第2話 マユラ、南に向かう
アルティナ公爵家から歩いて小一時間ほどで、湖畔の街ヴェロニカに辿り着いた。
これはアルティナ公爵領の中でも一番栄えている大きな街である。
ガラス工房が多くあり、街を歩くと美しいヴェロニカグラスの杯が飾られているのをよく見ることができる。
幼い頃からレイクフィア家の小間使いをしていたマユラは、金はあるが浮世離れしていて管理の下手なレイクフィアの両親に変わり、家計を預かっていた。
怒られないように必死だったし、褒められたくて必死だった。
今はそのどちらの感情も両親には感じない。
ともあれ、そういった幼少期からの環境が少しは役に立っているのか、魔法の才能はないが商売の才能はあった。
嫁いだ時には無名だったヴェロニカグラスをブランド品にしたのは、マユラである。
当時は各ガラス工房でぐちゃぐちゃだったデザインを統一して、鮮やかな発色とさまざまな模様の入った杯をヴェロニカグラスとした。
アルティナ家には金がなかったが、権力はあった。
オルソンは国王の従兄弟にあたる。そのため、レイクフィア家に男爵位を授けるという口利きができたのだ。
それを活用してヴェロニカグラスを国王に献上した。
美しいグラスを王妃が非常に気に入り、次の週には晩餐会用のヴェロニカグラスの発注が五百ほどあった。
王家が晩餐会で使用したとなれば、他の貴族も欲しがる。
ヴェロニカグラスは一躍有名になり、マユラはあまりの忙しさに寝不足に、職人たちも寝不足になったというわけである。
「マユラ様、こんにちは!」
「今日はお一人ですか?」
「マユラ様のおかげでヴェロニカグラスはとても順調ですよ。観光客も増えましたし、発注は後を絶たない。グラスは割れますからね。割れたらまた発注が入るので、忙しいったらないですよ」
乗合馬車に乗るために街を歩いていると、皆に話しかけられる。
街の者たちとはいわゆる戦友のような間柄である。
食糧不足の時に芋料理を振る舞い、ヴェロニカグラスを共に作って売り、そして機織り工房も各地で立ち上げ女性たちの働く場所を作ったマユラは、人々から『気さくで聡明な公爵夫人』と呼ばれていた。
「それはよかったです。皆さん、今までとてもよくしてくださってありがとうございました! 私はオルソン様から離縁を言い渡されましたので、皆さんとは会えなくなってしまいますが、皆さんの親切は忘れません!」
礼儀正しい挨拶をいつも心がけているマユラは、話しかけられるとはきはきと言葉を返した。
街の人々はアルティナ公爵家の使用人たちのように青ざめて、果ては泣き出すものさえいた。
「そんな、マユラ様!」
「マユラ様がいなくなってしまうなんて、俺たちはこれからどうしたら」
「皆さんの日常はこれまでと変わりませんよ。軌道に乗ってしまえば、船は多少の荒波などもろともせずに進んでいくものです。ヴェロニカグラスもヴェロニカ織りも、もうとても有名ですから、あとは皆さんの力があれば大丈夫です」
そう言って、ふとマユラは気づいた。
なるほど。商売をするのはいい考えだ。
ずっと忙しかったものだから、森の中で楽隠居でもしようかと思っていた。
誰もいない場所で一人で、たとえば寿命が六十年だとしたら、あと残り四十年の余生を過ごそうと。
だが、そんなことをしようものならあっという間に、こっそり貯めていた少ない金貨を使い果たしてしまうだろう。
南に行こう。寒いよりも暖かいほうがいい。
南には──王都がある。
王都にはレイクフィア家もあるのだが、王都は広大だ。片隅でひっそり商売をしているだけなら、両親に見つかることもないだろう。
そもそも、家族たちはマユラに興味などないのだ。
魔法が不得意な落ちこぼれだったからこそ、マユラをオルソンに差し出したのだから。
そもそもプライドの高い両親が、爵位を渡すから金をくれなどという不愉快な申し出を受けたのは、マユラというちょうどいい人身御供がいたからである。
「マユラ様、行く場所がないのなら我が家に来ますか?」
「俺の家も大歓迎ですよ、マユラ様!」
「ありがとうございます、皆さん。でも、オルソン様にはご迷惑をかけられません。オルソン様とリンカ様には御子ができましたので、私はアルティナ家の領地から離れる必要があるのです」
「なんと……!」
「ひどい!」
マユラの話を聞いて、特に女性たちは激怒した。
自分がマユラの立場だったらとても許せないと怒る彼女たちを、マユラは苦笑しながら宥めた。
感謝の気持ちだと言って皆が金を渡そうとするのでそれは丁重に断って、マユラは乗合馬車に乗り込んだ。
いつの間にか、マユラを見送る人々で、乗合馬車の停留所の前はいっぱいになっていた。
マユラの両手も、金を受け取らないならとその代わりに渡された食料でいっぱいである。
「マユラ様、お気をつけて!」
「どうか、ご無事で」
「次に会うときは私はただのマユラです。私も頑張りますので、皆さんも頑張ってくださいね!」
乗合馬車は、ゆっくりと進み出した。
見送ってくれる人々に、マユラは大きく手を振った。
アルティナ公爵夫人でいたときはそれはもう忙しくて大変だった。
けれどこんなに皆に声をかけてもらえるのなら、そう悪くはなかったなと、笑顔で街の人々に別れを告げたのだった。
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