蛇の尾座②

 しばらく、僕たちは何も話さなかった。

 列車の汽笛が遠くで鳴って、それきりまた、風鈴と風の音だけが停車場を満たしている。

 男の人は僕に干渉するわけでもなく、ただ静かに隣にで夜空を見上げているだけだった。でも、僕はなんとなく落ち着かなくて、そっと視線をずらす。

 悪い人じゃないと何となし分かるのだけれど、心のどこかで少しだけ警戒してしまう。

 今までだって、優しそうに見える大人たちが、急に冷たくなったり、いなくなったりするのを知っていたから。

 そんな僕の心を見透かしたように、小さな声で言った。

「無理に話さなくてもいいよ。…ここにいるだけで、十分だから」

 僕は彼の顔を見た。

 少しだけ疲れた目で、夜空を見上げているだけだった。


 それを見たら、少しだけ、胸の奥のこわばりが緩んだ気がした。大きな木の下で、風鈴のような涼しい音が、どこからともなく鳴っている。


 ――カーフが降りたときも、こんなふうに、風が吹いていた。


 あのとき、僕は手を伸ばしたかった。

 でも、何もできなかった。

 カーフは強くて、優しくて、ちゃんと自分の足で歩いていった。


 ヴィルさんも、同じだった。

 遠くなる背中を、ただ見送るしかなかった。


 みんな、それぞれの場所に帰っていく。

 それが当たり前なんだって、わかってる。


 涼しい風が、髪を撫でていった。


「寂しい、って思うのは、悪いことじゃないんだよ」


 彼のその言葉に、胸の奥が、きゅっとなる。


 僕は、言えなかった。寂しいって、一言が。ヴィルさんとカーフを見送ったときも、アルゲディと一緒にいるときも。

 寂しいって言ったら、みんなを困らせてしまう。

 きっと、アルゲディだって、僕の寂しさを聞いたら、笑ってくれなくなってしまう。

 だから、言えなかった。


「寂しいって思うのは、きみが、大切なものをちゃんと持ってる証拠だ。それに寂しいと言う心があるってことは、それだけ誰かを、大事に思ってるってことだから」


 そう、ゆっくり、言葉を置くように話してくれた。


「大切なものを失ったら、誰だって心にぽっかり穴があいてしまうものだ。苦しくて痛くて悲しくて、どうしてどうしてと悔いてばかり。――でもね、空いた穴は、いつか埋まっていくものだ。決して悪いものじゃない。そこに、また新しい光や思いを入れるための場所でもあるんだ」

 彼は、それだけ言うと、それ以上何も言わなかった。

 僕も、何も言わなかった。


 ただ、二人で、風の音を聞いていた。


 静かで、穏やかな、やさしい時間だった。





 並んで、僕はしばらく無言で停車場を歩く。踏みしめるたび、砂利の音がかすかに響く。頭の上では、またあの涼やかな風鈴の音が鳴っている。


 僕はうつむいて、自分の靴先を見つめた。


 カーフのこと、ヴィルさんのこと――そして、今だって、アルゲディのところに戻りたくて仕方ない自分の気持ち。


「大切だから寂しい。それは、すごく、すごく素敵なことだよ」

 ふわりと、肩を叩かれた。その手は、とても痩せていて、でも、とてもあたたかかった。

 ふと顔を上げると、彼は優しい目で笑っていた。まるで、遠くにいる家族をそっと見守るような――そんな目で。

「さあ、そろそろ列車に戻らないといけない。君の旅は、まだ続いてる」

「あなたは?」

 思わず小さな声で聞き返していた。彼は少しだけ目を細めて、空を仰ぐ。透き通った夜空に、ひときわ大きな星が、ゆっくりと瞬いている。


「僕はここにいるよ。ずっと」

 

 そう言ったゴブレットさんの声は、どこまでも静かで、揺るぎなかった。最後にもう一度、ぺこりと頭を下げて、僕は停車場を後にした。


 振り返らなかった。

 振り返ったら、きっと、泣いてしまう気がしたから。


 


 列車に戻ると、アルゲディが僕を待っていてくれた。

 何も言わず、ただ僕を迎えるように小さく笑っただけだった。

 

 ――彼の紡いだ言葉の全ての意味を、本当の意味を、今の僕ではわからなかった。

 でもきっと、いつか。

 もっと遠くへ行ったとき、もっと大人になったとき、あの言葉を思い出すんだろう。

 そう思ったら、胸の奥が、ほんの少しだけ、あたたかくなった。

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