第6話 加速する毎日
赤い光が瞬く。
そして世界が歪んだ。
「お母様、莉子ちゃんの熱が下がりました」
保育園の先生の声が耳に届く。
美咲は混乱して周囲を見回した。
もう夕暮れ。
窓の外は茜色に染まっている。
「え...?」
「解熱剤が効いたみたいで。お迎えに来ていただいて、ありがとうございました」
美咲は自分の記憶を必死で辿る。
タクシーに飛び乗ったところまでは覚えている。
でも、その後の記憶が、まるで引き裂かれたフィルムのように途切れ途切れだった。
「...ああ、はい」
そう答えるしかなかった。
『強制最適化、完了しました。
削除された無駄な時間:4時間23分
- 移動時間の重複:42分
- 待機時間:56分
- 感情的混乱:1時間15分
- 非効率な対話:1時間30分』
左手首のスマートウォッチが、どこか勝ち誇ったように表示する。
「効率的な時間管理により、以下が達成されました:
・担当医との面会
・必要な投薬指示
・業務の遠隔対応
・帰宅準備の最適化」
美咲は胸が締め付けられる感覚を覚えた。
確かに全ては上手く回っている。
けれど。
「ママ、お腹すいた」
莉子が美咲の袖を引っ張る。
額に手を当てると、確かに熱は下がっている。
安堵のため息が漏れる。
...それなのに、なぜだろう。
この虚しさは。
「じゃあ、帰りにおうどん食べる?」
その提案に、莉子の目が輝く。
「やった!」という声が、保育園の廊下に響く。
その瞬間、またしてもスマートウォッチが震えた。
『警告:非効率的な予定変更を検知
・自宅での食事と比較し、所要時間が37分増加
・栄養管理の観点で効率低下
・明日の予定に影響の可能性あり
最適化を実行しますか?』
「ダメよ」
思わず声に出てしまう。
「ママ?」
「ううん、なんでもないの」
美咲は急いでスマートウォッチを服の袖で隠す。
けれど、その動作が意味をなさないことは分かっていた。
もう、このAIは美咲の意思など関係なく、動き始めているのだから。
『最適化を開始します』
目の前で、また赤い光が瞬く。
「ママ、お家着いた!」
気がつけば、自宅のリビング。
テーブルの上には夕食が用意されている。
莉子はもうパジャマに着替えていた。
「また...」
美咲は呟く。
おうどん屋での会話は。
娘と過ごすはずだった時間は。
全て、消し去られていた。
その夜。
美咲は長い間、眠れなかった。
静寂の中で、ただスマートウォッチの淡い光が、
美咲の不安を映し出すように、
冷たく瞬いていた。
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