第8話 父親
私達がまだ子供を授かっていなくて、仕事の都合さえ付ければ比較的自由に過ごす事が出来ていた時期に、エリちゃんとそのお父様と私とで、海外旅行に出かけた事があった。
行き先は、オーストラリアのゴールドコーストである。
私達が精一杯の親しみを込めてパピーと呼んでいた、彼女のお父様のご希望で、年末の冷え込みが厳しい日本から、南半球の夏空を求めて一路飛び立った。
クリスマスに出発してお正月前には帰国するというコンパクトな旅ではあったが、とても内容の濃い、思い出深い旅であった。
特に私にとっては、数ヶ月前の秋に結婚をして新生活をスタートさせてからまだ間もない時期で、仕事をしながら家の事も切り盛りしなければならないという慣れない状況に目まぐるしく翻弄されていた日常から離れ、大好きなエリちゃん親子に本当の家族の様に仲間入りさせて貰って、心身共にリフレッシュする事が出来る、有難くも貴重な時間だった。
エリちゃん親子にとっても、特別な旅になり得た事は相違ない。
最愛の妻、そして母を病で亡くしてから、父娘二人で支え合い励まし合って生きて来た。
こうして、娘が嫁いた後も変わらず共に楽しい時間を過ごせる事に、パピーは心の底から感謝していたに違いないのだ。
底抜けに明るく眩しいゴールドコーストの夏景色の中に、身も心も放り出してしまいたい、という衝動に駆られたのではなかったか。
私達は明るい光に包まれて、白く輝く砂浜で飽きるまで遊んだ。
広大なビーチを遮る物は何も無く、どこまでも贅沢に続いているエメラルドグリーンの波打ち際で、童心に帰ってビーチボールを投げ合った。
日が暮れるとパピーはソワソワし始め、ディナーのお店の算段に取り掛かる。
ホテルで済ませる様な陳腐な真似はせず、地元のお店に飛び込みでアタックしようという腹積もりなのだ。
普段からスケッチ旅行に出かけては、あちらこちらに飛び込みで体当たりしていたであろうパピーの経験値の高さを活かした、とてもスリリングで新鮮な夜を過ごしたのである。
ロブスターをお腹いっぱい頂いて、ダンスフロアで軽くひと踊り。ほろ酔い気分での帰り道では、街灯に照らされた歩道で、昼間抱っこして来たコアラの子供になり切りながら街路樹に抱きついておどけているパピーに、今年一年でダントツに笑わされていた私達であった。
楽しい旅の日々にも、非情にも終わりが近付いて来てしまう。
あの懐かしい卒業旅行の様に、フットワークも軽くもう一泊出来たら、どんなにか幸せだろう。
不思議なくらいに笑顔が絶えなかった、ハートフルな親子旅は、たくさんの温かい思い出という自分へのお土産に彩られて、終わって行くのだった。
帰りたくないな。声にならない声が各自の胸の中に響いていたのであろう。帰国のフライトで、前の座席の背もたれに付いているドリンクホルダーを、意味も無く開けたり閉じたり無心にいじっているエリちゃんがいた。
見るともなしに見ていると、あちら側の隣席のパピーが、「リーちゃん、ダメだよ、リーちゃん。」と、半分まどろみながら言っている。
小さかった子供の頃の彼女が、こうやってパピーに注意されていた場面が想像出来る様だった。
パピーはこうやって娘を育てて来たんだなあ、親って有難いなあ、と感じる反面、『エリちゃんはもう大人なんですよ。』私は心の中で呟いた。
すると同時に、エリちゃんのお母様が、一瞬ふっと笑った様な気がした。
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