第2話
「美しい絵ですね」
礼拝を終え、騎士たちが聖堂を後にすると、神父とネーリだけが残り、少し片付けをした。といっても騎士たちは聖書も聖堂も綺麗に使うので、礼拝に使った道具を綺麗に磨く程度のことだ。
聖堂の床も、担当は決まっているらしく、いつも綺麗に保たれている。
神父も神聖ローマ帝国の駐屯地の聖堂の清潔さには感心していた。
今まで礼拝を疎かにして、行っていなかったと聞いたので多少心配していたらしいが、礼拝に対して騎士たちも真摯で、聖堂は礼拝の場として使われていなかったが、聖母子像や他の聖人像や祭壇は、綺麗に保たれていた。
トロイに聞いたが、やはりそれは神聖ローマ帝国軍全体のというより、フェルディナントを軍団長としたこの竜騎兵団特有の習慣らしい。戦時の最中でもフェルディナントは駐屯地の規律や整理整頓には厳格で、本国の駐屯地も非常に清潔で美しいようだ。
スケッチにも描かれているこの部隊の、こまめに掃除をしたり、ものを綺麗に保ったりするという性格は、軍団長のフェルディナントの性格が起因する所が大きいのである。
(フレディって、僕の絵を綺麗だって誉めてくれたけど、もともと美しいものが好きな人だったんじゃないかな?)
芸術なんかに見向きをしない人生を送って来たよと本人は苦笑したりしていたが、芸術の感性と捉えないだけで、フェルディナントが美しいと感じるものや、感性は、きちんと確立されたものがあるような気がする。
神父が新しい絵を二つ見上げて、そう言った。
「ありがとうございます」
「夜のヴェネツィアの絵は何枚か見たことがありますが……貴方が夜の絵を描くのは珍しい気がします。ですがさすがに美しい」
「久しぶりに夜の船に乗って、どうしても夜の海を描きたくなったんです。その星の輝きと包み込んでくれるような空気を」
「伝わってきますよ」
神父が微笑むと、ネーリは嬉しそうな顔をした。
この船はイアンが乗せてくれた船から降りて、すぐに描きたくなって、教会で仕上げた。
その前の数日は、教会にいたのはフェルディナントに会い難いからだったのだが、その日からは本当に、夢中で描き込み、頭の中にあったイメージを全てそこに描き出した。
水面に、夜空が映り込む。
鏡のように。
しかし実際、海の青は空の青なのだ。
海に青い色がついているわけではないのだから。
空を映す、鏡が海なのだ。
この二つは繋がっている。
天地が創造されたその時から、神さまがそうあるように、作ったのだ。
ネーリは、フェルディナントに話したいと思った。
許してほしいとか、そういうのではなく、フェルディナントが求める問いに自分が答えられるなら答えたい、そう思う類いである。
でも話すべき内容には必ずネーリの出自が付きまとう。
王妃セルピナは『ジィナイース』の名前を奪った。
ネーリが誰かに「お前は何者なのか?」と聞かれた時に、答える術がないように。
しかし、王家の記録からジィナイース、という名前を消せばいいのではないのだろうかとも思う。自分がジィナイースを名乗ったって、王宮にそんな人間がいる記録が無ければ良いのだから。
【ジィナイース】……
自分を呼ぶあの声……。
確かにジィナイース、と呼んだ。
王妃からは、自分をこの世から消し去りたいほどの憎悪を感じるのに、彼女はローマの城に移るならば、生活の為の援助はしてやる用意がある、と言っていた。
不思議なのだ。
何故ローマの城に住ませようとなんてするんだろう。
祖父の何らかの、王宮外でいいから何とか世話をしてやってくれ、という遺言でもあったのだろうか、とも思うのだが、それを実行する用意のある人が、ヴェネトに居続ければ命を奪うことすらあり得るかもしれないのだなどと、脅して来るだろうかと思う。
自分がジィナイースと名乗ったって、それを知る人など、ヴェネトにはもういない。
船に乗っていた人たちは多国籍の人々だったが、祖父が王宮に戻ると、彼らもそれぞれの国に戻って行ったのだ。
ヴェネトの一般市民になった自分の名前など、彼らに届かないと思うのだが……。
しかし、絵を競売にかけることを、王妃が非常に嫌がっていた。
絵がどこかの国に売れれば、そこから自分の消息を掴む人がいると、そう思っているのだろうか?
