第2章 A.D. 2098

深発地震

 A.D.2098.11.11


「行ってきます! あ、今日バイト入っちゃったからご飯なしで!」

「あらそう、じゃあたまには外食でもしようかしら」

「それなら岬ちゃんとこの五月雨寿司に行ってあげてよ。お客さんの戻り悪いみたいだし」

「そうね、たまにはお寿司もいいわね。五月雨さん美味しいし。それはそうと、まだ色々と物騒な世の中だから光も気をつけるのよ」

「うん、ありがとう!」


 東京都武蔵野市に住む大学1年生、大空光おおぞらひかりは幼い頃に父を亡くし、母子家庭で育った。

 光のアルバイト先であるカフェ&バー『異次元』は、お茶の水キャンパスから北東方向に徒歩10分、湯島に近い秋葉原の外れにあった。

 20世紀後半に電気街として栄えた秋葉原は次第にサブカルチャー全般を包含し、やがてオタク文化の中心地としても世界から注目を浴びるようになった。

 22世紀まで残り僅かとなった2098年11月現在、秋葉原が持つこれらの特異性は大きく変わることなく保全されていた。

 ここに集う人々は想像世界の疑似体験場として創出されたある種の仮想現実、すなわち2・5次元空間を楽しんでいた。

 ゲームが大好きな大空光にとって、アキバはやはり『聖地』に違いなかった。

 

「おはよーひかりん! お、やってますな、今日は何のゲームだい?」

 授業前のわずかな時間も無駄にしない生粋のゲーマーである光に、老舗寿司屋の次女、五月雨岬さみだれみさきが嬉しそうに声をかけた。

「……」

 開け放たれた窓からは爽やかな秋風が流れ込み、光の長い黒髪を無造作に揺らし、時おり視界を遮った。二重瞼の大きな瞳は、そんな気まぐれな侵入者を気にする様子もなく、携帯端末画面を凝視していた。

 岬が煌々と輝く液晶画面をのぞき込んで確認したゲームは将棋であった。

「ひかりん、たまに凄く渋いゲームをやっているよね。そういうところ好きだけど!」

「あ、岬ちゃん、ごめんごめん。いやー、たまには頭働かせないとね。ボードゲームとかパズルゲームはいいよね。シンプルなゲームほど奥が深くて面白い。今度みんな集めて人生ゲームやろうよ!」

「いや、さすがにそれは……」

 岬は苦笑いしながら光の隣に座った。

「ひかりんは何で文学部なんか選んだのさ。数学得意だったのに」

「それは歴女として当然でしょ。それに数学なんて趣味の範囲だし、計算好きでもないし。あくまでゲームを解くための有効な手段、って感じかな」

「ふーん。そうなんだ。私も少しは勉強した方がいいかな、数学。寿司屋の娘として」

「寿司屋愛してる?」

「もち!」

「愛は偉大だよ」

「違いない!」

「寿司屋継ぎたい?」

「いいえ」

「それお寿司が好きなだけじゃん!」

「違いない!」

「数学なくして文明はないからね。知らないより知ってる方がお金も稼げる」

「違いない!」

 それは、いつもと変わらないふたりの日常であり、平和な時間だった。その日の午後までは……

 

「――であるからこの時代を『ネオ・ルネッサンス』と呼んでいます。この言葉、実は19世紀にも出てきますが、それは単に建築様式を指す言葉であり、中世ルネッサンスの文芸復興的な意味合いでは使用されていません。2057年から2080年は、まさに失われた文化を取り戻す運動が起きた時代であり、ルネッサンスとよぶにふさわし……」

 現代史の講義で熱弁を振るう教授が『ネオ・ルネッサンス』について語り終えようとしたとき、その異変は起こった。

「え? 何? これ……地震?」

 大きな、しかしゆっくりとした奇妙な横揺れを感じたが、地震のような衝撃はなかった。

「まだ揺れてるね……」

 揺れは5分ほど続き、やがて静かに収束したが、時おり何かが弾けたような音が3回聞こえた。

「こんな感じの揺れ、1ヶ月前にもなかったっけ?」

 岬は光に確認した。

「……そうだね。でもあの時より長かったし、気味悪さでいえば今回の方が上かな……」

「違いない……」

「速報、出ないね」

「あの時も随分時間が掛かったからね。そのくせ震源地も規模も不明とかさ、22世紀を目前に控えた時代とは思えないよ。あ、あれかな。やっぱ陰謀的な何か」


 地震速報が出たのは、揺れが収束して20分ほどが経過してからであった。1ヶ月前と同様に震源域の特定ができない謎めいた揺れであり、マグニチュードは計測されなかったため、メディアは震度3とだけ報じた。

 この現象を地震として扱ってよいか専門家の間でも議論は別れ、深発地震の一種である、という推論に落ち着くしかないのが、現代における科学の限界であった。

 光は母親へ連絡を取り、安全の確認を終えると、予定通りアルバイトへ行くことを告げた。

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