【第1章 I.W. 0097】

旅立ちの訓辞

 寒さと乾きは峠を越え、麗らかな陽光が旅立つ者の心を優しく潤した。

 3月11日、世界共同体日本区の各学校では、義務教育の修了を告げる卒業式が催されていた。

 式典を終えた卒業生は思い出の教室に集まり、『絶対的育成プログラム期間』の最終章、担任教師による『旅立ちの訓辞』が始まるのを待っていた。

「えー、本日をもって君たちは18年間におよぶ育成期間を修了する。これからは自由である。自由とは尊い概念だ。権利としての自由には文脈があるのを忘れてはならない。我々が生きるインフィニット・ワールドの自由もまた、西暦時代の栄枯盛衰を礎に導き出された概念である。それを今一度確認せねばならない」

 そわそわと落ち着きのない卒業生を前に、担任教師は特別な使命感を持って『旅立ちの訓辞』に臨んだ。

「先生! 短めに頼みますよ!」

「……もちろんだとも。心配はいらん。今日中には終わる」

「おいおいそりゃないぜ……」

「それは冗談として、この訓辞はセントラルドグマが定める教育基本方針の最終章にしてすこぶる重要な儀式だ。心して聞くように。無論、質問や疑問は大いに結構、発言を許そう」

「了解了解! ささ、早く聞かせてください!」

 自由を手にした高揚感に満たされた卒業生の心は既にここにはない。

 柊は訓辞に耳を傾けながら、21世紀試験のことを考えていた。

「進化したAI、オーギュメンテッドAIによる統治機構が完成したのは西暦の2301年、すなわちインフィニット・ワールドの元年である。人類は西暦の時代、絶え間ない闘争を通して人間の本質を哲学してきた。2101年、木佐貫博士のシンギュラリティ宣言により、人類は統治権限をAIに委ねた。無論、そこに至るまでに多くの絶望があったからに他ならない」

「先生、21世紀ってそこまで絶望的な時代だったんですか?」

 生真面目そうな女生徒が質問をした。

「ああ、そうだとも。かのリンカーンの名言『人民の人民による人民のための政治』が不可能であると判断されるほどにね。つまり、君たちはその絶望の時代を経て誕生したAI社会を生きている。AIが導き出した社会システムによって労働は消失した。衣食住は保障され、VRLという永遠の娯楽も提供された。君たちが生きるこの平和な世界は、かの時代の尊い犠牲のもとに成り立っていることを、決して忘れてはならない」

「先生はどうして労働しているんですか?」

「君は一体何を学んできたんだね? 教育を施す行為は労働ではない。我々教師の行為は奉仕だ。VRLだけが世の中ではない」

「俺たちは今日からそのVRLが解禁なんですよ! やってみなければ結局何も分からない、ということで、とりあえず早くプレイしたいでーす!」

「はやる気持ちはわかる。それゆえVRLについては、とりわけ注意すべきことがあるのだ」

 担任教師は手元の端末を操作し、前方の巨大スクリーンにグラフを映し出した。

「VRLはこれからの君たちに数えきれないほど豊かで実りある経験を与えてくれることだろう。一度の人生では決して得ることのできない、幾通りもの人間の生を体験するのだ。そうして積み上げた経験値によって他者への理解が深まり、己の人間性も磨かれていく。VRL経験と人生の満足度はこのグラフが示す通り比例している」

 画面が切り替わり、新たなデータが表示された。

「だがしかし、まだAAIが誕生する前、VRLが内包するゲーム的側面に起因する中毒症が発生した。それは過剰なプレイ回数が原因であり、その後制限が設けられたことは授業で話した通りだ。規制によって中毒症状を起こすことはなくなったが、VRLが持つ潜在的な恐ろしさが露呈した事象だ。VRLには他者を知り己を知るという教育的側面が大きい。娯楽要素はそれに付随するものだと常々思わなければならない。豊かになるはずが自滅してしまうこともあるということだ」

「せんせーそれ結構な昔の話でしょ? 今はもう起きていないし、ありえないっしょ。AAIが完璧に修正したんだから」

 教師の忠告もVRL未経験の彼らには届かない。わずかばかりの危険など、いとも簡単に好奇心が凌駕する。

「確かに。今まではそうだった。しかし君たちも知っている通り、先月21世紀シナリオに関する情報が解禁された」

「!」

 柊はその言葉を逃さなかった。そして気づけば直立不動で教師に質問を投げかけていた。

「先生、その試験ですがすごく不可解な点が多いですよね。理由をご存じですか?」

「柊か、君は確か21世紀と木佐貫博士が好きだったな。そう、君の言う通り、このシナリオに関する動きは総じて奇妙だ。だが残念なことに私も公開された内容以外のことを知らない。特に概要発表からおよそ2ヶ月で試験開始は早すぎる。というのもこの試験は一度限り、という謎の制約が課せられているからだ。こんなことはVRL史上初めての、前代未聞のレギュレーションだ。そう、だからこそ今一度原点に戻り、VRLの教育的側面をよく理解し……」

 教師の回答にいささか拍子抜けした柊だったが、この21世紀シナリオはそれほどミステリアスで魅力的なプレミアムシナリオであるのだと実感した。


「……ということで、これを君たちへ送る訓辞とする! ヴィヴァ、フリーダム! 人生を謳歌したまえ!」

 卒業生一同は儀式的ではあるが起立をし、拍手喝采で担任を送り出した。

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