第3話
*
「やぁ、ユミルはいるかな?」
滅多に鳴ることのない呼び鈴が鳴り、玄関に出てみると、見た事のない男性が立っていた。
壮年の終盤といったところだろうか。
短く刈り込まれた薄茶色の髪や髭には白が混ざり、目尻には薄くシワが刻まれている。
しかし微笑んだ目の奥には、トウヤの身が一瞬竦む程の力があった。
「どちら様でしょう? 母とはお約束ですか?」
「母? あぁ、君はあの時の子供か! 随分大きくなったなぁ!」
「?」
如何にもトウヤを知っているような口ぶりだったが、全くもって記憶にない。
「あら、もしかしてリハク? しばらく見ない間に随分とおじさんになったわねぇ」
「おぉ、ユミル。君は相変わらず美しいな。久しぶりに君と話したくなったんだが、いいかね?」
「えぇ、どうぞ。トウヤ、私の部屋にお茶をお願い」
「……わかりました」
不審人物をどう追い出そうか、と考えあぐねていたところ、解決したのは背後からひょっこり現れたユミルだった。
やり取りから察するに、確かに知り合い、それも古い知り合いのようである。
しかし、あの目は――。
獲物を見定めるような、高みから他者を断罪するような、熱や感情といったものを感じさせない、冷たい目だった。
害をなすつもりであるならば、馬鹿正直に呼び鈴など鳴らさないだろうけれど。
胸騒ぎを抑えつつ、トウヤは急いでキッチンへ向かった。
お茶を持って行くと、トウヤの心配を他所にユミルとリハクはにこやかに談笑していた。
リハクからは先程のような威は感じないし、それどころか逆にユミル相手に遠慮しているようにも見える。
首を傾げつつも、トレーに載せたカップと皿に乗せた焼き菓子を二人の前に置いた。
「おぉ、ありがとう」
「ありがとう、トウヤ。私の好きな紅茶をいれてくれたのね」
「はい。リハクさまのお好みに合わなければ、別の物をご用意いたしますが」
「いやいや、それには及ばない。ありがとう、いただくよ」
先程感じたものは、気のせいだったのだろうか?
それ以上その場にいることは出来ず、トウヤは一礼して部屋を出た。
『随分と大きくなったが、そろそろ良いのではないか?』
『あら、まだまだ子供よ』
扉が閉まる寸前に漏れ聞こえた会話は、トウヤについてのようだ。
聞いてはいけないのは、分かっているけれど。
思わずトウヤは気配を殺し、冷たい扉に耳をそばだてた。
『彼のために国へ帰るのを延ばしているのだろう? もう理解出来る歳だと思うがね』
『まだ十八よ。赤ん坊と変わらないじゃない』
『人の中では成人さ。あれらの生涯は瞬く間だ』
『それなら尚更だわ』
『多くの民が君の帰りを待っている。知らない訳ではないだろう?』
『……わかっているわ』
顔は見えずとも、声の調子からユミルが葛藤しているのだとわかる。恐らくその原因は自分であることも、理解出来てしまった。
たまらず、トウヤはその場を離れた。
トレーが扉にぶつかってしまったけれど、気にする余裕はない。
「オレが……母様の、枷に?」
恩人であり唯一であるユミルの心を、自分こそが悩ませているだなんて。
「頭を……冷やそう……」
昼下がり、陽が傾き始めた空はまだ青く、晴れているのにちらほらと雪が舞っている。
十三年前、凍える中で見上げた空に少し似ていて、トウヤの鼻の奥がツンと痛んだ。
*
森の中は静かだった。
雪を踏みしめる音と自身の鼓動だけが、トウヤの頭に響く。
意識を向ければ、頭上の枝には小鳥がとまっているし、木陰には息を潜めた小動物がいるのだけれど。
今のトウヤには、自分以外のどの存在にも意識を向けることが出来なかった。
『彼のために国に帰るのを伸ばしているのだろう?』
『多くの民が君の帰りを待っている』
ユミルがこの地で暮らすことに、疑問を持たなかった訳ではない。
彼女は幼いトウヤを助け、それからずっと母として一緒にいてくれたけれど。
立ち居振る舞いの端々から、高い身分の女性なのだろう、と思ってはいたのだ。
トウヤは実子ではなく拾い子で。
いずれ離れなければならない時が来るだろう、と。
きっと彼女には、帰るところがあるのだから。
ユミルは覚えているだろうか。
虹の向こうへ連れて行く、と言ってくれた言葉を。
「母様の枷になるくらいなら、殺してほしい」
そうすれば、約束は果たされる。
そうすれば、一人にならずに済む。
そうすれば――。
自身の呟きで、はっと我に返る。
迷うことはないけれど、森のだいぶ奥の方まで来てしまっていた。
街の人間が滅多に踏み入れることのない、森の奥深く。
かつてのトウヤが凍え、命を散らそうとしていた辺りだった。
ずっと後をつけてきたのだろう。背後に人の気配があることに気づき、振り返る。
そこにいたのは、セツナだった。
こちらを見る目には涙が溢れ、憎々しげにこちらを睨みつけている。
「あなたは……、どうしてここに……?」
街の人間は森の魔物を忌避して、ここまで入っては来ないのに。
「弟を返して」
「なに?」
「あなたが成長した弟の姿をしているのは、弟を食べたからなんでしょう? 弟は森の魔物に食べられて死んだのだから」
「待て、オレは……」
「優しいあの子は村のために雪龍さまへ祈って死んだのに! そんなあの子の姿を真似て、人間の振りをしているだなんて!」
冷たい空気を吸い込んだような、鈍い輝きがセツナの手に閃く。
セツナは真っ直ぐトウヤの胸の中心へ、銀の刃を向けていた。
『彼のために国へ帰るのを延ばしているのだろう?』
リハクの言葉がよみがえる。
母様の枷になるくらいなら。
「弟の仇!」
スローモーションのように自身の胸に吸い込まれる刃を、トウヤは静かに受け入れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます