第3話
「――いい絵だねえ。」
椅子の背もたれに身体を預けて寄り掛かりながら、寝る前に新しい守備隊関連の書類仕事がまだ残ってるため、その前にシェリー酒をグラスに入れて、ネーリが描き途中にしている新緑の中で眠る竜の絵を眺めていた、フェルディナントは肩越しに入り口を振り返った。
そこに先日訪ねて来た若きフランス艦隊総司令が立っている。
今日は軍服ではなく華やかな夜会服である。それを纏って現われた理由は――フェルディナントの知るところではない。
「それ、この前の干潟を描いた画家の絵だろ? 下の聖堂のスケッチも見て来たよ」
ラファエル・イーシャは許可も得ず、入って来た。
フェルディナントの隣に立ち、腕を組んで絵を見る。
二人の男の間に、数秒間の沈黙が流れた。
コツ……、
先に動いたのはラファエルで、絵に近づいて行く。
「この光の描き方。あの人の特徴なんだよ。
ここのところ。こうやって見ると、うねってるだろ?
光じゃない。風を描いてるんだって」
フェルディナントが思わずラファエルを見た。
「風が吹くと、木々や葉が動く。雲が。そして光の道が出来るんだ。
だからあの人の絵は、光の躍動感がある。
風のある景色だよ。
……――おまえ、あの教会にあの人のアトリエがあるって知ってて俺に言わなかったな?」
絵を背に、ラファエルが振り返った。
彼は微笑んでいたが、フェルディナントには分かった。
怒りの空気。
フェルディナントは少し残っていたシェリー酒を飲み干して、テーブルにグラスを置きに行った。
「俺は色々な所にアトリエがあると言ったんだ。そんなことをわざわざ言いに来たのか?」
「他にこんなとこに俺が来る理由があると思ってる?」
「話がそれだけなら、出て行ってくれ。まだ仕事があるんだ」
「俺は一目であの人の絵は分かるんだが。『ネーリ・バルネチア』って名乗っていたから、絵を見るまでは分からなかったんだよな。別名を使っていると思わなくて」
振り返ったフェルディナントの顔に出た表情に、ラファエルは満足する。
「あんな教会にいるとも思わなかったんだ。あの人に初めて会ったのは、ローマの美しい古城だったから。多くの召使と侍女たちに傅かれながら、絵を描いてた。今と同じように、美しい絵を。俺の母がローマに別荘を持ってたからね、いつも会いたくて会いに行ったよ。俺の少年時代の、一番幸せな時間を過ごした。
神聖ローマ帝国軍なんて、常に周辺諸国を攻撃して併合してる野蛮じゃないか。
お前があの人の絵に感じるものは、手を血に染めてる軍人が聖堂で祈りたがるのと同じだ。
懺悔だよ。
純粋な愛じゃない。
お前なんかといたって平和を愛するあの人の魂が苦しむだけだ。
……あの人にとって、絵を描くことは、命そのもの。
だからこの絵を完成させることは、俺は取り上げたりしない。
あの人からは何も取り上げないと俺は誓いを立てている。悲しませたくはない」
ラファエルは歩き出した。
入り口で立ち止まり、振り返る。
「だがお前からは容赦なく、何であろうと取り上げる。
お前は俺からあの人を隠そうとした。
生憎俺はお前らほど野蛮じゃないから、弁明があれば今なら聞いてやるよ。
何か言い訳があるか?」
フェルディナントの表情はもう静かだった。冷静になったというより、陰に籠ったように見えたが。
「いや。何も無い。弁明じゃないが、質問がある。あいつの本名は何て言うんだ?」
ラファエルが笑った。
「まったく、厚かましいな」
それからべっ、と舌を出す。
「お前なんかに絶対に教えない。」
鼻で笑うと、ラファエルは部屋を出て行った。
少しして、トロイがやって来た。
「団長、今の方は……何か仰ってましたか?」
「いや。重要なことはなにも。気にしないでいいぞ」
そうですか……とトロイは言葉を彷徨わせる。
「何か言ってたか?」
「いえ。一昨日の夜に、街を歩いていたら例の『仮面の男』を見たそうです。そのことを団長に伝えるために話がしたいと仰ってたのですが」
「一昨日?」
「はい。目撃したそうです。市街の屋根の上で」
「報告は確か上がって来てないと思うが。何か事件は起こっていないか、一応確認しろ」
「分かりました」
トロイが一礼し、出ていく。
フェルディナントは眠る竜の絵を見る。
『ぼく……自分の名前が嫌いだったんだ。すごく』
そういえば、そんなことをネーリが言っていた。
『今は好き。フレディが優しい声で呼んでくれるから』
そう言ってくれた時の笑顔を思い出す。
……偽りなんかじゃないと思えた。
ネーリの中に、何か叱られることを恐れる子供のように、素直に言ってしまえないものがあることは感じ取っていた。
だから本当の名前を知らないとか、過去を知らないとか、そんなことはあまりフェルディナントはショックではなかった。
ラファエル・イーシャが当然のように、ネーリの絵の意味を説明していたことの方が、何となく、引っ掛かっている。彼の絵に対して、凄いとか、好きだとか、そんな表現しかしてやれない自分に対しての不満だ。
軍人の所業をあんな奴に野蛮だと表現されても何とも思わないが、自分が言葉を尽くして素晴らしい芸術を誉めてやれない軍人であることは、実のところかなり落ち込む所だ。
ネーリは美しく、謎と魅力に満ちている。
自分は彼を繋ぎとめておけるようなものは何も持っていない。
だから、隠した。その自覚はあったから弁明はしなかった。
ネーリを自分に繋ぎ止められるものが欲しい。
彼の自由を損なわず、
束縛しなくても、
彼が自分の側にいたいと思ってくれるような何かが。
(俺は何も持ってないから)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます