覇していた最強の時代から知っているみねちゃんは、そういうムードのようなものがわかっているのだ。
みねちゃんの後は二階のバップへ行った。そこで午前二時半まで吞んで、宮澤は恵迪寮へ、松井君は
「久しぶりだな、この感覚」と竜澤が両腕でからだを抱えた。
ローソンで弁当やら魚肉ソーセージやらを買ってアパートへ戻り、二人でそれを貪り食べ、
2
翌朝、アパートから学生たちが泊まる宿舎に電話し、一回戦の相手が東大になったと聞いた。竜澤と二人で地下鉄
七帝戦の会場となった札幌中島体育センターは北海道でもっとも大きな箱といってもいい。北海道ではプロレスの聖地とも言われることからもわかるとおり、二階に大きな観客席があり、試合コートもかなり広い。その広い会場が、七大学の選手のほかOBたちで埋め尽くされていた。今回は土曜の夜に北大OBによる大懇親会をやると全国に回していたので、百人になんなんとするOBが来ていた。
札幌開催は私も初めての経験だ。七大学の主管は七年で一回りする。京都、仙台、東京、名古屋、札幌、福岡、大阪の順である。私は京都から名古屋までを四年間で体験したことになる。
竜澤と二人で椅子席の前にあぐらをかいて陣取った。東大陣営には師範の
「東大は面倒だな」
「簡単にはいかんだろう」
二人で話し合った。
「立技中心の練習してるから動きが速い。速い動きからの上からの寝技のプレッシャーにうちは耐えられるだろうか」
竜澤は顔を曇らせている。
私も同じ不安を抱いていた。
年輩のOBたちは「打倒京大だ」とか「優勝目指せ」とかうるさいが、実際のところ他の大学もみな
とくに一回戦のこの東大の立技は大会前から対策を練ってきたが、充分な答が出ているとはいえないと城戸から聞いていた。それと一回戦で当たるのだ。
三年前の仙台での七帝戦でも、二年前の東京での七帝戦でも、
会場がどよめきはじめた。
試合場向こうの大きな掲示板に、係がオーダーの名札を掲げはじめたのだ。
北大の先鋒は二年目の
「大丈夫だ。中井は安心して見ていられるはずだ」
二人の間に座りながら言った。
佐々木コーチによると一年目では中井と
その武内柔道部長も含め、岩井監督、佐々木コーチ、そして
はじめは中井祐樹と矢田哲を出すことに誰も異論を唱えなかったが、途中で「勝ちに
「中井と矢田の出場は、来年以降の経験のための
こういう激しい議論になったのは、やはり今年のチームには優勝が見えるからだ。このチャンスは必ずものにしたい、という佐々木コーチの意見にみな同意したという。つまり勝負に拘った結果、あえて「中井祐樹と矢田哲の起用」だという。
矢田哲も白帯スタート組である。本当に大丈夫なのか。私たちの下級生時代のように十五人のメンバーを組むのにぎりぎりの人数ではないのだ。
北大の三鋒はゴトマツだった。四鋒に吉田寛裕。五鋒に藤井
北海道大学 東京大学
(学年) (学年)
先鋒 松浦義之2 町田英治1
次鋒 中井祐樹2 青野貴芳3
三鋒 後藤康友3 松浦正治4
四鋒 吉田寛裕2 仁子寿晴4
五鋒 藤井哲也4 柴山 修2
六鋒 大野雅祥2 木村博行1
七鋒 松井 隆5 柴田勝之4
中堅 西岡精家3 中谷尚武5
七将 黒澤暢夫3 鈴木健郎4
六将 大森一郎4 渡辺卓也4
五将 岡島一広4 田中祐治3
四将 東英次郎4 飯塚顕治4
三将 矢田 哲2 倉木豊史5
副将 守村敏文4 鴨野博道4
大将 城戸 勉4 竹本英太4
他に眼を
すべての名札が掲示された。
城戸が両手を叩いて「北大集合!」と声を上げた。北大の選手たちが走って集まっていく。佐々木コーチも立ち上がってそちらへ向かった。真ん中に立つ岩井監督がいつものように両手を腰に当てて選手を見まわして何か言っている。
続いて城戸が話しはじめた。
ゆっくりとメンバーたちを見る。黒眼の動き、首や肩の動き、その態度挙措は悠然として自信に
「第二試合場で、北海道大学対東京大学の試合を始めます。選手は試合場に上がってください」
マイクアナウンスが入ると、東大の選手たちが両頰を張りながら上がってくる。一方の北大陣営は円陣を組んで気勢をあげた。
「北大、いくぞ」
腹に応える気合いを入れて城戸が畳に上がっていく。メンバーたちが続いた。城戸の動きを私たち若いOBは緊張しながら見ていた。痛みを隠しているからなのかゆっくりと動作している。
十五人のメンバーが向き合った。
主審、そして二人の副審が両校の間に立ち、主審がメンバーたちに何か言っている。そして「正面に礼!」「お互いに礼!」と続け、両校の先鋒だけが残って他のメンバーは自陣に下がる。
北大は怪力の二年目、松浦義之。全身筋肉の塊。普段は温厚だが道衣を着ると人が変わったように闘志を剝き出しにする。相手は
「北大は立技できないぞ! ぶち投げろ!」
東大陣営から
「町田いけ!
