第10話 衝撃
彼女は、高齢者介護職員の資格の取得に向けて邁進し、実際に介護施設での勤務を開始していた。
同居している実父もいよいよ後期高齢者となり、今はまだ元気に活動出来ているとは言え、今後必ず訪れる老いの問題に対して、娘としてきちんと不安なくケアする事が出来る様にと、そんな思いもあって、高齢者福祉の仕事に携わり、研鑽を積んでいるのだった。
嫁としての義務感に突き動かされてお世話していた義実家については、少なからず反省の意を感じ、またそれ以上に強い憤りを覚え、すっかり足が遠のいていた。
純粋にしゅうとの身の回りのお世話をさせて貰っていたつもりだった自分の、認識の甘さに嫌という程気付かされて、落胆と悔恨と戸惑いの渦中に放り出された様な心理状態を抱えていた彼女であった。
あのガス台の前での気まずい出来事があった後、彼女は義父に呼び出されていた。
「美味い天ぷら屋があるんだよ。ご馳走するから出て来なさい。」
電話越しの声には張りがあって、悪びれた様子も感じられない。
『もしかしたら、この前の不埒な行動を謝罪してくれるのかもしれないな。』
そういう事ならこちらとて、事を大袈裟にするつもりもなし、謝罪を受け入れて、水に流して差し上げましょうかと、気風の良い彼女は快諾した。
その日彼女は、義父がどんな風に先だっての無礼を詫びてくるのか、半ば楽しみにしながら天ぷら屋に向かった。
既に義父が座っていたテーブルに着き、笑顔で挨拶をした。
『こんな高級なお店はなかなか来られないからなあ。役得役得。』
ホクホクとおしぼりを開けて手を拭う。
せっかくの機会なので、自分のお財布から出す時には視野にも入って来ないであろうランクのメニューに決め、店員に告げた。
『まさかお義父さん、文句は言えませんよねえ。フフフ。』
内心はこうであったが、表向きには、
「今日はいいお天気になって良かったですねえ。」とにこやかに振る舞う。
新鮮で高級な食材に必要以上に手を加える事なく、素材の持つ風味を最大限に引き出して、軽やかな衣でサクッと仕上げてくれるプロの味に、彼女はすっかり魅入られてしまった。
『自分が作るあんなシロモノなんか、全然天ぷらとは言えないよ。』
事実とも遠からじ自虐ネタは、もちろん心の声として、次々と出される揚げたての天ぷらを、一番美味しいうちに、と、遠慮なく味わっていった。
ひとしきり美味に酔い、お腹も満たされて、ゆったりと余韻を楽しんでいた彼女は、前触れもなく、耳を疑う義父の発言に、胃袋がひっくり返るほど驚愕した。
「この後、ホテルに行こうじゃないか。」
元々丸い目を思わず見開いて、まじまじとしゅうとを見る。
「エリさんも、うちの息子がああいう事になって、寂しいんだろう?」
心が広く人間性が豊かで、本当の意味で教養がある彼女は、義父のためを思ってしていた事が、逆に義父の心配を煽る結果を招いてしまったという事を、懸命に詫びた。
自分の浅はかな行動が、義父に完全なる勘違いをさせてしまったのだと。
義父の謝罪を期待して来た訳だったが、蓋を開けてみると、実際は謝るべきは自分の方だったと悟ったのだった。
未亡人になった嫁を誘うなどと、そんな恥ずかしい事を義父にさせてしまったのだった。
しかし、心から詫び、言葉を尽くそうと努力する彼女に対する義父の行動は変わらなかった。
それどころか、むしろ押しが強くなって来る勢いだ。
彼女は頭の中が激しく混乱したが、遂に思考の限界に達した。
「この、スケベおやじ!」
そう叫ぶと、おしぼりを思い切り投げつけて、天ぷら屋を走り出たのだった。
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