Dreams come true&Power of Love

多田光里

第1話〈完結〉

「よし!今日から新しい職場での勤務、頑張るぞ!」

カーテンを思いっきり開くと、両手を勢い良く上に挙げ、大きく伸びをした。

「あ!今日、燃えるゴミの日だったっけ?」

冷蔵庫に貼ってある、大家からもらったゴミの日の予定表を見に行く。準備をして玄関を出た。ゴミステーションに行く途中、ドンドンと地響きするような低い音が背後から聞こえ、ゴミステーションのある本屋の自動販売機の前で、黒いRV車が停まった。

運転席のドアが開くと、物凄い音量の洋楽が流れて来て、かなり明るい髪色の、パーマをかけている男が降りて来た。自動販売機でコーヒーを買うと、その横に隣接している灰皿の前でタバコに火を着けた。

「この喫煙者の肩身の狭い社会で、まだタバコ吸ってる人、いるんだ…。しかもあの若さで」

思わず横目でチラ見してしまう。

グレーの大きめのパーカーに、足先がすぼまった黒のスウェットのパンツと白のスニーカー。スタイルが良いせいか、ものすごくオシャレに見え、耳のいくつもの金色のピアスが、とても映えていた。

元ヤンかな…。どちらにしても、僕とはまるで違う部類の人間だな。そう思いながら男はゴミを出すと、俯いたまま足早にアパートへと戻ったのだった。


「おはよーっす」

森城桔人が元気に挨拶をしながら、事務所へと入室する。

「ウッス」

いつも現場で一緒の、3つ上の先輩である早見が、すかさず挨拶を返した。

「今朝、超ヤバいヤツ見かけたんスけど」

「ヤバいヤツ?」

「えんじ色に白い線が2本入ってるジャージに、昔話に出てくる、爺さんとか婆さんがよく着てる服みたいなの羽織ってて」

「え?袢纏か?」

「はんてん?」

すかさず、検索する。

「そうそう!マジこれ!しかも黒色の丸メガネしてて。いつの時代から来たんですか的な?」

「そんなヤツ、今時いんの?漫画家とかじゃなくて?」

「いや、俺も今日初めて見て。衝撃っつーか。車ん中で笑い止まんなくて」

ゲタゲタ笑う森城に、配線管理担当の、先輩社員の松原が、

「もしかしたら、ものすごく節約してるのかもよ?」

と、不意に言った。

「あー、学生ってこと?」

松原と同期の高倉が言う。

「学生っすか?まあ、確かに若くは見えたけど…」

「まさか、趣味で…ってことはないだろ?」

早見が眉をひそめた。

「せめてジャージを黒とかにしたら、まだイケるのに」

森城が笑う。

「高校時代の体操服とか?」

高倉が言うと、

「あり得る!」

と言って、また森城が吹き出す。

「とにかく、強烈で。ゴミ捨てに来てたから、また会うかも。俺、毎朝あの自販機でコーヒー買うんで」

言いながら、森城と早見は、作業着へと着替えるため、更衣室へと向かったのだった。


「柴原慧叶です。よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします。松丸綾花です」

とても笑顔の似合う女性だった。

「とりあえず、今日は1日の流れを覚えてもらうのに、横に付いていてもらっていいですか?」

「はい」

そして柴原は、メモとペンを手に持って、その日に教えてもらったことを一生懸命に書き込んだ。

「柴原さんて、27歳なんだよね?」

「あ、はい」

「じゃあ、私の5歳上だ」

「そうなんですね」

「結婚は?」

「してません」

「そうなんだ。私、2歳と1歳の子がいて。毎日大変で」

「年子ですか?」

「そうなの!あ、教授が来たよ」

一瞬で緊張が走る。

「おはようございます」

「おはよう。柴原君、待ってたよ。今日からよろしくね」

「はい!こちらこそよろしくお願いします」

僕は憧れの教授を目の前にして、高鳴る鼓動が抑えられなかった。


あれは5年前のことだった。仕事帰り、落ち込んでしまっていた柴原が、県立図書館に寄った日のことだった。僕は子供の頃から大好きだった恐竜の図鑑をただただ時間を忘れて見ていた。

