カフェ&バー『異空間』
「21世紀ライフツアー、お疲れ様でした。柊周は本ツアーにおいて必達目標を満たせなかったため、システムは強制終了となりました。よって本ツアー記録は削除いたします」
一言一句変わることのないバッドエンドの通告は、ついに20回を数えることとなった。
柊周の21世紀ライフツアーは、ただの一度もクリアすることなく終了した。
「……カスミン、バッドエンドもこれだけ続くとさすがにへこむね。だってさ、僕はVRL解禁の日を心から待ち望んでいたし、いわくつきの21世紀試験だって合格した。それなのに一度もクリアできないなんてあんまりだよ……」
柊が次元立会人、霧靄霞をカスミンという愛称で呼び始めたのは15回目のツアーを終えた頃だった。この物静かでどこか憂いを帯びたホムンクルスにはせめて悲劇の共有者であり、善き理解者であってほしいと彼は心のどこかで願っていた。
「柊周さん、次回のフライトはいつにいたしましょう。それとも回想モードへ移行しますか?」
霧靄が柊の日常会話に反応することはほとんどない。
「……カスミン、本心ではまだ挑戦したいし、クリアするまで続けたいと思う。でも凪さんと約束したからね。いろいろと時間も限られている。だから次のフライトは通常モードではなく回想モードにするよ」
「……承知いたしました」
一瞬、霧靄の表情に変化が現れたのを柊は見逃さなかった。
「日程は決まっている。6月20日だ。同行してくれる立会人は君?」
凪の東京来訪に合わせ、彼は『回想モード』へ飛ぶ日をあらかじめ決めていた。
「同行立会人はボクが勤めます。なお、21世紀シナリオに関する回想モードの出発地はこの空港ではありません。追ってお知らせいたします。出発日に関しては問題ありません」
「OKキサヌキ! あ、キリモヤか。ごめんごめん」
微々たる変化では動じなくなるほどに彼の感覚は麻痺していた。イレギュラー続きのこのシナリオにとって前例が覆ることはデフォルトであり、柊はそれも含めて楽しむ、という一種の諦念によってメンタルを正常に保っていた。
インフィニット・ワールドにおける長距離移動手段は『トランソニカ』と呼ばれるエアカーであり、単身用、家族用、団体用に分かれ、車種の他にカラーやデザインも豊富に用意されていた。
トランソニカの飛行空間はAI制御によって安全が確保されているため、目的地までの快適な移動が保証されていた。
瞬間移動は技術的に可能と考えられていたが、AIが目指す『望ましい人類社会』の構想に、その選択肢はなかった。トランソニカはマッハ1程度の速さを誇り、北海道から東京までおよそ1時間、配車をすれば10秒以内に指定場所に出現する。つまりこの配車スピードを以て瞬間移動が可能と考えられたのだ。言うまでもなくトランソニカは自動制御の無人車である。
凪雫はカフェ&バー『異空間』の前で真っ赤なトランソニカを降り、エントランスである通称『次元の扉』を開いた。
「OKキサヌキ! 今日は執事デーです!」
旧秋葉原地区のレガシー、コスプレ文化が残るこの飲食店では、意匠を凝らしたイベントが定期的に催されていた。
「どうも。待ち合わせをしているんだけど……」
周囲を見渡す凪を凝視した執事は慌てて声をかけた。
「失礼しました! 凪雫さんですよね。お連れ様はVIPルームでお待ちです。こちらへどうぞ」
「え? VIP……」
『異空間』は凪にとっても馴染みの店であったが、VIPルームの存在を耳にしたのは初めてであった。
21世紀と木佐貫オタクを公言していた柊周という人物は、もしかしたらVRLの実力とは無関係にこの店ではVIPなのかもしれない、と凪は妙なことを考えていると、美麗な執事が見覚えのないエレベーターで彼女を地下5階へエスコートした。
開いた扉の先に、柊周の姿があった。
「あ、凪さん! こんばんは!」
落ち込んでいる様子もなく、元気に語りかけるこの人物がVIPなのだろうか。いや、それよりもこの部屋にもうひとり、霧靄霞がいることに凪は警戒した。
「というか、凪さん、髪……」
凪雫のトレードマークのひとつであったストレートのロングヘアーはミディアムショートに変わっていた。給仕アンドロイドが凪の認識に遅れたのもそれが原因であろう。
「そう、切ったの。似合わないかしら……」
「いえ、そんな意味じゃないです! とても似合っていますよ! いいと思います……短いのも」
黒髪ロングが好みであった柊は、切らない方がよかったとは口が裂けても言えなかった。
「そう、よかった。気分転換よ。未知数だらけの回想モードへ飛ぶんだし。それより何でこんな部屋へ? それにお連れ様までいるなんて聞いてないわ」
「すみません。ついさっき案内されたので僕もまだ事情がつかめていないんです……」
