南十字星②
足音だけが、静かに響いている。
僕たちは並んで、ゆっくりと駅の構内を歩いていった。
南十字駅――そこは、世界の終点だった。
どこまでも白く、どこまでも穏やかで、どこまでも痛みのない空間。天井はなく、代わりに淡い青と金の星々が、どこまでも広がる空に瞬いている。
床は光の砂でできていて、歩くたび、ふわりと優しい音を立てた。
柱もベンチも、どこか懐かしさを感じさせる形をしているのに、それは現実のどこにも見たことがなかった。
駅の名を記す看板さえも見当たらなかったけれど、それでも、そこが終着の地であることは僕の胸の奥から確かに伝わってきた。
「まるで……夢みたいだね」
僕が言うと、アルゲディはほんのりと微笑んで答えた。
「夢だよ。でも、ほんとうの夢だ」
二人の歩みは、やがて駅の最奥にたどり着く。
そこには、大きな扉が立ちはだかっていた。
光に満ち、まぶしさを通り越して、眩しすぎるほどの扉。
それはまるで、空の向こう側へと続いている様で、扉の向こうからは、音もない風が静かに流れ出していた。
「ここが……きみの行き先?」
僕が尋ねると、アルゲディは、少しだけ寂しげに、けれど確かな決意を込めてうなずいた。
「うん。僕は、ここで終わり」
その言葉を聞いた瞬間、僕の胸は激しく脈打ち、言葉が喉に詰まった。
「じゃあ、僕も――」
「だめだよ、イオス」
アルゲディは、やさしく微笑みながら、僕の手をそっと取った。
「君は、まだ旅の途中なんだ。ここで終わっちゃいけない」
「でも……っ」
僕は、声を震わせ、言葉を続けることができなかった。唇をかみ締めた。
「僕は、きみと行くって、そう決めて――っ」
そのとき、アルゲディの手が、ふわりと僕の頬に触れた。
そのぬくもりは変わらないはずなのに、どこか、透き通って感じられた。
「ねえ、イオス。ありがとう。僕は、君と旅ができて、本当に幸せだったよ」
「やめてよ、そんなふうに……まるで、これで最後みたいに……っ」
声が震える。涙が、次々とこぼれ落ちる。
僕はアルゲディの手を離さず、必死にその腕を抱きしめた。
「行かないで。行かないでよ。僕を、ひとりにしないで」
そのときだった。
アルゲディの身体が、ふわりと光を帯び始めた。
彼の輪郭が、まるで夢の様に、ゆるやかに溶けていく。
朝の空気に溶ける星のように、記憶の中で消えていく夢のように。
「だいじょうぶ。……きみは、ひとりじゃないよ」
その声は、やさしくて、透明で、遠くなる。
僕の腕の中から、光がこぼれ落ちていく。
指先が、ゆっくりとほどけていく。
腕の中にいたはずのぬくもりが、砂糖菓子のように崩れ、光の粒になって舞い上がっていく。
僕はそれを止めようと、懸命に手を伸ばした。けれど、指は何も掴めなかった。
「アルゲディ…! お願い、置いていかないで!」
叫ぶ声は、駅に反響しなかった。音の届かない、永遠に近い静寂。
光の粒は、やさしく、やさしく、扉の向こうへと吸い込まれていく。
まるで帰るべき場所へ帰っていく様に、自然で、抗えない流れだった。
最後に残ったのは、あのやさしい瞳だった。
もう言葉はなかったけれど、たしかに微笑んでいた。
「ありがとう」「忘れないよ」――そんな想いだけが、目に宿っていた。
そして、瞳もまた、光に還ってしまった。
僕は、立ち尽くしていた。
全身が空っぽになったようで、けれど胸の奥だけが、痛みと苦しみで押し潰されそうだった。
それでも、扉の前から離れられなかった。
そこに、彼がいたから。ほんの数秒前まで、たしかに。
その時、不意に風が吹いた。
白く、やわらかく、何もかもを包むような風。
足元から、ゆっくりと世界がかすんでいく。
南十字駅の光が揺らめき、遠ざかるように、意識がすこしずつ薄れていく。
耳鳴りのような静けさ。
名前のない光。
そして、彼の声が、どこか遠くから響いた気がした。
「……イオス。もう、大丈夫だよ」
僕のまつげがゆっくりと伏せられる。
涙の雫が一粒、頬をつたい、白い砂の床に落ちた。
そして、すべては、光に包まれた。
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