「君は恐竜が好きなのかい?」

「え?」

突然話しかけられ、驚いて顔を上げると、そこには、日に焼けてはいるものの、とてもイキイキとした瞳を持った、若々しい人が優しい笑顔を見せて立っていた。

「はい。すごく好きです」

「そっか。夢中でこの本を読んでたから」

「今日、会社でイヤな事があって。でも、この本を見てると、いつも夢中になって、イヤな事を忘れるんです」

「じゃあ、博物館の学芸員になるといい」

「は?」

「そしていつか、僕と一緒に恐竜の化石の発掘作業に行こう」

「え…と?」

「この図鑑の監修をしたのは、僕でね」

「え?」

「良かったら、これをあげるよ」

手渡された、恐竜モチーフのキーホルダー。

「あ、ありがとうございます」

柴原はそれを受け取ると、事務室に入って行くその人の背中をジッと見つめていた。

「変わった人だな…」

それが、最初の印象だった。

その日から、1ヶ月に1度ほど、その人と図書館で顔を合わせるようになった。県立大学の教授だと知ったのは、それから半年ほど過ぎた頃で、ひどく驚きはしたものの、その人柄にどんどん惹かれた柴原は、仕事を辞める決意をし、学芸員になるために大学へと進学したのだった。


「柴原君って、本当に使えないね。今までいろんな人たちと仕事してきたけど、レベル低すぎない?」

「すみません。自分なりに努力はしてるんですけど…」

「あー、出た。他の学芸員さんは、そんなこと、自分では絶対に言わないから。そもそも、努力してるかどうかなんて、他人が見て思うことだし」

「すみません」

「いいな~。独身は。守るものがないから気楽に仕事が出来て」

松丸の、いつもの嫌味攻撃が始まる。

電気配線の現場にいた森城は、いつものそのやり取りに、内心かなりモヤモヤしていた。


「はあ」

柴原は、お昼のお弁当も手に付かなかった。最初の頃は、いつか教授の助手になるために、負けてなんかいられない!と思って頑張っていたけれど、毎日のように発せられる松丸の『底辺レベルの出来損ない』とも取れる発言に、さすがに仕事に来ることすら億劫になり、気持ちも憂鬱になってきていた。

