第2話
……王妃セルピナ・ビューレイは、ジィナイースの実母ではない。
実は、双子の兄のルシュアン・プルートも、彼女の息子ではなかった。
ジィナイースの母と、王妃セルピナは姉妹だった。
幼い頃から華やかな容姿と覇気を持ち、王妃になる為にこの世に生み出されたような少女だったという、セルピナ。ジィナイースの母親は、内向的な少女だったと、祖父が教えてくれた。王子がいないので、ヴェネトの大貴族から婿を取り、セルピナは王妃の座に座ることになった。しかし、彼女は子供が、出来なかったのである。
気位の高い彼女は王に妾を許さなかった。
自分が子供を産めない可能性があるならば尚更、後から、子供を産める妾などを呼び寄せるわけにはいかなかったのである。
家臣たちの中からも、しかし世継ぎはどうするのか……という声が、気性の激しい王妃の怒りを買ってでも進言しなければならない、そういう重苦しい空気が上がりそうな、王妃になることを少女時代から期待されて生きてきた彼女が、最後の意地で身を固め、毅然とその声を拒否するような気配を見せていた――そういう時に、産声が上がった。
王宮ではなく、ある貴族の家である。
ジィナイースの母親が嫁いだ家だった。
王宮に二人の姫がいると、争いの種になると、セルピナは年頃になると親に圧力を掛け、妹は十四歳の若さで、すでに嫁いでいた。
王家の二人の姫のうち、一人が嫁すには、意外なほど中流の貴族だが、これにも、少しでも自分の邪魔になる者や邪魔な芽は、摘んでおこうと考える、セルピナ・ビューレイの意思が大いに反映されていた。
ベルナルディーノ・クレメンテ。
ヴェネト王国の離島に家を持つ、中流貴族である。
家柄は並みだったが、ベルナルディーノが当時の王、つまり、ジィナイースの祖父の側近だったことから、王の信頼は厚かった。
王家の事情を熟知した彼は、王からの要望で、本来なら私のような家柄に嫁がれるべき方ではないのだから、命に代えても姫を大切にいたします、と息子のアルフォンソの元に王女を嫁がせた。身分から考えれば、不釣り合いの結婚だったが、大人しい姫は、「姉上のお気に障らない結婚なら」と文句も言わず、嫁して行った。
結婚して数年子が出来なかったのは、まだ姫が幼かったからであり、結果として華々しい勲章を持つ大貴族が結婚相手でなかったことは、ジィナイースの母親にとっては、穏やかで幸せを感じられる結婚になったという。
姉のセルピナが結婚してからは、父王は元々王家の血筋でない婿を気遣い、譲位して、早々に離宮に移った。
――それほど、彼が影響力を持つ、偉大な王だったからだ。
彼は十代で病床の父から譲位され、以後、五十年の在位にあった。
自ら船に乗り、近海を巡回し、ヴェネトを狙う海賊たちを討伐する様は、ヴェネトの民に【海神】と謳われ、熱狂的に支持をされていた。彼が望んだのは、政は若い王たちに譲位し、自分は引退後も海の上にあり、影ながらヴェネトの治安は、自分が守っていくことだったという。
そしてジィナイースの母が、双子を産んだという報せを受けた時、王妃セルピナは、今まで忘れ去っていた妹の存在を思い出す。自らの足でクレメンテ家を訪れ、神の思し召しだといい、生まれた双子のうち、一人を自分のものにした。
幼い頃からこの世の全ては自分の思い通りにしなければ気がすまないという性格の姉と、その彼女を心の底から恐れ、力関係を悟ると一切彼女に逆らったことのない妹。
ジィナイースの母が、祖父に泣きついたのは、あの時だけだったという。
……そこでどんなやり取りがあったかは、聞けなかった。
しかし起きたことは聞いた。兄のルシュアンは王宮に引き取られ、セルピナの産んだ王子とされた。弟のジィナイースはクレメンテ家に残ったが、その後クレメンテ家は流行り病でアルフォンソが亡くなり、病がちだったジィナイースの母も後を追うように亡くなると、同じ病で一族の数名が亡くなったことから、家も潰し、ヴェネトから去ったという。
祖父は、ジィナイースを憐れんだ。
王妃セルピナにとっては、『我が子』だけが、愛しい子供だった。
ジィナイースを王宮で引き取ってやってくれと祖父は頼んだが、セルピナは二人の王子がいると争いの種になると、決してそれを許さなかった。
祖父は説得を諦め、自分の船にジィナイースを乗せた。