柊は約束の時間よりも早めに入店し、通常席で凪を待っていたがそこへ霧靄霞が現れ、VIPルームへ案内されたことを告げた。
「キリモヤさん、あなた北海道にもいたけど、同一のデバイス?」
「はい。ボクは21世紀ライフツアーのために存在する次元立会人です。他の地域とは同期によって情報を共有しています」
北海道のVRL空港で21世紀ライフツアーを案内したのも、霧靄霞というコードネームのホムンクルスであった。
「で、どうしてあなたがここにいるの?」
「はい。21世紀の回想モードに関し、事前にお話ししたいことがありました」
「メッセージでいいじゃない」
「……はい。それはそうなのですが、ふたりが事前にお会いすると聞きまして、直接お伝えしたいと思いました」
決められた業務を淡々とこなすホムンクルスから人間的な判断を示唆する言葉が飛び出し、ふたりは少なからず驚いた。
「……まあいいわ。それで何? 話って」
凪は霧靄の言動には触れず、テーブルに置かれたグラスを手に取り、弾力のあるVIPソファに腰を掛けて本題に迫った。
「21世紀の回想モードの出発場所は『∞DA』ではありません」
「それは聞いているわ」
「出発場所はこの部屋です」
「え?」
凪と柊は思わず顔を見合わせ、眉間にしわを寄せた。
「この部屋そのものが転送装置となります。普段この部屋は存在しません。ボクが必要に応じて作ります。次は6月20日午前10時に用意します。給仕には霧靄のところへ、と申し出てください。専用エレベーターを作ります」
「……ずいぶん手が込んでいるわね。ま、今更何が出てきても驚かないけど。で、それだけじゃないわよね。あなたが今日ここにいる理由は」
「はい。21世紀の回想モードは西暦2098年11月11日の日本へ降り立ちます。それ以外の選択肢はありません」
「何だって?」
柊は明らかに心拍数が上がっているのを確認し、不安が期待を越えていくのを自覚した。
「どういうこと? 通常モードの初期設定では2057年までしか選択できず、回想モードは2098年で日付まで指定されるの?」
「申し訳ございません。これ以上は現段階でお話しすることができません。このことは出発当日にお伝えする予定でしたが動揺も大きいと考え、本日お伝えしました」
柊はどうしても確認したいことがあり、口を開いた。
「カスミン、ひとつ質問していいかな。答えられなければそれでもいい」
「構いません」
「記憶は、今の状態を保持したまま行けるんだよね、この回想モードでも」
イレギュラーが常態化していたため、柊はシステムの根本的な部分を確認しておく必要を感じた。
「もちろんです」
「――ふぅ。そっか、よかった。なら大丈夫。ありがとう」
柊はこの世界の記憶さえあれば21世紀を楽しむことはできるし、イレギュラーにも対応できるだろう、という根拠のない自信があった。
凪もまた、自分を保ったままであればどうとでもできる、という自負があった。
「わかったわ。ところでキリモヤさん、あなたは何者?」
凪の関心は『回想モード』よりも霧靄霞の存在に向けられていた。
「何者、と言われましてもボクは次元立会人の霧靄霞でそれ以上でも以下でもありません」
「あるじゃない。21世紀専用デバイスという唯一性、そしてカスミンというニックネームが」
「……………………」
回答に困ったような、フリーズした霧靄霞を見てふたりは思わず笑みがこぼれた。
「凪さんの指摘に追加するけど、カスミンはしなくてもいい事前通告をするためにわざわざここへ来てくれた。僕はホムンクルスなんて呼び方は好きじゃないし、そんな風に思っていない。カスミンにも感情はあるって思うよ!」
「……はい。どうもありがとうございます。この場合は謝礼を述べるのが妥当と判断しました」
柊は凪と共に爆笑した。
未知数無限の21世紀ライフツアー、その『回想モード』への不安を吹き飛ばすようにふたりは大いに笑った。これまでの緊張に対する反動でもあるかのように。
終始困惑気味の霧靄であったが、微笑と判別できるほどの、わずかな表情の変化をふたりは確認することができた。
インフィニット・ワールドにおけるアンドロイドに感情が宿ることはあるのだろうか。接客タイプには人を喜ばすための感情制御プログラムが働いていると推測されているが、予めインプットされた範囲であり、経験によって芽生えることはないと考えられている。作業系にはそもそもそのような動作は確認されていない。
極論すれば、インフィニット・ワールドのすべては謎である。
人類がエビデンスを確認できた時代、つまりビフォア・シンギュラリティにおける事象以外はすべて謎である、というのが少なくとも確定した、この世の真理のひとつなのだ。
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