#5

 森を入ったところで、男達に追いついた。

「きゃん!」

 ゆみの姿を認めて、ようやくかぐが声を上げた。

「待ちなさい!」

 ぜいぜいと切れる息のまま男達を呼び止める。

 そのまま振り返らず行ってくれた方が、女にとってはよかったかもしれない。けれど、男達は立ち止まった。そして、追い掛けてきたのが女一人だと見るや、舌なめずりした。二十半ばの年増とはいえ、女は女だ。

 ぞわぞわと背中が総毛立ったが、引き返すわけにはいかない。赤子が助けを待っている。

 犬を抱えていない方の男が、ゆみの方へずかずか近寄ってくる。毛深い腕がこちらへ伸びる。

 避けなきゃ。そう思うのに、体が竦んでびくとも動かない。

 避けなきゃ。助けなきゃ。

 避けなきゃ。助けなきゃ。

 何か、武器。何を。何もない。

 手。手を上げて、賊の顔を打つ。

 なぜ。手、震えるだけで動かない。

 頭の中には色んな指示がぐるぐる回るのに、それが一切運動神経に結びつかない。

 賊の手が、ゆみの肩を掴んだ。

 大きな手にぐっと押さえつけられる。――だめだ。

 ゆみは目を瞑ることしかできなかった。

 ――バシッ。

 すぐそばで何かを叩く音が聞こえた。同時に「ぎゃ」という野太い悲鳴も。肩が軽くなり、恐るおそる目を開ける。

 眼前には蹲る賊と、広い背中がある。

 若い男が、ゆみを背に庇って賊の間に立ちはだかっている。

「姐さん、大丈夫かい。逃げるぜ」

「あ……、だめ。あの子が捕まったままなの」

 振り返った彼が、もう一人の賊が抱くお包みを確認する。

「よし分かった」

 そう言って、彼は賊へ向かった。まるで一陣の風が吹いたみたいに、一瞬の出来事だった。

 あっという間にかぐは彼の腕に抱かれて、二人の賊はしっぽを巻いて逃げて行った。

 彼がお包みをゆみへ差し出す。

「うわ! 犬!」

 胸に抱いた赤子の顔を覗き込んだ彼が、素っ頓狂な声を上げる。

 かぐは彼の腕の中でもぶるぶる震えていたが、彼の慌てように腹を捩って笑うゆみの様子を見て、ようやく安心したのか「ワンワン」と吠えた。「うるせっ」とゆっくり地面に下ろされたかぐは、ワンワンと声の限り彼に吠え立てる。「おいおい、俺はお前さんの恩人なんだぜ」、彼は呆れた表情を浮かべるが、吠えながらもしっぽをぶんぶん振っているかぐの様子に、ようやくゆみは心から安堵した。


 彼もこんぴら参りの途中だということで、同行することになった。

 あのような目に遭った後なので、大変心強い。

 金毘羅宮までの階段を、短足の小犬では辛かろうと、かぐは彼に抱かれて上る。まるで本当の赤ん坊だ。

 大門を越えたところに、べっこう飴の屋台が並ぶ。年増女が幼子みたいに飴を欲しがると笑われるかしら。ゆみが名残惜しそうにちらちら視線を屋台に送っていると、彼が笑った。

「べっこう飴くらい奢るよ」

「えっ、いいわよ」

「いいから、いいから」

 彼が懐から財布を出す。その時、ちらりと胸元に竹筒や巻紙などが見えた。――隠密かしら? ゆみは、新月の夜に黒装束の彼が家々の屋根の上を音も立てずに跳ねる姿を想像した。まさかね。

 実際何をしている人なのだろう。先の様子から大変腕が立つようだが、脇差さえささず武士ではなさそうだ。着流しの様子は大工や人足などの力仕事をする者とも思われない。かといって商人のようにもあらず。

「絵を描いて彼方此方を回ってるんだ。このお参りを済ませたら、町の絵師に弟子入りする予定さ」

 彼は言った。

「絵師? あなたが? 絵なんて描けるの」

 ガタイのいい彼が絵師とは意外だった。

「そんじゃあ、そのべっこう飴を描いてみせましょう」

 懐から筆と顔彩を出して、紙にさらさらと描きつける。

「べっこう飴の絵なんて描くの?」

「ところがどっこい」

 そう言って絵師が広げた絵。

 べっこう飴みたいに黄金色の真ん丸い月が紙面の上部に大きく描かれる。その月へ向かって白いお包みを着た姫が手を伸ばす。

 ゆみはじっとその絵を見つめた。

 ――ああ、あの子は女の子だったんだ。

 すとんと腑に落ちた。数ヶ月間お腹の中にいた命。あの子が今ようやく目の前に出てきた。

「べっこう飴の月と、ここ讃岐の造といえば竹取の翁だ。その月に昇っていく赤子はかぐちゃんを……」

「ううん」

 滔々と解説する絵師を遮る。

「この子はね、月から降りてきたところなの。ほんのひと時だけ、地上に遊ぶのよ」

 自然と言葉が零れた。

「うん、そうかもしれねぇな」

 あっさり受け入れてくれる。

「この姫はね、お花が好きなの」

 言えば、話に合った絵を描いてくれる。

 花が好きな姫は、幻の花を求めて全国を旅するの。道中で、犬の仲間を得る。頼りになるのだかならないのだかよく分からない犬だけれど。傍に誰かがいることはそれだけで心強く、姫は冒険を続ける。

 さらさらとまっさらな紙の上に命が生み出される。柔らかな絵がほんのり心を温かくする。

 物語を紡ぐことで、この子をここに生きさせることができるのだ。

 旅の間、ゆみは、見えない糸を懸命に手繰るように姫の物語を紡いだ。

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