『お前の母親に、何もしてやれなかったから』
祖父が言っていたことがある。
幸せか? とよく聞かれたのは、罪悪の念があったからなのだと思う。
ジィナイースはいつも、笑って頷いた。毎日が楽しかったから、それは嘘ではなかった。
「うん」と瞳を輝かせて頷くと、祖父はとても嬉しそうな顔で笑って、ジィナイースを抱き上げ、頬を寄せてくれた。
王妃の、ジィナイースへの強い憎しみは、色々なものが積み重なってのことなのだ。
思い通りにしようと思って、ならなかった運命への、呪いの言葉。
『何があっても潰してやる』
あれは運命に対しての敵意だった。
【シビュラの塔】が、何を成すべきものか、知っていたわけじゃない。
他国を一撃で消し去る力など持ってることすら、ジィナイースは知らなかった。
王宮を出たい、と泣いていると、王妃がやって来て言った。
父が、かつてお前が【シビュラの塔】を開いたのを見たことがあると言っていた、と。
開いてみせたら王宮を出ていいと言われたのだ。
ジィナイースは、開かずの扉だということも知らず、その時まで、自分が開扉したという自覚すらなかった。あまりに幼い頃の記憶だったから。
ここじゃないどこかに行きたいと、願って【シビュラの塔】の前に立った時、扉に手を触れてもびくともしなかった。開かなかったことに、王妃はどこか安堵したような顔を見せた。
ジィナイースの心は絶望だけで、離宮に一度引き上げたが、真夜中にもう一度だけ、一人でシビュラの塔の元に行った。
自分の居場所がどこにもなくて、ここじゃないことは分かるのに、どこにも行けない。
祖父の乗っていた船にいた人達もヴェネトに戻る時に、それぞれの場所に帰ってしまったから、ジィナイースは一人だった。閉ざされた扉の前に蹲って、泣きながら、眠った。
……どれくらい時が過ぎただろう。
松明の音と、大勢の足音で目が覚めた。
風が吹き込む。
吹き込む風を飲み込むように、【シビュラの塔】の黄金の扉が開いていた。
中は見通せない、闇だ。
ジィナイースは立ち上がった。
王妃や、王宮の人間達が、いつかの祖父たちと同じ、驚いた顔で自分を見上げている。
「開いたから、ここを出ていく」
ジィナイースは歩き出した。
数時間前の絶望に打ちひしがれた心が、どこかに消え去っていた。
今、自分の腕を掴んで繋ぎ止めようとする者がいたら、戦ってもいい、絶対に出ていくと思って歩き出した。
止める者はいなかった。
自分が無力な子供なら、そこで囚われて止められていたはずだ。
止められなかったし、追手も付かなかった。
よくは分からないが、恐らくあの時扉が開いていたからなのだろう。
……そのことだけが、ジィナイースの知っている全てだった。
◇ ◇ ◇
「ネーリ」
瞳を開くと、緑の瞳が不思議そうに聖堂の椅子に寝そべっている自分を見下ろしていた。
「イアンさん……」
「どうした? そんなとこに寝そべって……」
「す、すみません。考え事してて……」
慌てて起き上がったネーリに、イアンは軽く笑った。
「イアンさんは、どうしてここに」
「いや……ちょっと思い立って寄ってみた。神聖ローマ帝国の駐屯地に寄って来たんよ。そしたらネーリは教会の方で描いとるって聞いて、帰る道すがら……ちょっと気になってな、一昨日あんなに泣いとったから、大丈夫かなって」
気にして寄ってくれたんだと気付き、ネーリは立ち上がり、頭を下げる。
「ごめんなさい、イアン。わざわざ寄って下さったんですね。あの、僕は……大丈夫です」
「どこが大丈夫ねんな」
イアンが何とか笑おうとしたネーリの顔を見て、眉を寄せた。
「あれからフェルディナントのとこ、戻っとらんのやろ? あいつも今、飛行演習とか始まったし、解散させた警邏隊から新しい守備隊に入りたいって志願した奴らの経歴とか調べたり、確かに忙しそやけど、君のことは心配しとるで。絵を描く時は集中したいやろからって敢えて会いには来てへんけど……。それは分かっとるよな?」
小さくネーリは頷く。イアンは側に腰を下ろした。
「ネーリ。俺は別に、責めてるわけじゃないねんで」
優しい声が聞こえて、恐る恐る顔を上げると、イアンは優しい表情でこちらを見てくれていた。
