今日からはじめる錬金生活〜家から追い出されたので王都の片隅で錬金術店はじめました〜
束原ミヤコ
第1話 マユラ・アルティナ、追い出される
その時マユラ・アルティナは、綻びそうになる口元を必死に我慢して引き結び、神妙な顔をし続けていた。
「マユラ、ここに離縁状がある。お前はもうこの家から出て行っていい」
そう言っているのは、マユラの夫である。
オルソン・アルティナは、金髪に碧眼のいかにも貴公子然としたすらりとした長身の男だ。
マユラよりも四つ年上の二十四歳。
マユラがアルティナ家に嫁いでから四年経つが、会話などほぼしたことがなく、マユラにとっては夫というよりは他人であり、他人というよりは上司である。
「マユラさん、ごめんなさい。私とお兄様は愛し合っています。マユラさんは邪魔なのです」
その夫にピッタリと寄り添って、今にも泣き出しそうな顔でしおらしいことを言うのは、リンカ・アルティナ。
こちらはマユラと同い年の二十歳。艶々で真っ直ぐなピンクブロンドの髪に茜色の瞳をした、まるで天使か女神かと言わんばかりの可憐な女だ。
「お前がこの家に来て四年。お前には子ができず、リンカに子ができた。先に生まれた子が嫡子となる。余計な揉め事を起こさないためにも、お前はこの家から出ていけ、マユラ」
最もらしいことを滔々と述べているが、要するに浮気相手のリンカとの子ができたので、マユラは邪魔だ──と。
そう、言いたいのだろう。
マユラは神妙な顔をできるだけ崩さないように気をつけながら、粛々と「わかりました、旦那様」と頷いた。
マユラはさっさと荷物をまとめると(といっても、あるのは幾許かの隠し金貨と着替えぐらいだ)アルティナ家を出た。
アルティナ家の使用人たちは心配そうに、心許なそうにマユラを見ていたが、誰もマユラを見送らなかったし、声をかけるようなこともなかった。
当然である。そんなことをしようものなら、次の日にはオルソンによってクビにされかねない。
彼らには彼らの仕事があり、彼らの人生がある。
それをよくわかっているので、マユラは別段何も気にしていなかった。
むしろ、ようやくこの牢獄から解放される──という、きついドレスを脱いだ時のような開放感で体がいっぱいだった。
マユラがアルティナ家に嫁いだのは四年前。マユラが十六歳の時だ。
マユラは優秀な魔導師を輩出するレイクフィア家の長女である。
レイクフィア家はその魔力で魔物討伐をして金を稼いでいる裕福な家だ。
それ故に優秀な魔力持ちであることを、両親は子供たちに求めた。
長兄は優秀な魔導師で、弟も妹も魔法の才能にあふれていた。
将来を有望視されている彼らとは違い──マユラは魔法があまり得意ではなかった。
それなので、レイクフィア家の中でマユラは冷遇されていた。
戦えないのなら家のことをしろと言われて、使用人の中に混じって働き、部屋も与えられず、残り物の食事を食べる日々。
兄妹たちには出来損ないと呼ばれて、両親には目もかけてもらえなかった。
そんなマユラに結婚の話が出た。
まだ十六歳だったマユラは、全く寝耳に水の話で驚いた。優秀な兄や妹たちならわかるが、なぜ自分が──と。
相手はアルティナ公爵家の長男オルソン。
レイクフィア家は裕福な家だが、爵位はない。魔物狩りというのは地位が低い仕事だ。
汚れ仕事を貴族は嫌がる。家業が魔物狩りであれば、どれほど裕福だろうが優秀な魔導師の家だろうが、爵位を得ることができない。
マユラの結婚は、打算と条件に塗れたものだった。
アルティナ公爵家が口利きをして、王家に推薦状を送る。
レイクフィア家に男爵位を授ける代わりに、金をよこせ。
というのが結婚の理由の全てだった。
マユラがアルティナ家に嫁ぐと、そこにはすでに先客がいた。リンカ・アルティナはオルソンの義理の妹である。
