七帝柔道記Ⅲ 友たれ永く友たれ
増田俊也/小説 野性時代
第1話
第1章 5人の冬
1
エレベーターでロビーに降りると、ガラスドアの向こうで雪が降りしきっていた。小粒だが硬質な、冬の
今年は雪がとにかく早い。十一月の終わりには疎らに雪が残るようになり、十二月に入るとすぐに分厚い根雪となって拡がった。
二歩出たところでつるりと革靴が滑った。
「誰か雪かきしろよ」
舌打ちしながらタイル貼りのエントランスを注意深く降りた。昨日も同じところで滑ったのだ。引退したのだからもういいのに、北海道大学柔道部時代の癖で、雪で滑ると強い恐怖がある。膝を痛めてしまう可能性があるからだ。リーガルの靴底は革製だが雪道でのグリップをよくするため
歩道で赤信号を待っている間、小さく足踏みして身体を温めた。道の対面が霞んで見えないほどの雪だ。両手はポケットに突っ込んで使えないため、両肩で交互に耳の雪を払う。路面電車が警笛を鳴らしながら右側から来て、ゆっくりと止まった。
青になった信号を急いで渡っていく。そしてすぐそこの中華料理屋の引戸をガラガラとひいた。
店主が無愛想な顔を上げた。
「いらっしゃい」
石油ストーブで暖まった室内の空気は徴かに酢の匂いを含んでいる。酢豚か何か出した後なのだろう。しかし今は客がひとりもいない。十一月一日に入社し、その日に校閲部に配属されてから私は昼飯を必ずここで食べた。
いつものように窓近くのテーブル席に腰を下ろし、いつものように脂で光ったメニューを開き、いつものようにメニューを閉じた。壁を見上げて日替わり定食を頼んだ。今日は《豚肉とキャベツ炒め》だった。傍らのカラーボックスの上の新聞の束から日刊スポーツを手に取った。一面二面と気になる記事を読んでいき、芸能面の訃報をチェックしてから最終ページの裏面を見た。そこでちょうど日替わりランチがきた。箸を割り、いつものようにカラーボックスから『人間交差点』の単行本を一冊抜いてパラパラと
片手で開きながら定食を食べる。読み終えて次はどの話にしようかと捲っていくと柔道衣姿のコマがあった。第六話、『
──一九八四年のロサンゼルス五輪が舞台だ。しかし五輪そのものがテーマではなく、日本国内の話である。大学受験浪人をしている
医者の家庭に生まれた沢木英二青年は自身も医学部を目指して二浪している。あるとき彼の友人で女子大生の
会田陽子が何を思ったのか「彼が持ち逃げしたのを目撃しました」と沢木青年を名指ししたのだ。
沢木青年はしょっ引かれ、
この三百万円、実は会田陽子がロス五輪を観にいきたくて性風俗で稼いだ金だった。それを誰かわからぬ者に盗まれ、これではロス行きができぬと、金持ちの息子・沢木英二を犯人だとでっちあげた狂言であった。しかし会田陽子がロスへ旅立ってほどなく、別の男が会田陽子宅の空き巣を自供して逮捕されてしまう。
そこで刑事の角田が心配したのは会田陽子のことだった。狂言の彼女をさえ傷つけたくないという角田の温かさが見える。
角田は会田陽子に国際電話をかけ、とにかく帰国するよう説得し、成田空港へ車で迎えに行く。そのあいだ、雑音の多いカーラジオからロス五輪の柔道競技会場イーグルス・ネスト・アリーナで戦う
〈さあ、いよいよ期待の山下選手の登場です。ここまではすべて一本勝ち! 無差別級の勝者は文字通り世界一です。その栄光をかけて、今、両雄がにらみ合いました〉
次のシーンでは飛行機から降りてきた会田陽子と角田刑事が肩を並べて空港内を歩く姿が描かれる。ロスの山下泰裕の試合の実況がバックにかぶっている。
〈おっと! ささえつりこみ足、山下危ない……これをからくもかわしました!〉
彼女はうつむきながら角田刑事に言う。
「そりゃ、沢木君には悪いと思っているわ。でも……あたしにとってオリンピックは、本当にかけがえのないものだったの…」
ここで角田の独白が、たった二行。
(時々光るんだよな、二十年前の
夢のカケラが今…………)
一九六四年の日本武道館の実況の声が最後にかぶさる。
〈さあ角田選手、この武道館に日章旗を掲げることが出来るか! 頑張れ角田! 頑張れ角田! 角田決まった一本!〉
最後の大ゴマでは角田が日本武道館で背負い投げをかけている。
私の心臓はざわついていた。
なんだろう、この感覚は。
窓の外を見た。
吹雪はさらに激しくなり、道行く人たちは書類鞄を顔のあたりに上げて少しでも雪を防ごうとしている。二十メートルほどしか離れていない北海タイムス社の建物が見えたり消えたりしている。ガラス窓を隔てているので音だけが聞こえず、映画のワンシーンでも見ているようだ。店内が静まっていることに気づき、黙っているのが不安になって「御飯、おかわりください」と立ち、丼をカウンターの上に置いた。
大きく盛られた丼を受け取って食べながら、私は上半身をテーブルの上に小さく乗りだした。そして社屋の屋上までを仰ぎ見た。地上八階、地下三階。繁華街から少し西へずれた西十一丁目。この辺りでは目立つ建物だ。地下には地下三階分の高さがある巨大輪転機があり、朝刊だけで二十万部を刷る。私の記者生活はここから始まるのだ。ざわついている心臓がさらに強く打ちはじめた。