東大陣営から声があがる。
組み手争い。主導権を握っているのは松浦のように見えた。右の一本背負い。町田がぐらついたところを左の袖釣りで浮かせる。慌てた町田が体勢を戻して腰を引く。そして内股。松浦はそれを
「技あり!」
場内どっと沸く。しかしまだ二年目の松浦は寝技で攻めきれず立ち上がる。そこからは背負い投げと内股の応酬のうちに時間。引き分け。技ありひとつでは七帝ルールは勝ちにならない。あくまで一本のみである。技ありなら二つ取って合わせる必要がある。
次鋒の中井祐樹が淡々と畳に上がる。東大は三年の
「青野、組際だ! 狙ってけ!」
「中井、立ちに付き合うなよ!」
両陣営から
「たしかにこいつはものが違いますね」
私は小声で隣の佐々木コーチに言った。しかし佐々木さんの眼はすでに次の試合に向いていた。次の北大の選手が階段を上がろうとしているのがそれでわかった。
大時計を見上げた。
ゴトマツが出てきて東大選手と組んだ。相手が引き込んだのを上から寝技で攻める。
私は緊張して喉が渇いていた。ロビーへ出て飲み物を買った。それを飲んでいると北海タイムスの
「増田、北大はどうだ。勝ち上がれそうか」
秋馬さんが険しい顔で近づいてきた。
「まだわかりません」
「でも優勝狙ってるんだべ」
「そうですけど、どの大学も強いですから」
そして各大学の陣容の話をしていく。その間にも道衣姿の様々な大学の選手たちがトイレやら飲み物やらでロビーを行き来している。試合を終えて大汗をかいている選手もいれば出番待ちで
「柔道はやっぱりでかいな」
秋馬さんが言った。たしかに空手やボクシングの選手たちより全体にふたまわりほど大きい。
しばらく話して秋馬さんたちは二階の観覧席へ上がっていった。私は飲み干した缶をゴミ箱に捨て、急いで試合場へ戻った。
ゴトマツが道衣の裾を直しながら戻ってくるところだった。今年は抜き役といってもいい成長を遂げているが、まだ絶対の抜き役ではない。彼の本格化は来年の四年目だろう。この体格でいったいどんな選手に育つのか。
続いて四鋒の吉田寛裕が畳に上がった。
相手は四年の
吉田の次の相手は同じ二年目の
「そのままだ。そのまま」
岩井監督から指示が飛ぶ。吉田は岩井監督をちらと見てそのまま柴山のカメを維持した。北大陣営から「立たせるなよ」と何度も声。やはり東大の立技は相当にレベルが高い。危険は冒せない。そのカメのまま時間。だが吉田の奮闘で一人リードした。
次の藤井哲也は手堅く寝技に引き込み、バックについてネルソンからの絞めを狙うが相手も手堅く引き分け。
六鋒の大野雅祥は立技得意。しかし
七鋒の五年目、松井隆は無難に引き分けて役割を果たす。
中堅の西岡精家。
両校抜き役。
ともに立っていき、投げ技の応酬。
「北大は立技できないぞ! 大丈夫だ! 投げろ!」
盛んに東大から声があがっている。毎年のように東大からあがるその声に、私は嫌な思いを抱きながら「西、引き込め!」と言った。他にも何人かが「寝ろ!」と声をあげる。西岡が背負い投げ。相手は軽くさばく。東大が「大丈夫だ! 立ち勝負だ!」と声をあげた瞬間、西岡が得意の体落としで激しく叩きつけた。
「一本!」
北大陣営が総立ちになって雄叫びをあげた。これまで何年も「北大は立技できないぞ!」などと舐めたことを言っていた東大を立技で投げた。胸のすく勝利だった。西岡は次の相手と無難に分け、殊勲の一人抜きで全身汗まみれになって戻ってきた。同期たちが握手で迎えている。北大ここで二人リード。
次の黒澤暢夫、大森一郎、岡島
東、気合いとともに前に出る。
組み合うや背負い。鴨野これを捌いて得意の内股。東もこれをしのぐ。激しい立技の応酬。鴨野はかなり強い。東が背負い投げ。鴨野これをすかして引き込み十字。そこに東ががっちりかみついた。そしてじわじわと上がっていく。北大の大歓声のなか横四方固めに入った。
「よし!」
そのまま三十秒抑え込み。北大は三人リードし、東大大将の
試合が始まると慎重に相手を捌いてスタミナの回復を待つ。そして思いきった谷落とし。
「技あり」
主審のコールに北大陣は総立ちになる。
東はそのままカメになって休む。竹本が横三角にいくが攻めあぐねて立ち上がる。再開後、東がまた谷落とし。しかし決まらない。頭を下げたまま今度は小内刈り。さらに小内で場外へ相手を押し出して「待て」。東、相当に息があがっている。そこからさらに立技の応酬。そして東の背負い。さらに背負い。さらに背負い。そこで場外待て。再開後は東が守りに入り、そのまま時間。三人残しで北大の勝利が決まった。
「こんなのは柔道の試合じゃない!」
振り返ると岡野功先生だった。東大の立技強者が引き込みで封じられたのが許せないのだろう。東大はここ何年も七帝ルールに異議をとなえ、七帝戦を講道館ルールでやるべきだと主張していた。岡野先生はそのまま会場を出ていった。他の東大OBも憤然としてOB同士で何か話している。しかし松浦義之、吉田寛裕、西岡精家、東英次郎の四人は、立技でも互角以上に戦っていた。北大も立技ができることをこの試合で初めて証明したわけだ。とくに体落としで相手をまともに叩きつけた西岡の試合は、私たち若手OBにとって溜飲の下がるものだった。投げた瞬間「どうだ! 北大を舐めるな!」と腹のなかで絶叫したほどだ。
試合後、岩井監督を囲んでのミーティングがあった。
次の相手は東北大学である。昨年の七帝で激闘をした宿敵だ。超弩級の斉藤創さんも医学部六年として在籍し、今年も侮れない。
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