第9話 嫁の務め
エリちゃんの夫の実家は老舗の呉服屋であった。
長男に嫁いだ彼女は、夫亡き後も、義実家の店舗に通って家業の手伝いをしていた。
学生時代から、茶道や華道に親しみ、和のしきたりに普段から触れていた彼女だったので、お店に立って接客をする事もいとわず、持ち前の明るい性格も手伝って、自然体で楽しみながら働いていた。
店頭に出るだけでなく、義両親の生活面の世話も見ており、毎日の様に、夕食の支度を整えてから自宅に帰宅するのであった。
強く望まれてやっていた訳では無かったが、息子を失って気を落としている義両親の様子を見るにつけ、自分が夫の代わりに出来る事は無いのだろうかと、どこか義務感の様な思いに突き動かされて、通っていたのである。
日によっては、店番もそこそこに、義父の晩酌の準備にかかり切りになる事が往々にしてあった。
義父はマグロの赤身が好物で、酒の肴には飽きもせず、判で押したように赤身の刺身を要求した。
馴染みの鮮魚店に買い出しに行くのも嫁の役割で、すっかり顔パスの状態になってスっと品物を差し出され、それを受け取る所作まで年季の入った職人じみて来るのが、彼女自身可笑しかった。
まな板の上で柵を切り分け、そつなく晩酌の準備を整えると、義父が一杯目に口を付ける頃合いを見て暇をするというのが彼女のルーチンであった。
雑務に追われて何かと外を飛び歩いている義母の代わりよろしく、かいがいしく世話を焼いてくれる嫁に対して、義父は少し複雑な心情を抱えていた。
勝手な真似をして一人で逝ってしまった我が息子の忘れ形見である幼い孫たちを、女手一つで引き受けて、これから先育てていく使命を負ってしまった若い嫁だ。
人情味溢れる優しい性分で、一家の潤滑油の様な役割も知らず知らず担っている様な性格の義父にとっては、この嫁が不憫でならない。
「一人で大丈夫かい?」
「困ってる事はないか?」と、晩酌の度に気遣いの言葉をかけるのだった。
前向きな気持ちで日々の暮らしをこなしていくだけで精一杯であろう義理の娘が、健気にも笑顔を作って自分に向けて答えてくれる瞬間は、そのいじらしさに胸が締め付けられる様な思いを抱かざるを得ないのである。
『こんなに良い娘が、思いも寄らない苦労を背負わされて、ましてやしゅうとの自分にも散々尽くしてくれて、有難い事だが、内心はきっと寂しくて心細くて仕方がないはずだ。』
何か、このいたいけな嫁を励まして力付けてやれる事はないのだろうか。
彼女が特にこれと言った思い入れもなく、ルーチンとして淡々と行っていた事が、義父の心を良くも悪くも惑わせてしまっているとは、彼女は夢にも考えていなかった。
ある日の午後、夕刻が迫ったので、いつもの様にお台所に立った時だった。
お吸い物の出汁を取ろうとガス台に鍋をかけたが、ガスの火が点かないのだ。
ガスの元栓を確認する事はもちろん、何度試しても点火しないので、彼女は隣のリビングルームにいる義父に声をかけた。
「ガスの調子が良くないようなんですが。」
ガス台の前に歩み寄った義父は、彼女がやっていたのと同じ様に何度も試してみるも、埒が明かない。
二人で並んでガス台に手をついてしばし佇むばかりであったが、ひとときの静寂の後、やおら義父は向き直って、彼女の手を取った。
両手で彼女の腕を掴み、今にも力強く抱き締めるのではないかと思われた。
「ちょっと、やめてください!」
当然の反応を示した嫁の声で我に返ったしゅうとが、ハッとして手を離し、再び訪れた沈黙が甚だ気まずい物になった事は言うまでもない。
何事も無かったかの様に帰り支度をして、そそくさと義実家を後にした日なのだった。
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