第7話 本望

夫の本望は一体何なのだろう?

 志半ばにしてこの世を去らざるを得なかった程の、本望とは。

 そして夫の無念とは。

 そういう類の物があるとして、もしもこの世に生きる者が、その無念を代わりに晴らしてあげる事が出来る物ならば、何とかして晴らしてあげたい。

 いや、晴らしたい。

 自分自身がどうしても晴らしたい。

 彼女は、法的手段を駆使する事を決心した。

 お金も、時間も、心労もかかる。

 しかし、幼子を二人抱えた彼女は、固い決意を持って弁護士事務所の扉を叩いたのだった。

 幼子は日々成長して、たくさんの事を吸収していた。そして屈託のない天使の様な笑顔を、母親に惜しみなく見せてくれる。

 それがどれだけ、彼女の心の励みになった事か。

 唯一心休まるひとときだ。

 子供達に安定した生活環境を与えるためにも、この出来事が起こる少し前に父親が移り住んでいたマンションの一室に、彼女は身を寄せた。

  子供達の祖父は、言わずと知れた無類の子供好きである。

「孫にまごまごしています。」などとおどけたりしながら、父親不在の家庭に対して子供達が違和感を持つ事なく育って欲しいという願いの下、娘の子育てを助けて、生涯を共に暮らす事になるのである。

 子供達に手がかかる内は、子育てに専念した彼女だったが、将来を見据えて、資格取得のための努力を怠る人ではなかった。

 高齢者福祉関係の職を得ると、子育てとのバランスを取りながら、実際に介護施設での勤務を開始した。

「楽しいおじいちゃんがいてね。私が行くと色々心配してくれて世話を焼いてくれるのよ。」

 そう言って報告してくれる彼女は満面の笑みでとても嬉しそうである。

 お年寄りは可愛くて優しいから好きだと言って、激務であろうはずなのに、楽しみながらお勤めをしていた。

 ある時は、施設の食堂のコックさんから思いを寄せられて、余った食材だと言っては彼女のロッカーに貢ぎ物を忍ばせられる事もあった。

 ところが一向に気のない彼女は、脈がない事を伝えるために、「中学生になる息子の好みの食材ではないので。」と、丁重にお断りしていた。

 高齢者介護のお仕事は、責任が重くて、肉体労働で身体がきつく、容易に務め続けられる物ではないという事を、彼女の話を聞く中でひしひしと感じたものだった。

 入浴介助の様子などは、聞いているだけでも立ちくらみがして座り込んでしまう様な錯覚に陥る。

 介助者はTシャツに短パンのいでたちで、中腰の姿勢のまま高齢者の身体を洗い、事故のないように細心の注意を払って入浴を終えてもらうのだが、次から次へと利用者さんが運ばれて来るので、流れ作業で延々とこなさなければならない。

 温度、湿度共に高い状態の浴室で、汗だくになりながらの入浴介助は、様々な職務の中でも特に心身共に消耗する内容だという事だった。

 頭が下がる思いでこの様な彼女の話に耳を傾けたのは、件の出来事が起こってから、ゆうに十年近い年月が経ってからであった。

 彼女は立派に、夫が生前に心血を注いだ功績を世に問い、夫の生きた証をしっかりと認めさせるという一大事業をやってのけたのだ。

 その進捗状況や結果報告の連絡などは、私は一切望まなかったので、十年近い年月分、二人の間にはポッカリと穴が空いてしまっていた。

 それでも再び、どちらからともなく連絡を取り始めて再会を果たすと、自然に前の様な関係に戻り、無邪気に日常の出来事の報告を交わせる間柄を取り戻していたのだった。

 山中湖の小さな朽ちたボートが、二十年の時を経て再び、私達を乗せて静かに湖を漂い始めたかの様に。

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