憧れだった教授も、柴原の勤務する博物館には、月に2回ほど顔を出すくらいで、ほとんどを県立大学で過ごしていて、結局、一緒に仕事が出来る訳じゃなかった。

「何か、もう頑張れないかも…」

呟きと共に、ため息が漏れた。


「何なんすかね、あの女」

現場から事務所に戻り、作業着から私服に着替えた森城が早見にぼやく。

「まあ、あの男も新人とは言え、かなり頼りなく見えるしな。イライラするんだろ」

「俺、職場って、人間関係が1番大事だと思ってるんで。どんなに仕事が大変でも、人間関係さえ良ければ乗り切れるでしょ」

「まあ、確かに辞める理由は、ほとんど人間関係だもんな…」

「早くあの博物館の現場、終わらねぇかな。あんなの毎日聞かされてたら、マジでストレス」

「あの男の子、参らないといいけど」

早見が言った。

森城は、両手をズボンに突っ込んで、面白くなさそうに事務所の椅子に座ると、背もたれに体重を預け、足を組んだ。

「あ、そうだ。俺、今日の朝、落とし物拾ったんだった」

ポケットの中に入れておいたのを思い出す。

「落とし物?」

「何か、どっかの鍵っぽいんすよね」

「どこで?」

「朝、本屋の駐車場で。落としたままにしとくのも、ちょっとな...と思って」

「落とした人、もしかしたら本屋さんに聞きに行くかもしれないな」

「今日の帰り、本屋の店員に渡して帰った方がいいですかね?」

「ああ。そうだな」

「じゃあ、帰りますか。今日もお疲れっした」

森城は立ち上がると、両手を組んで上に上げ、全身の凝り固まった筋肉と、そしてストレスをほぐすかのように、思いっきり伸びをしたのだった。


そして、翌日の朝のことだった。森城が缶コーヒーを買おうと本屋の駐車場に車を停めると、袢纏男が何やらウロウロしていた。

「もしかして、何か探してんの?」

車から降りて、ためらいはあったものの、袢纏男に声を掛けた。

「え?あ、はい」

「鍵か何か?」

「はい。家の鍵を落としたみたいで。昨日の朝、ゴミを出しに来た時まではあったので」

「たぶん、それ拾ったの、俺。昨日、本屋の店員に預けといた」

「そうなんですか?ありがとうございます。良かった。鍵と一緒に、物凄く大事な物を付けてたので」

「そんなに大事なモンなら、家に置いとけよ」

「毎日、見たくて。憧れの人からもらった、宝物だから…」

「ふぅん」

「見つけてくれてありがとう」

「いや」

森城はいつもの缶コーヒーを買うと、タバコに火を着け、

「普段、何してんの?」

と、袢纏男に尋ねた。

「普段?」

「学生?」

「いえ。社会人です」

「マ…」

ジで!?と言いそうになり、思わず言葉を飲み込む。

「えと、そっちは?」

「俺も社会人だけど」

「ピアスとかしてっても大丈夫な会社なんですか?」

「まあ、仕事してる時は外してるけど」

「そっか。そうですよね。あの、本当にありがとうございました」

袢纏男は、頭を軽く下げ、そそくさとその場を後にしたのだった。

「てか、会話はまともに出来るんだな」

森城はタバコの火を消すと、缶コーヒーを手に、車に乗り込んだ。


そして、翌朝のことだった。

森城が自動販売機の前に車を停めると、袢纏男が立っていた。

「え?何?めっちゃ怖いんだけど」

小さな声で呟いてから、車を降りる。

「あ...。これ、昨日のお礼です。缶コーヒー」

「は!?いや、別にいいし!」

「本当に助かったので。じゃあ」

そして、袢纏男は、軽く頭を下げると、すぐにその場を去ったのだった。

「変なヤツ」

森城は、少しだけ口の端を上げた。

その後も、たまに袢纏男を見掛けてはいたが、その日以来、なかなかタイミングも合わず、話すことはなかった。

季節は夏に変わり、袢纏を脱いだ男のTシャツに、今度は、

『決して怪しい者です』

と書いてあった。

「あいつ、マジでヤバすぎるだろ」

車を発進させていた森城が吹き出す。

「どんなセンスしてんだ?って言うか、ちゃんと仕事行けてんのか?」

よく分からないけれど、たまに自動販売機の横に置いてあるベンチに座り、空を眺めてボーッとしている『怪しい者です』を森城は、いつも何となくバックミラーで眺めていたのだった。


