第2話
* *
「母様、人参を残さないでください」
「えー、だって、美味しくないんだもの」
「母様がそう言うから、随分小さくしたじゃありませんか」
「小さくても沢山入っていたじゃない」
「それをわざわざ全部避けたんですか」
「大変だったわ」
「……食べたら済む話なのに」
産みの母の記憶はおぼろ気にしか無いけれど、本来のこういうやり取りは親子で役割が逆ではないだろうか。
子供のように唇を尖らせる母の様子に、小さくため息をついた。
料理は好きな部類で、苦という程でもないのが幸いであるが。
「トウヤが家に来てから何年だったかしら……今年でいくつになった? 立派に育ってくれて母様嬉しいわ」
「あの日から十三年、オレは十八になりました」
「十八? こんなに大きくなったのに、まだまだ若いわねぇ」
「そうですか?」
若いと言ったら母の方こそ、だとトウヤは思う。初めて会ったあの日から、母・ユミルには微塵の老いも感じない。
柔らかく波打つ銀髪はいつまでも艷やかだし、楽しげに細められた紫紺の瞳は、子供のように輝いている。色白の肌にはシミも皺も生まれる気配すら無かった。
「でもそろそろ、お嫁さんを探すのもいいかも」
「別に要りません。母様のお世話で手いっぱいですから」
「ふふ。気になる子が出来たら母様に教えなさいね」
「……いませんよ、そんな相手」
にやにやとからかう様な笑みを浮かべた母の前から、食べ残しの人参を下げる。
気になる子と言われ、ふと思い浮かんだのは、街に買い物に行った時に出会った、一人の女性の姿だった。
トウヤを雪龍の生贄に捧げた村は、そのおかげでもないだろうが、雪深い地にあって急激な発展を遂げていた。
温泉が湧いたのである。
インフラが整備され、観光地として確立し、移住する者が増え、村は大きな街になっていった。
ふらりと立ち寄った商店で働いていた女性に、トウヤの胸の奥がザワついた理由は、まだトウヤ自身わかっていない。
「ねぇ、トウヤ。この間スープに入っていた、白いもの。あれが美味しかったからまた食べたいわ」
「白いもの?」
「なんだったかしら……甘くないババロアみたいな?」
「! あぁ……トーフ、ですね」
「トーフ!」
「わかりました。また買っておきますから、その時は人参とトーフのスープにしましょう」
「人参はダメよ」
「まったくもう……」
顔には出さずに済んだはずだが、ユミルに心を覗かれたのかというほど、タイムリーな話題だった。思い浮かべていた女性が、まさにそのトーフを買った店の店員だったから。
「……明日、街へ買い物に行ってきますね。トーフもあれば買ってきます」
「あら? 今回は間隔が短いのね?」
「買い忘れたものがあったんです」
本当は買い忘れなんて無かったけれど。
ユミルのリクエストを口実に、トウヤはトーフ屋の女性に会いに行こうと決めた。
街は活気が溢れ、雪深い地だというのに人が大勢歩いていた。街の中心を流れる川からは湯気が上がり、その川に沿うように両側に道が整備されている。
森の奥から買い物に出てくる時は、人に見られないよう気をつける必要があるけれど。
昔の面影など欠片もない街は、トウヤにとってはただの買い出し場所以外になんの意味もない場所になっていた。
「オレを生贄にした連中も、街の何処かにはいるのだろうが」
怒りも憎しみも、悲しみすら、幼いトウヤの心に生まれる前にユミルによって溶かされた。トウヤにとっては、今やユミルだけが生きる理由となっていた。
「いらっしゃいませー! あ……」
「すみません、トーフを買いたいのですが」
「え、えぇ。確か以前も買ってってくださいましたよね? 気に入っていただけましたか?」
「そうですね、そのようです」
店は観光客が覗きやすいよう、入口が大きく開け放たれている。トーフは観光客向けでは無いのだろう。店先ではなく奥の方に置かれているため、トウヤは店員に声をかけた。会おうと思っていた、あの女性だった。
「お客さん、この辺りにお住まいですか?」
「……なぜ?」
「見かけたことがなかったのに、トーフを買っていかれるので。移住かなーって。雪が多くて大変でしょう?」
「まぁ……そんなところです」
大きく発展したとはいえ、この街には雪龍への信仰も、森の魔物に対する畏れも強く残っているはずだ。
森に住んでいるとは言わない方がいいだろう、とトウヤは言葉を濁した。
それよりも、この女性の何が気にかかるのか、改めて観察しようとする。
セツナと名乗った女性は、トウヤが何かを聞くまでもなく、雪龍への信仰について話し始めた。
「この辺りは昔から雪害が酷くて。雪龍さまに祈りを捧げて、雪害を乗り切ってきた場所なんです。すごいですよね、雪龍さま」
その信仰のために生贄にされたトウヤとしては、諸手を挙げて賛成する気にはならず、曖昧に頷いておく。
「私には弟がいたんですけど、十三年前行っちゃいけないって森に入ってしまって。その時見てた大人たちには、『雪龍さまにお願いに行く』って言ってたらしいんです」
「弟?」
「はい。それっきり弟は帰ってこなくて、森の魔物に食べられてしまったんだって」
「…………」
「でもきっと、弟のお願いを雪龍さまが聞いてくれたんだと思うんです。あの後から温泉が見つかって、小さな村だったのにこんなに大きな街になって」
「雪龍さまのおかげ、ですか」
「はい! それと……弟の、ですかね。すみません、以前来店してくださった時に、貴方の目が弟に似ている気がしてたんです。それでつい弟の話を」
「いえ。もしかしたら、弟さんはどこかで元気に暮らしているかもしれませんよ」
「……ありがとうございます」
セツナの声は少し震えていたけれど、トウヤは気づかないフリをした。
胸がザワつく原因は、思いのほかすぐに判明した。
なんのことは無い、セツナがトウヤに弟の面影を見出したように、トウヤも彼女に姉の記憶を重ねていたのだった。
「じゃあ、また来ます」
ユミルがトーフを気に入った以上、ここには今後も足を運ぶことになるだろう。
弟であることを伝えるつもりはないけれど、トーフのついでに姉の様子を見に来るのも悪くない。
「お待ちしてます。ありがとうごさいましたー!」
朗らかな声に背を向けて、店を出る。
セツナが、どこか昏い瞳で見送っていたことには、トウヤは気付けなかった――。
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