随分細かいことを考えるんだな……と思う。
(僕の絵)
自分の絵だ。
勿論、自分の中にある情景をそのままに誰も描いてはくれないから、ネーリは自分の絵が好きだ。
この世で一番自分に寄り添ってくれていると思っている。
街の片隅で、見てくれる人は、とてもいいねと誉めてくれるけれど、正直宮廷画家になる才能だ、などと言われたことはなかったし、ヴェネトには他にも素晴らしい才能を持った画家たちがたくさんいることも知っている。
自分は好きに描いているだけだ。
描くための勉強は全部独学で、とにかく動物も建物も人も、スケッチをすることで、ここまでに至った。
自分は大好きだけど、この絵が貴族の屋敷に飾られて、王宮に飾られて、多くの人の話題に上り、他国の人の耳に入るようになるなんてことが、彼はイメージ出来なかった。
知り合いは誉めてくれるが、実際に売れたことが無いので、正直自分の絵が売れる領域のものなのかどうかが、ネーリはまだ分からないのである。
(……僕は少しだけこの絵が売れて、何の見返りも求めず描く場所を与えてくれた人達に、ちょっとだけ何か恩返しが出来ればいいなと思っただけなのに)
それまで王宮の人間など、自分を忘れたように一切周囲に現われなかったのに、絵を競売に掛けた瞬間に警告に現われた。
【ジィナイース・テラ】というその名を王妃が嫌い、或いは恐れているかのように振る舞うことがある。彼女はその恐れる名を、自らの子供であるルシュアンに与えた。
その意味だ。
(全然分からない)
その名をこの世から抹殺するのではなく、奪った。王妃ならば抹殺出来ただろうに、彼女はしなかった。人の命を奪うことを恐れる人なのかもしれないという答えは、三国が滅ぼされた時に吹き飛んだ。彼女は人の命を奪う時には奪う。
(あの人の望みは一体何なんだろう? 【シビュラの塔】を起動させたのは、やっぱりあの人なんだろうか?)
それとも病床にあるという王が、そうしたのか。
イアンは撃った人間が扱いきれていないのではないか、と表現していた。
(イアンは……シビュラの塔が今もまた起動するのか、撃つことが出来る状態なのかどうかが分かるだけでも脅しが無効化されると言っていた。フレディに、過去のことは、許されることはないけど、これからの未来ではあんなことはないと、言ってあげれたら……)
そこまで話せたら、話す意味もある。
(今、【シビュラの塔】はどうなっているんだろう?)
黄金の扉は開いたままなのだろうか。
閉じた扉は開けられないと聞いた。
閉じていれば、開けられないということだ。中に入れないなら、起動は出来ない。
そのはずだとは思うけど。
(もし、お兄ちゃんが……扉を開けることが出来たら、ヴェネトは再び、【シビュラの塔】を動かせるってことだ)
ルシュアン・プルート。
自分の双子の兄。
しかし会ったことも無いのだ。
生まれた時に彼は王宮に引き取られたし、ネーリが王宮にいた短い間も、王妃セルピナが会わせることを嫌い、結局顔も見たことがない。双子なら、容姿も自分に似てるのだろうか。それとも実の母親ではないけれど、王妃セルピナに似た性格をしているのだろうか。
ネーリの母親は、物静かで内向的な少女だったというが……。
兄がどんな人か全く分からないから、不安になる。
【シビュラの塔】を喜んで使うような人なのか、治安の悪化しているヴェネツィアの街を、どうにかしようと思ってくれてる人なのか、何も分からない。
分かるのは、血の繋がっていない母親である王妃は、決して慈悲を望めるような性格をしていないということだけだ。
兄がもし、母親である王妃を場合によっては諫めてでも、国民が平穏な暮らしが出来るよう、寄り添ってくれるような人なら、そう遠くない未来にあると噂されている譲位と戴冠で、ヴェネトの未来はいい方に変わっていくかもしれない。
王妃と話し合いが出来なくても、兄が、イアンや、フェルディナント達と話し合って、【シビュラの塔】をどうして行くかということを、考えて行ってくれるような人であるなら。
(【シビュラの塔】が今どうなっているのかと、お兄ちゃんがどんな人か、自分の目で確かめてみたい)
ネーリはもはやヴェネツィア王宮には寄り付きたいとも思ってはいなかったが、初めてそんなことを考えた。
フェルディナントに話すのはそれからだ。