その日の、仕事終わりの時のことだった。森城が工具を片付けている時に、

「柴原さん、明日までにこれやっといてもらえる?さっき教授に頼まれちゃって」

と、松丸が声を掛けていたのが聞こえてきた。

「え?今からですか?」

「私、保育園のお迎えあるから。柴原さん、どうせ予定ないでしょ?」

「あ、今日は、今からアパートのガスコンロの修理に来てもらうことになってて」

「そんなの、明日でもいいでしょ?男の一人暮らしなんだし、ガスコンロが壊れてるくらい、何?」

「…分かりました」

「じゃあ、お願いね」

そして松丸は事務室をあとにし、柴原は、大家と業者に予定変更の電話を掛けていた。

「あー、マジでムカつくわ!」

森城が思わず声を発した。

松丸が、足を止める。

「ずいぶんと自分勝手だよなー。って言うか、分かってて意地悪してるとか?俺ならこんな職場、絶対無理だわ」

森城は俯いたまま、喋り続けた。

「さて、片付けも終わったし、帰りましょうか、先輩。いや、マジで俺の先輩優しくて神だわ」

「おい、森城。聞こえてるぞ」

早見が小声で森城を注意する。

「独り言ですけど?」

森城はそう言うと、早見にも背を向けて、足早に作業車へと向かって歩き出した。

助手席に座って、シートベルトをすると、足を組んで、腕も胸の前で組んだ。

「あんなの、弱いものイジメでしょ」

森城が強い口調で早見に言った。

「よその職場のことだ。あんまり口を出すな」

そんな森城をたしなめるように、早見が静かに言ったのだった。


「え?今日、柴原さん休みなの?」

「はい。体調が悪いとかで」

「マジで使えない。早く辞めればいいのに」

そんな松丸の暴言に、森城は少しイラッとした。

「わざわざ仕事を辞めて大学行ってまで学芸員になったって聞いたけど、何の役にも立ってないし。学芸員、舐めてるよね」

「でも、柴原さん、頑張ってると思いますけど。観光客への説明も分かりやすいですし」

事務担当らしき、先程、柴原の休みを伝えた男性社員が、少し遠慮がちに言ったが、

「は?そんなの誰でも出来るでしょ?マニュアルを暗記すればいいだけなんだから」

松丸は懲りずに悪態を付いた。

コイツ、マジでムカつくな...。

森城は心の中で呟いたのだった。


翌朝、自動販売機の横に腰掛けて、空を眺めている『怪しい者です』に、森城は、車を降りて声を掛けた。

「何見てんだ?」

ハッ、とした表情を見せて、森城の目を見た。

「何か、仕事に行きたくなくて」

「へぇ。何?人間関係?」

男が俯いた。

「今、俺の行ってる現場でも、いつも嫌味を言われてるヤツがいてさ。人にイヤな事が言えるヤツらって、どんな心情なんだろな」

缶コーヒーを購入し、タバコをふかす森城が軽くぼやくと、男の眼鏡の奥の瞳から、一つ、また一つと、涙が零れて来た。

「憧れの職業に、やっと就けたんです。だから、頑張ろうって。嫌なヤツのせいで辞めたくなんかないから、諦めないで続けよう、って。でも、もう気持ちが限界で…」

「無理しなくていいんじゃねぇの?休める間は休んで、そいつと距離取って、ゆっくり自分がどうしたいか考えるのも大事じゃね?それに、辞める覚悟あんなら、1回上に相談してみたら?」

