慈悲の心

「そろそろいいか」


 低い声が診療所の静寂を破る。


 セリウスが顔を上げると、診療室の入り口に一人の青年が立っていた。


 朱色の古臭い装丁の本を一度ぱたりと閉じ、無表情のままこちらを見ている。


 肩にかかるまっすぐな黒髪の奥で冷えた炎を思わせるような深紅の瞳がちらりと覗く。


 アルバートはまるで影の中から出てきたような存在だった。


 黒い軍服がその体躯にぴったりと馴染み、胸元には精緻に刺繍された金の肩章が光を受けて輝く。腰に佩く金房の飾り緒のついた細剣がその威厳を一層引き立てていた。袖口から覗く白いシャツが、凛とした冷徹さを感じさせる一方で、装飾は最小限に抑えられ、彼の気品を無駄なく表現している。


「……アルバート」


 セリウスはベッドの端に腰を下ろしまだ少しぼんやりしたまま応じたが、アルバートの眉がわずかに持ち上がると、すぐに察して姿勢を正す。


「話しかけるタイミングを測っていたんだがな」


 アルバートの言葉は冷たいが、その口元に浮かぶ薄い笑みには、わずかな皮肉が滲んでいた。


「……って、なんのことですか」


 セリウスは眉をひそめるが、アルバートは何のことでもないように本を片手でもてあそぶようにしながら静かに歩み寄った。


「君の、昨晩の想い出話だよ」


 その問いに、セリウスは一瞬固まる。そして次の瞬間、眉間に皺を寄せた。


「……別に、大したことじゃな」


「ほう。『大したことじゃない』ときたか」


 セリウスが言い終わる前にアルバートが冷ややかな声で繰り返す。エヴァンスは面白い演目が始まる雰囲気に軽く目を輝かせる。


 アルバートは椅子に腰掛け、鋭い視線をセリウスに向けた。


「元婚約者の婚約披露パーティーの招待状を受け取って、自分の部下と結婚すると知り、自棄酒に走る。しかも君は下戸だというのに、飲みもしない酒をあおって醜態を晒し、その結果、連れ込まれた街一番の高級娼館でコトが始まるより前にやや正気を取り戻した君は、羞恥のあまり慌てて女性を突き飛ばして転倒させ、そのまま家に逃げ帰った。というのが私のところにもたらされた情報だが、何か訂正はあるか」


 ひと息で淡々と言い放つアルバートの声には、遠慮も同情も躊躇も欠片もない。


「うわ」


 外道すぎる、と揶揄うように言葉を落として、エヴァンスは真っ青になったセリウスを見下ろした。


「……なんてことだ」


 セリウスは頭を抱えた。


 娼館を飛び出したあたりからの記憶はあるが、まさか女性を突き飛ばして転倒させたとは最悪だ。紳士にとってあるまじきことである。


「彼女、怪我は」


「幸いにして無傷だったようだが。念のために謝罪に行くのが最善だと私は思う」


 被害届の類は一切ないので、そこは安心したまえ。


 続けて冷たい言葉を浴びせかけられると、先ほどまでの気分の良さが一転し頭の先からつま先まで冷気で覆われたような気分になった。頭を抱えて自分のしでかしを反芻し、羞恥のあまりぶつぶつと呟き始めるセリウスの横で、エヴァンスがお腹を抱えて爆笑している。


「君のように目立つ人物がやらかせば、自然と耳に入る」


 アルバートは肩をすくめた。


「私のところに連絡が来たときは、笑いを堪えるのが大変だったよ」


 淡々と告げながらも、少しからかいを混ぜたような柔和な光が一瞬赤い瞳に流れる。


 アルバートの言葉を耳に入れながら、セリウスは自分の髪の毛をガシガシと搔きむしった。


「昨日のことを永遠に記憶から抹消したいです」


「君はまだ青いな」


 酷薄に笑うアルバートの声には問い詰めるような厳しさがあるが、その奥にあるのは友人としての心配のようにも思える。


「……彼女が俺の元部下と幸せになる。それを見て……なんだか、急にみっともない自分が嫌になったのかもしれません」


 未練は感じない。


 ただ、別れ際、彼女の言われたことが記憶からこぽりと浮かび上がって胸を刺す。


 吐露されたセリウスの言葉に、アルバートは一瞬目を細めた。そして、短い沈黙の後にため息をつきながら言った。


「君は自分を過小評価する癖があるな。いいか、セリウス、君の元上官で友人で年長者としての忠告だ。私は君に同情するつもりはないが……もう少し自分を大切にするべきだと思っている」


「珍しいな。お前がそんなこと言うなんて」


 笑いをようやく収めて診療室のカーテンをひとつずつ閉めていたエヴァンスが振り返って目を細めると、アルバートは小さく笑った。


「私にも慈悲の心くらいはある」

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