第12話 天国
「真人みたいに自分で命を終えちゃった魂は、天国に行かれないのかなあ?」
夫を失ってから二十年以上は年月が経っていたにも関わらず、心の底からそう心配しているエリちゃんがいた。
まさしく光陰矢の如しという様に、子供達はいつの間にか成人を迎え、それぞれに進む道を探して勇敢にも巣立ちの兆しを見せ始めていた。
二十数年前のあの時、彼女が固く誓った思いは有難くも最大限に功を奏し、子供達の祖父の献身的なサポートにも支えられて、二人共真っ直ぐにのびのびと育ってくれた。
様々な場面で、彼らの父親の事について、エリちゃんはやはり思いを巡らせていたのだろうか。
こんな時、夫ならなんと言うだろう?
これで良いのだろうか?夫は許してくれるだろうか?
思い通りに運ばない子育ての日々、暗中模索しながら、彼女は夫に語りかけ呼びかけて、救いを求めていたのかも知れなかった。
「天国に行かれないどころか、重苦しい何物かが全身にまとわりついて身動きが取れないんだって。」
尚も心痛を表す表情で彼女は続けるのである。
あれほど厳しい体験を強いられて、それでもどこにも逃げ出さずにたった一人で全てを受け止め、暮らしを、子供達を守り抜いた彼女。
ここまで立派に頑張ってやり遂げた上での彼女の言葉に、私は返すべき言葉を見つけられずにいたのであった。
一方、そんなうたかたのよろめきさえ許されないかの如く、彼女には再び現実の厳しい波が打ち寄せ始めていた。
パピーに認知症の兆候が見られ始めたのである。
いずれは必ず訪れる物と予想して、高齢者介護福祉士の資格を取得し、介護の現場に身を置いて勉強に励んではいたが、実際に親の介護の足音が近付いて来る段になると、職業としての介護とは全く別物の、深く心のあり方に関わって来る様な、一筋縄では行かないという複雑な心理状態に陥ってしまうのであった。
兆候が見られ始めると、進行は着実で、思いの外早かった。
徘徊が始まる。
早朝でも深夜でも、玄関のドアを開けて出て行ってしまう。
彼女はパジャマと布団を封印して、外出着のままリビングルームのソファに横になり、いつとも分からぬ、父の足音が玄関に向かいドアが開け放たれる時に備える。
鍵が開けられる音が響くと同時に飛び起きて上着を羽織り、父の分の上着を掴んで後を追う。
寒さを感じていない父の早足に小走りで付き添い、気が済んで帰途に着くまで根気よく付き合うのであった。
パピーの寝室と、襖一枚を隔てた隣の部屋で、普段彼女は床を取っていた。
「襖は隔てていても、ほぼ隣同士で、こんないい歳して親と寝てるなんておかしいよね。」
と言ってよく笑っていたものだった。
今となってはそれが、どんなに平和な日々の象徴だった事かと思える。
いつまで続くのか、もはや状況は改善されないのか、この先はどうなって行くのか。
「一人で抱えないで、周囲に頼ってね。」
そんな事しか言えない私に、
「お陰様で身体だけは丈夫だから。」と気丈に振る舞う彼女なのであった。
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