シビュラの塔がもし閉まっていて、兄が信頼出来そうな人なら、もうきっと、同じ悲劇は繰り返さないだろうから、とそれだけは言ってあげられる。
ネーリが描いた駐屯地の絵をゆっくりと見ていた神父がそろそろ帰りますと声を掛けた。
「お送りします、神父様」
「ああ、大丈夫ですよ。待たせてある馬車で帰りますから」
「でも……」
「教会に戻り、今日は街の会合に同席するんです。みなもう食堂に集まっているでしょう、
真っ直ぐに戻るから心配はいりませんよネーリ。この絵を仕上げるのに最近寝てなかったことを知っていますよ。今日はゆっくり眠りなさい」
神父にそこまで言われたので、ネーリは「はい」と笑って頷いた。
駐屯地の外までは見送りに行く。
「ここでも貴方がとても大切に預かっていただいているようだということが分かって、私も安心しました。フェルディナント殿はとても良いお人です。貴方は人に頼ることがあまり無い人ですが、何かあった時は力になってもらいなさい」
「でも、フレディは神聖ローマ帝国のひとです。彼には神聖ローマ帝国に、たくさん、力になってあげなくちゃいけない人るひとです」
馬のところまでやって来て、神父は笑った。
「では、その数多の中の一人に貴方も入れていただきなさい」
ネーリは目を瞬かせる。
「ネーリ。あの方は貴方に、絵を売って、自分の実りにきちんとしなさいと言って下さった人です。言葉だけではなくご自分でも実際、貴方の絵を買って下さったのでしょう?
そこまで言って下さる方は、とても貴重な存在ですよ。貴方の才能をただ浪費するだけではいけないと言って下さる、そういう人こそ、貴方のことを本当に想って下さっているのです。……貴方は教会に来た時から、たくさんの夜を継いで、たくさんの絵を描いてきました。描けました、と目を輝かせて、躊躇いも無く私に渡してきてしまった。あまりに貴方が嬉しそうだったので、私もつい、そのまま受け取ればいいのだなどと、そのままにしてしまいましたが。本当は私が、あの方と同じことを言わなければならなかったのです」
「神父様、そんなことは……僕が勝手に、そうしていたことですから」
「いえ。……不思議だとは思っていたのです。貴方のあの素晴らしい絵が、売れないはずはないと、私も思っていたのに、詮索するべきではないなどと思って何も言わなかった。
人の人生を見つめ、導き手にならなければならない聖職が、貴方はまだ若いのに、この子は一人で大丈夫だろうなどと、どこかで思っていたのですから。……とても自分を恥じますよ」
ネーリは首を振った。
「神父様は僕が勝手に教会に入り込んで聖母子像を描いているのを、怒らないでそのままにしてくださいました。いつ来てもいいのだと声を掛けて下さって、アトリエまで使わせて下さった。十分すぎるくらい、僕はもう頂いているんです」
神父は小さく笑んで、頷いた。
「貴方がそう思うのならば」
これ以上言うと、こちらに気を遣わせまいとしているネーリを逆に苦しませる気がして、神父は言葉を止めた。
「はい」
教会は、身寄りのない子供たちを引き取り、育ててもいる。ネーリはまさに、身寄りのない子供だ。だが彼を見ていると、何故こんなに才能豊かな彼が、不自然なほどの孤独の中にいるのだろうと思うことがある。こんなに誰もに愛されることが出来る才能、人柄を持っているのに、彼の周囲には切り取られたように、不自然に人がいない。
ネーリ自身がそれでいいのだと、自分はそういうものなのだと、どこかそれを肯定してしまっているから、悲愴感が少しもないけれど。
――だが、孤独でありたい人間など、決していない。
「ヴェネトの……。いえ。ヴェネツィアのネーリ・バルネチア。
どんな運命が貴方に課せられようと、貴方も神の前では彼の愛しい、子供のひとり。
貴方も誰かと共に生きていいし、誰かと幸せになっていいのです。
神は貴方のことも間違いなく、見守っておられますよ」
神父はネーリに対し、祝福の印を切ると、馬車に乗り込んだ。
「子供たちが貴方に会いたがっていますよ。またいつでも教会に来なさい」
ネーリは祝福を受けて、温かな色をした頬を見せて微笑んだ。
「はい。おやすみなさい」
馬車が街道を去って行く。
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