「すみません。水ください」
コップを持って店主に言うと、カウンターから出てきて黙って注いで戻っていく。
「雪、やみませんね」
私が言うと店主は少し驚いたような表情をしたあと「明日の朝まで続くそうですよ」と言った。おかしな顔をしたのはほとんど毎日来ているのに声をかけたのが初めてだからだろう。
経営状態の悪化している北海タイムスは勤務が過酷で、週に一度しか休みがない。つまり私は週に六日、ここに来て飯を食っていることになる。毎日来るのは安いからだ。日替わり定食が四百円で丼飯のおかわりが一杯百円。毎夜のように酒を飲み歩いているくせに、昼飯代には五百円しか使わなかった。始まりと仕舞いは日によって異なるが、勤務時間は一日十四時間くらいあるので会社で二食は摂らなければならない。ここで抑えないと金が尽きる。北海タイムスがとてつもなく給与が低いことを知ったのは入社してからだった。
『人間交差点』は北大時代から好きで読んでいたシリーズ作品である。
二期上の主将だった
「お兄ちゃん、タイムスの記者かい」
唐突に店主がカウンター内から問うた。今度は私が驚いた。
「はい。校閲部ですが」
「何者だろうと思ってね。学生みたいなジャンパー着てるけど妙に落ち着いてるから」
「つい最近まで学生だったんで」
「最近まで?」
「中退したんです。秋に。それですぐにタイムスに入りまして」
「ああ。なるほど。でももったいなくないかい。俺らみたいな高卒からしたら大学行ったら出たほうがよかったでしょ」
「でも俺、いい歳なんです。二浪して入ってるから」
「いい歳って何歳よ」
「二十四です」
「まだ若いべ。もったいない。どこの大学よ」
「北大です」
「北大って北海道大学かい?」
「そうです」
「そりゃまたもったいない。身体大きいけど何かスポーツやってたのかい」
「柔道やってました」
「北大柔道部で?」
「そうです」
「そうかい。眼に険があるし、身体はごついしと思ってね。そうか。柔道やってたんだ。そりゃでかいはずだ」
「いや。僕なんて小さいですけどね、柔道の世界では」
「みんなでかいのかい。やっぱり柔道は」
「高校生でもね、大きいですよ」
「四高が強いって聞いたことがある」
「他にも札幌第一とか。あと
「そんなに太ってるんだ」
「いや。筋肉で。彼らはバケモノですよ」
「そうなんだ。だったら──」
店主が喋り続けるので私は
十五分以上も話に付き合わされてようやく解放された私は五百円玉をカウンターに置いて店を出た。天上から落ちてくる雪はさらに量を増していた。
先ほど出てきたばかりの社屋のガラス扉を引き、雪を払いながらロビーに入る。革靴のなかにも雪が入って冷たいので、ロビーの椅子に座って雪を出し、履き直した。
二台あるエレベーターがなかなか降りてこないため階段を上がった。三階の組合室の向かいに休憩室があって、古いソファが何台も置いてある。いつもは急いで昼食を摂って休憩室で三十分ほど仮眠を取っているが、今日は店主のためにあまり眠れそうもない。急いで革靴を脱いでソファに身を投げ出した。そしてこの仮眠のためだけに購入したG-SHOCKのアラームを十三分後にセットし、眼を閉じた。
2
四階の校閲部に上がると先輩がむっとして立ち上がった。時計を見ると二分ほど遅れている。それくらいで怒るなよとも思うが、ここの校閲部は間違いなく日本一の激務なのだ。部長も入れて
「校閲! 早く見んか!」
怒鳴られるたびに部員は顔をしかめた。
見開き二ページずつある地方版の数などは道新(北海道新聞)と変わらないのに、すべてをこの人数でチェックしなければならない。先輩によると道新の校閲部は最低でも五十人から六十人はいるだろうということだった。朝日新聞や讀賣新聞、毎日新聞も同じような体制であろう。その十分の一ほどの戦力で大量の原稿を凄まじいスピードで校閲しなくてはならない。目がまわるほどの忙しさだった。
毎日朝から晩まで本版と呼ばれる朝刊ニュース面や夕刊ニュース面を、早版・
結果、在社時間は十四~十五時間、休みは週に一日。部長以外が交代で休むとちょうど七日間が廻り、うまくできている。私自身は体力にはもちろん自信がある。しかしそれでもなかなかきつい。だが顔には出さず、むしろ「軽いですよ」などと言っていた。ただ、それとは別におかしなことが私の身の内に起こっていた。この感覚、誰に話したらわかってくれるだろう。
「増田君──」
古いツイード上下を着た校閲部長が近づいてきた。
「これ、さっき電話があったぞ」
机にザラ紙の原稿用紙を置いた。縦組み十三字、欄外に《北海タイムス原稿用紙》と印刷されている記事執筆用のものだ。メモから何からこの紙を使う者が多い。部長は私の肩を叩いて席へと戻っていく。まあそれはよい。困ったのは電話内容のメモ書きだ。
《
増田先輩が顔を見せないと後輩たちが泣いている。
部長が赤ペンで書いたものだ。しかし読んですぐに「ありえない」と私は思った。美深の合宿が
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