アルティナ家というのは少し複雑で、オルソンの母が亡くなった後、オルソンの父は後妻を娶った。
その後妻の連れ子がリンカ。リンカはオルソンをお兄様というが、血はつながっていない。
一目見た時から、何かよくないものは感じていた。
その予感は的中した。結婚式の後の初夜に、オルソンは姿を見せなかった。
不思議に思って部屋を出たマユラが見たのは、愛し合うオルソンとリンカの姿だった。
「あの女と結婚をするなんて、お兄様はひどい」
「そういうな、リンカ。今だけだ。あれを抱いたりはしない。お前だけだ」
などという睦言が聞こえてきて、マユラは──全てを諦めたのである。
齢十六才。初夜の日に夫が義理の妹と浮気をするという前代未聞の光景を見て、結婚に対する憧れも、夫への信頼も全て空の彼方へ放り投げた。
それから四年。マユラの状況はレイクフィア家にいた時よりも悪いものになっていた。
ひたすらに忙しかったのだ。
オルソンは、金のためにマユラと結婚をした。それもそのはずで、アルティナ家には金がなかった。
前公爵は後妻を娶ってすぐに流行病で亡くなり(先妻様の呪いと使用人たちは言っている)、後妻のみが残された。後妻は金遣いの荒い女で、派手好きだったらしい。
湯水のように潤沢な公爵家の蔵を食い潰し、やがてオルソンが十五の時に亡くなった。
その時すでに家督を継いでいたオルソンは、義理の妹を溺愛していた。
リンカのためにならいくら使っても構わないというほどにリンカを甘やかして、さらに残った資金を食い潰した。
悪いことは重なるもので、公爵家の領地に旱魃が起きた。そのために、税収が極端に減った。
つまり、マユラが嫁いだ時にはアルティナ公爵家はほぼ無一文と同じだったのである。
マユラは働いた。
それはもう必死に。まずは出費を見直して、税収を計算し直した。
旱魃が起きた地域に、旱魃に強い芋の苗を配り、マユラ自らも公爵家の敷地で育てた。
アルティナ公爵家でよく取れる綿花で機織りをして布を作り、元々有名だったガラス細工にも力を入れた。
その商売が軌道に乗ってきて、領地が豊かになりアルティナ家が裕福になるまでに四年。
その四年目に、離縁を言い渡されたというわけである。
きっとオルソンは、マユラの働きを見ていたのだろう。
もしくは、使用人から聞いていたかどちらかだ。
マユラが働いている間、オルソンはずっとリンカと遊び呆けていた。
マユラの元に夜訪れることなど一度もなければ、声をかけるようなこともない。
もう一度いうが、完全に他人。使用人の一人、という扱いだった。
マユラは質素なワンピースを着て、リンカは派手なドレスを身につけて、宝石で全身を飾っていた。
マユラは髪も爪も手入れができていなかったが、リンカは常に頭の先から爪の先まで磨かれていた。
マユラは一度もオルソンに抱かれることはなかったが、リンカはオルソンの子を宿した。
まぁ、つまりは、そういうことである。
「やった、自由だ……!」
マユラが出ていくことはレイクフィア家の立場もあり難しかったが、離縁はオルソンから切り出してくれた。
この日をどれほど夢見ていたことか。
もう、レイクフィア家には戻らない。
アルティナ家とも無関係だ。
マユラは自由だ。
そうだ──南に行こう。
マユラの新しい門出を祝福するように、優しい秋風がマユラのミルクティー色の髪を靡かせる。
ずっと死んだ魚のように光を失っていた、光の加減では赤く見える鳶色の瞳が、きらきらと星のように輝いた。
もうマユラを縛るものは何もない。
屋敷の外に一歩踏み出したマユラは、足取りも軽く、意気揚々と歩き出した。
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