第13話 パピー
「パピーが会いたがってるから、遊びに来てね。」
エリちゃんがそう言って誘ってくれた日があった。
パピーは私の事を覚えてくれているのかな、と少しの不安を覚えながら、電車を乗り継いで会いに行った。
パピーのマンションのいつものリビングルームに通して貰って待っていると、今は寝ていると言う。
介護ベッドを導入した自室で、午睡のタイミングの様だ。
その日はデイサービスは行かずヘルパーさんも来ない日で、彼女がパピーと二人で在宅していた。
リビングルームでお茶を頂いていると、パピーが起きた様だと言って彼女が連れに行った。
「いらっしゃい。」
久しぶりに会うパピーは、しっかりとした足取りで現れ、張りのある声で歓迎してくれるのだが、その表情には前の様な明るさが見られなくて、懐かしい人懐っこい笑顔が消えてしまっていた。
どこか緊張した、何かを警戒している様な雰囲気をまとっている。
周囲の者まで緊張するのは良くないはずだと思い、私達は通常運転で取り留めのない会話を楽しみ、笑い合った。
するとすかさずパピーが声を低くしてささやく。
「シー。静かにしないとダメだよ。」
そして私を伴って廊下へと歩み出て、そっとリビングルームのドアを閉める。
「そこの所にいるから。気付かれないように静かに。」
多少面食らってパピーと一緒に立ちすくんでいると、エリちゃんがことさらに呑気な声で呼んでくれた。
「ほら廊下は寒いから、お部屋に入りましょうねえ。」
幻覚、幻聴が現れるタイプの認知症で、得体の知れない敵が家の中にいると感じているのだそうだった。
福祉のサポートを最大限に利用しながらとは言え、24時間体制での介護は、余程の覚悟がないと出来ないだろうと思ったし、覚悟はしても、持続させる事はもっと大変な事だろうと、打ちのめされた様な気分で帰りの電車に揺られた私であった。
『肖像画、描いて貰いそびれちゃったなあ。』
目をつぶると、キャンバスに向かって楽しそうに筆を運んでいるパピーがありありと見える気がするのに、現実はかくも残酷なのであろうか。
そして時の流れが容赦なくエリちゃん親子を翻弄するかの様に、パピーは程なくして寝たきりとなり、オムツ交換が必至となった。
孝行娘の代表の様な彼女は、時間を決めてオムツ交換をするのではなく、父の様子を注意深く観察する事によって、必要に応じて適切に対応し、父が汚れたオムツを着けたまま交換時間まで放置されるなどという扱いを決してされない様に気を配っていた。
また、排尿トラブルに備え、徐々に尿道バルーンカテーテル挿入などの医療的措置も受ける様になった。
怒涛の様な介護の日々が訪れていた。
それでも、仕事を減らして父の介護に全力投球する娘であった。
見かねたヘルパーさんの助言に従い、ショートステイで施設に預ければ、環境の変化で不安を覚えたパピーは、尿道バルーンを自分で抜いてしまう。
すると医療的対処は施設ではカバー出来ないので、結局は急遽受診、入院の流れとなり、彼女の負担が一気に増えるのみなのであった。
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