「フェルディナントから君との取り決めは聞いとる。君はヴェネト中に小さなアトリエがあるから、自由に行き来しながらたくさんの絵を描いてる。んでも今城下で変な事件も起きとるから、心配して、フェルディナントが駐屯地に泊まれる時は泊まるといいよって言ったんやろ。君の好きにしたらええねん。俺は君が気になったからここに寄ったんよ。フェルディナントのことは関係ない。あいつから見てきて言われて来たんでもないし」
「イアン……」
「……気になってん。確かに、ヴェネトに生きとる奴の中には、【シビュラの塔】が他国を滅ぼしたって知ってる奴もおる。自分の国があんな強い古代兵器持って誇らしいと思ってる奴もいるやろし、反対に、いくらなんでも何で他国にそんな酷いことするんやって、そう思っている奴もいる。皆がみんな、他国の奴らなんてどうでもいいんや、って思ってる奴らばかりちゃう。君みたいに、他の国の、死んだ奴らの為に心痛めてるやつかて、いると思う……。ただ、それにしても、君の泣き方は普通やないって思った。
まるで――、……自分が【エルスタル】に酷いことしたみたいな感じに見えたのが、気になってな」
ネーリは手を握り締めた。
「いや……俺が軍人じみすぎてんのかもしれへん。俺らからしたら、そんなことまで自分の罪に思ったら、戦ってられへんってこと、戦場ではたくさんあるんや。自分たちが例え正しい手順で戦争しとっても、相手にとっては俺たちは全員野蛮なスペイン軍人って思われることある。他人のやった責めを負ったり、自分が憎む所業だけど、自分も結果としてそれに加担しなきゃなんなかったり……戦争になると、『自分は』なんて言ってられへん。
自分が無くなるんや。
自分を無くして、国の為に戦ってる。
だから非情になっても戦える。
……せやけど、ホンマは、それはきっと間違ってるんや。
君の方が正しいんやで。ネーリ。
国のやったことでも、上のやったことでも、自分もその一員やって思って、傷つけた誰かの為に涙を流せることは尊い。……けどな。それでネーリの心が潰れて駄目になったら、元も子もない、って俺は思う」
ネーリの瞳から、小さく涙が零れた。イアンは心配な顔をした。
(この子……もしかして一昨日からずっと、こやって思い出しては泣いてるんやないやろな)
手の平で拭おうとしてるが、また零れて来る。
ネーリは素晴らしい画家だが、芸術家ならではの感受性の豊かさなのだろうか?
「ネーリ……、そんなに泣かんでくれ」
居たたまれなくなってイアンは立ち上がると、彼を抱きしめた。なんとか、泣き止ませようと優しく背を撫でる。
「フェルディナントが【エルスタル】出身だったこと、そんなにショックやったのか?」
「……フレディ、会った時から、……色々優しくしてくれて」
「うん」
「……ぼく、今は一人だけど、昔、おじいちゃんと、おじいちゃんと仕事している人たちと、家族みたいに暮らしてて」
「そやったんか」
「だから、僕は今一人だけど、家族を知らないわけじゃない。家族がいる、幸せとか、嬉しさを」
ネーリの目から涙が零れた。
「僕にもう家族が手に入らないのは、仕方ないって思ってたけど……だから、フレディの家族は、幸せでいて欲しかったから」
イアンは眉を顰めた。
(『家族が手に入らないのは仕方ない』って……この子まだ若いのになんでそんな悲しいこと言うんや)
でも、少しだけ分かった。
「そうか……ネーリは、あいつのことが好きなんやな」
家族を失った彼に、初めて家族のように優しくしてくれた人。
その人の家族を、自分の住む国が、残酷なやり方で奪った。それがネーリは悲しいのだ。
「……あいつがそのことで、自分のこと嫌いになったりもう親切にしてくれないかもしれないって思ったんか? そんなら心配せんでええよ。俺はあいつやないけど、あいつのことよく知っとる。ネーリが喜んで誰かを傷つけるような奴やないって、あいつは知っとる。
そういうことで泣いてる今の気持ちかて、あいつはちゃんと理解してくれるよ。君をそんな理由で嫌いになったりせぇへん。俺が約束したるわ」
イアンが笑いかけて来る。
「な?」
ネーリは小さく頷いた。
「よっし! こんなところでどうしよ~って一人で思っててもな、涙は絶対止まらんし。
俺がいいとこ連れてったるわ!」
目をこすりながら、小首を傾げたネーリに、イアンは明るい笑顔を見せた。
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