「…洋楽さん…」

「は!?」

「あ、いや。名前知らないから、つい」

「つい、って。そっちだって、袢纏男のくせに」

「袢纏男?」

「俺がつけたあだ名」

「ひどい」

「いや、洋楽さん、もなかなかだろ」

言うと、袢纏男が笑った。

「普段、スーツなんで。せめて家ではラフでいたくて。あれが1番落ち着くんです。良かったら、今度、着てみます?クセになりますよ」

「いや、マジでいいわ」

森城が笑う。

「ありがとうございます」

「ん?」

「もう少し、頑張ってみます」

「ああ…。それと」

「はい」

「そのTシャツ、マジで怪しいぞ?職務質問レベルだろ」

「え!?そんなにヤバいですか?」

オロオロする袢纏男に、

「ヤバいと思ってないなら、もっとヤバい」

と、森城が笑って言うと、

「え?どうしよう。頂き物なので、大事に着なきゃと思って」

「それを渡したヤツも、すげぇ感性だな」

「確かに、ちょっと変わってるかも…」

「ま、頑張れよ」

そして森城は車へと乗り込み、職場へと向かったのだった。


その日の現場での仕事中のことだった。森城が配線の図面を脇に挟み、工具箱を持って歩いていると、

「あの、落ちましたよ」

と、背後から声がした。

振り向くと、そこには柴原が立っていた。

「あ。すんません」

「すごいですね。こんなぐちゃぐちゃな図面、見るだけで、どんな工事をしなきゃいけないか分かるんですか?」

「え?まあ。それが仕事なんで」

「この図面、1階から3階までのがあるんですよね」

柴原が興味深そうに、大きな瞳をより大きくして、図面を眺める。

そこに、

「柴原君、何してんの?サボってないで早く教授に資料を渡しに行って来てよ。私が注意されるでしょ!」

と、松丸の声がした。

「あ、サボりとかじゃなくて、俺が現場の場所分かんなくなって、行き方を聞いてただけなんで。悪かったな、仕事の邪魔して。助かったよ」

森城が、すかさずフォローに入ると、松丸は分が悪そうに事務室へと戻って行った。

「あの…。ありがとうございます」

「何でいつも言い返さねぇの?」

「…倍になって返って来るので」

「パワハラってさ、絶対なくなんねーよな。やってる本人が気付いてないんだから」

「え?」

「いちいち気にすんな。うまく流せ。俺の知ってるヤツも、人間関係で悩んでて。あんただけじゃないから」

森城は、そう言うと、柴原から図面を受け取って、次の工事の場所へと歩き出したのだった。

柴原は、唇を噛み締め、俯いた。


森城と早見が配線工事に取り掛かろうと、博物館内に入った時だった。

「そんなの、自分で調べたらどう!?だから、いつまで経っても仕事出来ないんじゃないの!?」

松丸が柴原へと向かって、少し大きな声を出していた。

「すみません。でも僕、今回、初めてなので。何から手を付けていいか分からなくて」

「マジで使えない!こっちも忙しいんだから勘弁してよ!」

松丸の暴言に、柴原が黙り込んで俯いた。

その様子を見るに見かねた事務担当の職員が、事務室を出て来る。

「何かあったんですか?」

森城が思わず聞いた。

「いや。柴原君、初めて教授に資料まとめるように頼まれたらしくて。パソコンのデータとか、書式とか、松丸さんが持ってるから、習えばいいって言われたらしいんだけど…」

「へえ。で、聞いたらブチ切れられたんだ」

「まあ。松丸さんが原因で辞めてく子が多くて、こっちも困ってるんですけど、なんせ…」

森城は、最後まで話を聞くことなく、事務室の入り口へと立つと、

「仕事を教えるのは、先輩の仕事だろ?あんただって初めて何かをする時、教えてもらわなかったのか?」

松丸が、森城の方へと視線をうつす。

「何なの、あんた。ただの作業員のくせに、偉そうに」

「ただの作業員かもしれないけど、この仕事にも、ちゃんと専門知識はいるし、資格もいるんだよ。別にあんただけが格別なワケじゃねーから。人を見下してばっかいんじゃねーよ」

