話:少女はため息とともに本を閉じようとして、ふとそれに気付いた。
「なに、これ……?」
真っ白な空間から移動したわけじゃない。ワタシは確かに自分の足で歩いたんだ。
そして、ワタシはなんとなくこう思った。
ワタシは、世界を創っているんだ、って。
ワタシは、物語を綴っているんだ、って。
急速に世界が形成されていく。ワタシ以外の生命が確かに今を生きて、そして、謳歌している。ワタシはやっぱり無色透明などこかに囚われていたんじゃないかと思えるほどに、世界はちっぽけなワタシだけを差し置いてどこまでも奔放に拡がっていて。
それが、なんだか息苦しくて、うれしくて。
わたしの存在がどんどん小さくなっていく。世界がどんどん大きくなっていく。
その感覚に、無感覚に、戸惑いながら、混乱しながら。
今は何も考えられない。
何も書かれていなかった白い紙に、思ったそのままを何の脈絡も整合性も伏線も展開もテーマもなく書き連ねていく。そこには一切の迷いもない、次の文字をどうしようかと迷うほどの技量も知識もない。ワタシはただ書きたいことを書くだけ。
ふわり、頬を撫でる風にふと見上げると、不意の陽光に目が眩んだ。高く高く広がっていく青空を、翼を持った生き物の群れのシルエットが優雅に飛んでいる。眩しくて目を細めた視界のせいで、あんまりにも高い空のせいで、鳥なのかドラゴンなのか、大小さえもわからないけど。
白は塗り潰されて、色彩に呑み込まれた。だけど、ワタシはその中で塗り残されてしまった。この世界で、ワタシだけが無色透明なままだった。
そして、さっきまでの何もなかったはずの世界からあっという間に創造されたその光景の奔流に、ワタシは立ち尽くすことしかできなかった。
「ここは、どこ……?」
ワタシはいつの間にかどこかの街の真ん中にいた。
木材の素朴な色と赤いレンガと漆喰の白、それに数えきれないほどの雑多な色彩が織り成す街。騒々しくも賑やかな色が市場の石畳を照らし、活気に満ちたざわめきが広場を満たしている。
露天商が並ぶ通りには、カラフルな布の屋根が風に揺れ、ところどころに吊るされた乾燥ハーブや果物が日差しを浴びて輝いている。人々の会話、笑い声、道行く足音、露店にぶら下がる商品が揺れる音、それらががやがやと喧しくも楽しげな不協和音を奏でている。
どこからともなく漂ってくるのは、否応なしに問答無用で容赦なくおなかを刺激する香り。ワタシの足は無意識に引き寄せられてしまう。ツンとした香辛料や、ふわりとした甘い香り、それに何かを焼く香ばしい匂い。そのどれもが初めてのはずなのに、じゅるり、口からよだれが止まらないのはどうしてなのかしら。
通りを行き交う人々は、荷車を押す怪力自慢の魔人、子どもの手を引く母親のエルフ、値引き交渉に熱中する商人ゴブリンと様々だ。物売りたちの呼び声や小さな金属の丸い板が触れ合う音が絶えず響き、どこかで奏でられる甲高い笛の音がその喧騒に溶け込んでいる。
中央の広場では、大道芸人が魔法の火を操り、子どもたちが歓声を上げている。旅の吟遊詩人が珍しい楽器を奏でながら物語を語り、人々は足を止めてどこか異国の知らない悲恋を聞き入っている。
その一方で、少し目を凝らせば、街の角の暗がりには薬草や怪しげな魔道具を扱う露店が静かに佇んでいて、そこだけひときわ異様な空気が漂っていた。何も知らないうちは近づかない方が良さそうね。
そんな賑やかな光景に、無色透明なワタシが入る余地はなかった。一か所だけぽつんと塗り忘れたキャンパスの一点みたいな気分だった。
往路の真ん中で突っ立ているワタシのことを、人々はちらりと一瞥するだけで、まるではじめから見えていないみたいに素通りして、それ以上に気に留める様子もなかった。少しだけ寂しいような気もしたけど、そんなことよりも。
何が起きたのかわからない。押し寄せてくる描写の多さに困惑する。
急に世界が目の前に現れた。世界を創ったのがワタシだという自覚も、その感覚もない。ワタシはただ、自分のことを、この世界のことを知りたいと思って、歩き出しただけ。
これが本当にワタシが創った世界なの?
それにしては、見覚えもなければ、感動もないのだけれども。依然として、ワタシは何も知らないままだ。
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