「は!?」

「そんなのは、ただのイジメだって言ってんだ。毎日毎日、柴原ってヤツに暴言吐いて、何が楽しいんだよ。マジで終わってるだろ」

森城はそこまで言うと、静まり返った事務室をあとにした。


「森城!!ちょっと来い!!」

作業を終えて、早見と事務所に戻ると、所長に呼び出された。

「博物館の方から電話があった。お前をもう現場に来させないように、ってな。モラハラされた、と、女性の学芸員が、かなり怒ってるそうだ」

「モラハラ?俺が?」

「その人のことを見下したような言い方をしたんだろ?」

「俺は正論を言っただけですけど」

「いいから。明日にでも、早見と2人で謝罪に行くように。現場には、別の班のヤツらを行かせるから」

「…謝罪ねぇ。俺は悪くないと思いますけどね」

そう呟くと、森城は所長室をあとにしたのだった。


翌朝、早見と菓子箱を持って、博物館の事務室を訪れた。柴原がいつも座っている机の上には全く物がなく、綺麗に片付いていた。

「あの、柴原さんは?」

森城が尋ねると、

「あいつも同類だから。上に言って、今日付けで異動させてやったの」

松丸が、勝ち誇ったように言葉を放った。

「は!?何であいつが?悪いのは俺だろ?こうやってわざわざ謝りに来てんのに。何なんだよ!」

「森城!!」

早見が大声を出して、森城を止める。

「モラハラだとか、セクハラだとか言えば、女は守られるとでも思ってんの?あんたのやってることは、立派なパワハラだっただろ!」

森城はそう言うと、頭を下げて謝る早見を置いて、車へと向かって歩き出したのだった。


「バカだねー。で、現場外されてヘコんでんのか?」

高倉が言った。

「俺は別にいいんすけど。まさか、そいつまで異動させられると思ってなくて」

「まあ、そこまでするとは、誰も思わないしな。しかも、その松丸って女、博物館の館長の娘だったんだろ?そりゃ娘のために異動させるよな」

高倉の言葉に森城がため息を吐いて、机にぶっ潰した。

「マジで悪いことした。わざわざ前の職場辞めてまで大学行って学芸員になったって、言ってたし」

さすがの高倉も、めずらしく、あまりにも落ち込む森城に、それ以上は言葉を掛けることが出来なかった。


その日から5日が過ぎた頃だった。久しぶりに袢纏男がベンチに座っていた。

森城は、缶コーヒーを買おうと車を降り、そしてタバコに火をつけたが、声を掛けずにいた。

「どうしたんですか?」

袢纏男が声を掛けて来た。

「何が?」

「元気ないから」

「そうか?」

そして沈黙が訪れた。

「大丈夫ですか?」

袢纏男が、また声を掛けてくる。

「何が?」

「元気ないから」

「何だよ、それ」

森城が少しだけ口の端に笑みを浮かべた。

「何かあったんですか?」

「前に話してた、嫌味を言われてたヤツのこと、庇うつもりが、逆に迷惑かけたみたいで」

「迷惑?」

「俺も現場出禁になったし、そいつも異動させられた」

「え?出禁ですか?」

「やっぱ、パワハラやってるヤツって、強いよな。ただでは済ませない、って言う意地がさ」

森城が、タバコを灰皿への中へと落とした。

「大丈夫ですよ。その人、きっと異動になって安心してると思います」

「そんなの、分かんねーじゃん」

「分かります。だって、その人、僕だから」

「…は?」

「本人が言ってるんだから、間違いないです」

「え?どういうこと?」

「ありがとう。森城さん。あの時、森城さんが僕のことを庇ってくれて、すごく嬉しかったです」

森城は、しばらく言葉を失い、そして、ようやく頭の中で考えがまとまった時に、

「柴原なのか?」

と、声を発することが出来た。

「はい」

「ウソだろ…。全然違くね?おまえ、今、どんな格好してると思ってんだ?」

「し、失礼すぎるでしょ!」

真っ赤になる。

「って言うか、いつから?」

「図面を落とした日、帽子は被ってたけど、作業用の眼鏡とマスクをしてなかったでしょ?そこで初めて気が付きました」

「そっか。いや、会えて良かった。すげぇ気になってて。何か、マジで悪かった。まさか異動までさせるなんて思ってなくて」

「ううん。本当に辛かったから、逆に異動できて良かったです」

「異動先では、うまくやれてんの?」

「はい。今は、教授の助手をさせてもらってて。今日は、お休みなんです」

「何か予定あんの?」

「いえ。特には。家でゴロゴロしてると思います。何か、ゆっくりしたくて。そっちこそ、現場出禁になったって本当なんですか?」

「ああ。だから、会社行っても、やることなくて。来週から新しい現場に行くけど」

「ごめんなさい。僕のせいで」

「お前のせいじゃない。どう考えたって、あの女が悪いだろ」

「ありがとう」

「俺も今日は会社休むわ」

「え?」

「気晴らしに、どっか遊びに行こうぜ」

柴原は驚いたように目を開き、そしてすぐに笑顔になったのだった。


「じゃあ、あのTシャツ、教授からの土産ってこと?」

「はい」

柴原のリクエストで、パンケーキの有名なお店に入り、向かい合いながらコーヒーを飲む。

「変わってるな。それを普通に着てるお前も変わってるけど」

「だから、あれは、本当に家でしか着てないんです」

白いTシャツの上に紺色の半袖シャツを羽織り、カーキ色のパンツを履いた柴原が、必死に弁解する。

「まさか、袢纏男が柴原だったなんてな。きっちりスーツ着て、前髪もきちんと分けてセットしてたし。しかもカラーコンタクトまでして。朝はあんなにモサモサしてんのに」

森城が、口の端を上げて笑う。

「モサモサって…。でも、僕も、森城さんのこと、ただの口の悪い元ヤンかと思ってたけど、あんな図面と向き合って、仕事に対して誇りも自信も持ってて。松丸さんに意見してくれた時、正義のヒーローかと思いました」

「それ、イジってるだろ?」

「本気で感謝してるんです。僕、教授の助手になりたくて学芸員になったから。森城さんのおかげで、夢が叶ったので」

「そっか。それなら良かった」

森城が笑顔になった。


そしてそれからしばらくして、松丸が、新しく異動してきた女性の学芸員にパワハラで訴えられたと、柴原の耳に入って来た。

「やっぱさ、人に対してひどいことするとさ、巡り巡って自分に返って来るんだよ」

「そうだね。さすがに松丸さんに同情する気は起きないかな…」

「柴原」

「ん?」

「いつから中国に化石の発掘行くんだっけ?」

「えと、来週の日曜日に出発する」

2人分のコーヒーを準備して、柴原がテーブルに置く。そして森城の座るソファへと腰掛けた。

その肩に手を回すと、森城は自分の方へと引き寄せ、その胸に、柴原は顔を埋めた。

「気を付けて行って来いよ?」

「うん」

「帰って来たら、連絡して」

「うん」

「さすがにその袢纏は置いてくんだろ?」

「リラックスするのに持って行こうかな」

「ダメだ。そういうモサくるしい姿は俺だけに見せとけ」

「モサくるしいって…」

柴原が顔を赤くする。

そんな柴原に、森城はゆっくりと顔を近付けると唇を重ねた。

「良かった。お前が柴原で」

「うん。僕も。洋楽さんのことも、森城さんのことも、どっちのことも気になり始めてたから、2人が同一人物で良かった。何となく、雰囲気が似てるな、とは思ってたけど」

そして、唇が深く重なり合い、ソファへと倒れ込む。

「俺も、どっちのことも何となく心配で、目が離せなかった」

「きっと、お互いに『雰囲気が似てるな』と思ってたんだろうね」

「感覚的に?」

「うん」

「そうかもな」

そして、2人は指を絡めると、そのまま身体を重ね合った。

ただただ平穏でいられることこそが幸せなことなんだと、改めて気付かされる。その幸せを噛み締めながら、この先も、当たり前の日常を2人で楽しみながら過ごして行くのだった。〈完〉

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